真尋は、高校二年生のときに自分の戸籍謄本を目にしたあの日のことをまざまざと思い出していた。
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真尋は、高校二年生のときに自分の戸籍謄本を目にしたあの日のことをまざまざと思い出していた。
公園のゴミ箱に戸籍謄本を捨てた真尋は、そのまま自分の家に帰った。そしてあの狭苦しい家での母との生活という日常に戻ったのだ。当然、自分の戸籍謄本を見たことは母に一言だって言わなかった。
戸籍謄本で目にした父の『佐藤健太郎』という名前、そしてその下に記載された『失踪宣告』という四文字。それらについて改めて考えることもなかった。それらを目にした時に真尋の頭に浮かんだ一つのイメージ、
夜。
母。
そしてその母を見送る六歳の自分。
そのイメージの正体を自分の中で探ることもしなかった。あえて、それらから目を逸らそうとしていた。そのイメージの先にある不吉な事実を予感して、その事実から目を逸らすためだったのか。あるいは、小さい家で息を潜めるようにして生きている私と母の二人、という現実からも目を逸らすためだったのか。分からない。
目を逸らしているうちに、その日の記憶は真尋の中でどんどん薄れていった。
その当時の真尋には、母と暮らすその小さい家を出ることだけが希望だった。
必死になって受験勉強をして真尋は都内の国立大学に合格し、二年前、奨学金ももらって一人暮らしを始めた。そして物心ついた時から母と一緒に住んでいたあの小さな家からようやく離れることができた。
真尋は立ち上がって、この閉ざされた部屋にかけられた奇妙な絵に再び目をやる。
建物から出ていく女性と、それを窓から無表情に眺める少女。
その絵を媒介にするかのように自分の中で蘇った、高校二年生の自分の頭に浮かんだ一つのイメージ。自分の戸籍謄本を見て、そして父の失踪宣告の事実を知った時に、私は何かを思い出そうとしていた。
この絵と同じような状況だったはず。
家を出ていく母と、その母を見送る自分。
私は何を思い出そうとしたのだろうか……。
そこに、自分がこの部屋に閉じ込められた理由のヒントが隠されているような気がした。
真尋は奇妙な絵をじっと見つめる。
何かを思い出しそうな感覚が自分の中にあった。それと同時に、その記憶は深い海に沈み込んでいるかのように、真尋の目にはぼやけて映るだけで、その正体を捉えることができなかった。その深い海に両手を差し込んで、必死になってその記憶をつまみ上げようとしても、真尋の手は何物も掴むことができなかった。あと少しだった。あと少しで、その記憶を思い出せそうだった。それなのに……。
真尋は無意識のうちに歩き出す。もうじっとしていられなかった。
そして小さい部屋の中で、行ったり来たりを繰り返す。
「夜……。母……。六歳の私……」
呪文のようにこの言葉をひたすら呟き続けた。
「夜……。母……。六歳の私……。夜……。母……。六歳の私……」
その時だった。
稲妻が走るかのように、真尋の頭の中に一つの光景が突然蘇ったのだ。
「スーツケース……」
その光景の中には母がいた。
あたりは暗い。夜なのだろう。
母はスーツケースに何やら詰めていた。母の背中が邪魔をして、それが何なのかは真尋の目には見えない。ただ、真尋は空っぽの心でその様子を見つめ続けていた。
母はスーツケースを閉めて、そのスーツケースを引きずるようにして玄関に向かう。そのスーツケースはやけに重そうだった。
そして真尋の方を振り返った。
「真尋。何も無かったの。何も無かったのよ。だからあなたも忘れなさい」
母は怖いくらい真剣な顔だった。そしてまた玄関の方に向き直るとそのままスーツケースを持って家を出ていった。
小さい子供だった真尋は、ただ呆然とその母を見送ることしかできなかった。
その光景には続きがあった。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
あたりは白白し始めている。朝も近いのかもしれない。
母を見送った真尋は、閉められたドアをぼんやりと見つめ続けていた。どのくらいの時間だったのか。一時間だったのかもしれないし、三時間だったのかもしれない。ただ、真尋は眠ることもせずに深夜の一人の部屋でそのドアを見続けていた。眠るということを忘れてしまったかのように。
母は突然帰ってきた。
起きたままの真尋に一瞬驚いた表情を浮かべた後、小さな声で
「ただいま」
と声をかけて家の中に入る。そのまま洗面所に向かった。そして長いこと何度も何度も手を石鹸で洗い続けていた。真尋はその背中を黙って見つめる。
この部屋を出る時には持っていたスーツケースを、家に帰った母は持ち合わせてはいなかった……。