真尋はゆっくりと絵に近づく。
真尋はゆっくりと絵に近づく。
奇妙な絵が真尋のすぐ目の前にあった。
真尋がこの部屋に閉じ込められてからどれくらい時間が経っただろうか。その部屋には時計は置かれていなかったので、真尋は時間感覚を失っていた。正確な時間は分からない。ただ、自分が目覚めてから一時間は経っているはずだ。その時間の中で、この部屋は何度も確認したし、この奇妙な絵だって十分な時間をかけて観察もした。
ある意味では、それが盲点だったのかもしれない。
真尋がまだ調べていないところ。
それは真尋の目には見えているのに、そして見えていなかった場所だった。それは、何か別のもので隠されていた場所でもあった。
絵は額に入れられることもなく裸で壁にかけられていた。後ろで留め具のようなもので固定されているのかもしれない。
恐る恐る絵に手を伸ばす。そして両手を絵の下辺にかけた。大型のキャンバスに描かれたその絵は、真尋の両手にずしりとした重みを残した。ゆっくりと絵を上に持ち上げる。絵が留め具から外れたような感触があった。そのまま絵をゆっくりと外していった。
「これは……」
真尋の目に初めに映ったのは、ボタンだった。
そのボタンは、絵がかけられていた壁に設けられていた。キャンバスの裏側の凹み部分でちょうど絵で隠されるようになっていたのだ。ベージュのプラスチック製のベースの上に、上下二つのボタンが設けられている。上側が黒。下側が赤。
真尋は両手で抱えた絵を一旦床の上に置く。そして視線をそのボタンに戻した。この二つのボタンはプッシュ式のボタンのようだった。ただ、そのボタンの上にも横にも何の記載も入っていない。そもそもとして何のボタンなのかも分からない。
「何なの……」
真尋は無意識のうちに呟いていた。
絵に隠されていたボタン。
それが何でもないボタンである訳がなかった。何か重要なボタンであることは間違い無いと思った。だけど、このボタンの意味がどうしても分からない。そもそもとして二つある理由も分からなかった。
どちらかを選んで押せ、ということだろうか……。
考えてみても答えはわからない。
それなら押してみるしかない。
真尋は右手の人差し指を上側の黒いボタンの上に持っていく。そして押そうとした。だけど、そのボタンに触れる直前でその右手は止まってしまった。
何も考えずに黒のボタンを押しても、本当にいいのだろうか……。
いい訳がない。
真尋は直感的にそう感じた。
どちらのボタンを押すかが、真尋自身の運命を大きく左右するのではないのか。何が起こるかはわからない。だけど、選択を誤ってしまうと、とてつもない絶望的な何かが真尋の身を襲うのではないのか。
一度そのような考えにとらわれると、もう真尋の右手の人差し指は一ミリも前には進むことはできなかった。
黒と赤……。
どちらが正解なのか……。
そもそもボタンを押すこと自体が正解なのかもわからない。
黒いボタンを押そうが赤いボタンを押そうが、いずれにせよ真尋の身に絶望的な何かが起こってしまうという可能性もあるのかもしれない。どちらのボタンも押さずにひたすら助けを待つ、という選択肢が正解の可能性もあるのかもしれない。
そう考えると、真尋はますますその目の前のボタンを押すことに抵抗を感じた。
だけど、このボタンは絵の後ろにわざわざ隠されていた。
真尋がその存在に気づいたのは、本当に偶然だった。このボタンの存在に気づかないという可能性も十分にあった。その一点だけをとってみても、やはりどちらか一方のボタンを押すというのが正解である気がした。
様々な思考が真尋の頭の中を回転し続ける。
そのうち、ある一つの考えが真尋の頭の中に浮かび上がってくる。それは次のような考えだった。
そもそも、いくら考えたところで、今の私に答えなんて分かる訳がないんだ……。
だって、なぜ自分が今ここにいるのかすらも分からないのに……。
そのような自分が、何時間、何十時間考えたところで、答えに辿り着ける訳がない。
それは一種の開き直りだった。あとは、ボタンを押さずに何もせずにこの閉ざされた部屋で助けを待ち続けるのか、あるいは、何が起こるか分からないが、『ボタンを押す』という明確な行動をとってみるのか。自分がどちらを選択したいかだけの問題のような気がした。
もしそうだとしたら、真尋は、ボタンを押してみようと思った。待ち続けていても本当に答えが現れるのかは分からない。だけどボタンを押すことによってポジティブなものかネガティブなものかは分からないけど、何かしらの結果が訪れるはず。
今ここでボタンを押さずに、
『ボタンを押すべきか、押さずに過ごすべきか』
そのことを迷いながら、いつ来るか分からない助けをこの部屋でひたすら待ち続ける。
そんなことは絶対に嫌だった。その状況を想像するだけでも気が狂いそうだった。
ボタンを押そう……。
真尋は決意した。
だけど次の問題は、黒いボタンと赤いボタン、どちらのボタンを押すか、だった。
そのヒントもこの部屋のどこかにあるのだろうか。
真尋は改めて部屋の中を見回す。
壁から外されて今は床に置かれている奇妙な絵。一つの机。その机の上に置かれた一枚の紙。そして鍵がかけられて開かないドア。
真尋は床に置かれた絵を手に取った。絵の裏側を時間をかけて観察する。木枠にキャンバスがホチキスのようなもので固定されている。中央には絵を壁に掛けるための掛け紐が設けられている。
特に異常は見当たらなかった。ヒントとなるような書き込みがないかと期待していたのだけど、それらしい書き込みも見つからない。
真尋はその絵を床に戻した。