そうだ。
そうだ。
あの夜、母はスーツケースを持ってどこかに出かけて行った。
そしてその早朝に母は帰ってきた。
母が家を出る時に、真尋にこぼした言葉、
「真尋。何も無かったの。何も無かったのよ。だからあなたも忘れなさい」
その言葉がまざまざと真尋の中で蘇る。
この言葉はどのような意味だったのだろうか。真尋の頭に蘇ったのは、その言葉を真尋に向かって言い放つ母の姿だけだった。その言葉がどうして母の口からこぼれ出たのか。その言葉の裏に、どのような現実が隠れているのか。真尋にはどうしても思い出せなかった。
ただ、
「何も無かった」
とわざわざ言ったのだとしたら、それは、何かがあったということなのではないのか。本当に何も無かったら、わざわざ「何も無かったの」と自分の娘に言うはずがない。
そして、家に帰った母はスーツケースをその手には持っていなかった。そのスーツケースをどこかに運ぶ必要があったということなのだろうか。
そもそも、あのスーツケースの中には、何が入っていたのだろう……。
そのとき真尋の中で、母に関する別の記憶が顔をのぞかせ始める。
それは、真尋が小学生の頃、母に自分の父親について尋ねた時に、母が真尋に投げつけるように呟いた、
「真尋にはママがいるから、パパは必要ないでしょ……」
という言葉だった。その時に真尋に見せた能面のような冷たい表情だった。
そして、高校生の時に戸籍謄本の中に見た、私の父の欄に記載された『除籍』の文字。それに引き続いて記載された『失踪宣告』と『差出人 佐藤美和』の文字だった。
真尋の中で、それらの記憶が重ね合わされていく。
もしかして……、あのスーツケースの中には……。
母が……、父を……。
真尋は行ったり来たりと歩き続けていた足を止め、部屋の中央に立ち止まる。
視線を上に上げると、奇妙な絵がその目の前にあった。
真尋は小さく首を横に振った。そして、
「そんな訳がない……。さすがに考えすぎだよ……」
自分自身に言い聞かせるように呟いた。
母が父をどうにかしたなんて、そんなことがある訳がない。そんなことはテレビの中の世界での出来事なんだ。そんなことが自分の身近に起こるなんて、ある訳がない。
きっと、母は、父の浮気か何かで離婚することになって、それを自分の娘に言いづらいだけなんだ。そしてあのスーツケースは、母が知り合いから借りていたもので、それをあの夜に返しに行っただけなんだ。
真尋は自分自身を納得させるためだけに、自分の頭の中で言葉を重ねていた。
でも、もしそうだとしたら……、どうしてあんな真夜中にスーツケースを返しにいく必要があったの……?
どうして自分の娘に、
「真尋。何も無かったの。何も無かったのよ。だからあなたも忘れなさい」
と言う必要があったの……?
自分の中から次々に湧き起こる疑問を必死になって押さえつけるのだけど、それでも、どんどん思考が薄暗い方に吸い寄せられていく。
きっと、こんな部屋に閉じ込められているからだ。そしてこんな奇妙な絵があるからだ。
真尋は、睨むように目の前の奇妙な絵を見つめる。
机の上に置かれた紙に印刷された、
『真実は、いつでもすぐそばにある』
という文字。結局その『真実』は、この絵の中にあったのだろうか。
もしそうだとしたら、真尋の中で蘇った一つのイメージが、『真実』だったのだろうか。もしそうだとしたら、この文字を書いた誰かは、なぜ真尋の中の記憶を知ることができたのだろうか。
真尋の頭の中では、様々な思考が浮かんでは消えていった。
ふと、その様々な思考の一つとして、真尋の頭の中にある考えが浮かんだ。
紙に印刷された『真実は、いつでもすぐそばにある』という文の中の『真実』……。
その『真実』とは、実はこの絵の内容以外のものを指しているのではないのか……。
ただ、この閉じ込められた部屋には、この奇妙な絵と、机と、その上に置かれた一枚の紙しかない。机は何の変哲もないシンプルな机で、さきほど詳しく調べてみたのだけど特に異常は見当たらなかった。
真尋は改めて部屋の中を見渡す。
さきほどの三つ以外のもので、真尋の目を引くものは一つも見当たらなかった。
この部屋で調べられるところは全て調べたはず。
調べた……?
本当に……?
そのとき真尋の頭の中で、突然稲妻のように一つの考えが貫いた。
この部屋の中で、一箇所だけまだ調べていないところがある……。