佐藤真尋が眠りから目を覚ますと、自分の顔を蛍光灯の光が照らしていることにまず気づいた。
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佐藤真尋が眠りから目を覚ますと、自分の顔を蛍光灯の光が照らしていることにまず気づいた。
あれ、昨夜、電気消し忘れたんだっけ?
そんなことを思いながら大きく伸びをする。次に気づいたのは、自分がベッドに寝ていないということだった。壁にもたれかかるようにして座っている。座ったまま眠ったのか体の節々が痛んだ。伸びで上に伸ばした腕は、真尋の後ろの壁に当たっていた。
あたりは妙に静かだった。
いつもなら、真尋の住むマンションの前の通りを走る車の音や、すぐ近くの公園の木々にとまった雀がうるさく鳴いているはずなのに、真尋の耳にはそれらの音が全く聞こえてこなかった。天井の蛍光灯からなのか、微かにジージーという低音だけが聞こえていた。
真尋は自分の目をこすった。
そして目の前の壁を見つめる。
その目に、自分の部屋とは全く違った、見慣れない光景が映っていた。
六畳くらいの部屋には特に家具という家具が置かれておらず、窓もない。天井に設けられた蛍光灯が、その部屋の四つの壁を無機質に照らしている。真尋はフローリングの床に座り込み、そしてその壁の一つにもたれかかっていた。
真尋は、自分が見知らぬ部屋にいることに初めて気づいた。
「え?」
ようやく、自分の身に何かしらの異常が発生していることに思い至る。
どうして私は、こんなところにいるの?
必死になって昨夜のことを思い出そうとする。
昨夜は大学のバドミントンサークルの活動が遅くなって、家に帰ったのは午後九時を回っていた。親友の真由美と一緒の電車に乗ったし、確かにいつものように一人暮らしの部屋に帰ってきた。
そして……。
自分の部屋のドアを開けたところまでは覚えていた。だけど、その後の記憶が自分の中からぽっかりと抜け落ちていた。昨夜の夕食をいつ食べたのか、昨夜はいつ風呂に入ったのか、そしていつ自分のベッドの中に潜り込んだのか。まるでノートからそのシーンだけ切り取られてしまったかのように、真尋の記憶からは抜け落ちてしまっていたのだ。
「私の身に、何が起こっているの?」
真尋の呟きに、誰も答えてはくれなかった。
ひどく頭が痛む。昨夜、自宅に帰った後のことを思い出そうとすると、その頭痛が邪魔をする。うまく思い出せない。ただ時間が経つにつれて、少しずつ思考がはっきりとしてくる。そして、それに伴って、自分を今取り巻く状況の異常さが徐々に深刻なものとして真尋の胸に迫ってきた。昨夜自分に何かが起きたのは確かだった。
「まず、今の状況を整理してみよう」
真尋は自分に言い聞かせるように口にする。
昨夜家に帰ったまでの記憶はある。
だけど、自宅のドアを開けた後の記憶がない。
そして起きると見知らぬ部屋に一人寝ていた。
自分の服装を確認すると、赤いニットのセーターに黒のロングスカートを履いている。昨夜大学に行った時の格好のままだ。
その部屋には時計もなかったので時間が全く分からなかった。今が朝なのか、それとも夜なのか。自分がどれだけの時間寝ていたのか。そもそもとして、自分の記憶にある『昨日』は、本当に昨日のことなのか。
真尋は部屋を見渡すように視線を巡らせる。
六畳くらいの部屋は窓が一つもなく、ただ、ドアが一つ真尋の右手側の壁に設けられていた。そして真尋の正面の壁の隅に小さな机が置かれていた。
とりあえず外に出てみよう。
真尋は立ち上がり自分の右手側のドアに歩み寄った。そしてドアノブに手をかけて力を入れる。ドアはガチャという鈍い音を立てるだけでぴくりとも動かなかった。何度か押したり引いたりしてみたのだけど、やはりドアは開かない。鍵がかけられているようだ。ドアを開けるのを諦めて、ドアからもともと自分が座っていた場所に戻ろうとしたときだった。
「あ!」
真尋は小さな悲鳴をあげる。
自分がもたれかかった壁に一つの絵がかけられていたのだ。それまでは自分がその壁にもたれかかっていた状態だったので、その絵に気づかなかった。
薄暗い部屋の壁に、ただ一つ飾られた絵。
それは、見る者を不気味な世界へと誘う、奇妙な存在感を放っていた。
絵は、ぼんやりと霞んだ風景を描いている。
遠景には、薄暗い森が立ち並び、その奥には、巨大な山脈がそびえ立っている。空は、鉛色のような重苦しい色で覆われ、太陽の光はどこにも見当たらない。
前景には、奇妙な形をした建物が描かれている。それは、歪んだ塔のような形をしており、無数の窓が不気味な光を放っている。窓枠には、蔦が絡みつき、まるで生き物のように蠢いているようだ。
建物の中央には、巨大な扉が描かれている。扉は、黒曜石のように光沢があり、不気味な模様が刻まれている。扉の隙間からは、薄紫色の光が漏れ出ており、異様な雰囲気を醸し出している。
絵を見つめる真尋は、背筋にぞっとするような悪寒を感じた。まるで、絵の中の異様な世界に引き込まれそうになるような感覚だった。
「この絵は何なの?」
痛いくらいの静寂の部屋に、真尋の言葉が消えていく。
真尋はその絵から無理やり視線を切り離して、向かいの壁の隅に置かれている小さな机に足を向けた。机の上には一枚の紙切れが置かれていた。そしてそこには次のような文が、プリンターで印刷されていた。
『真実は、いつでもすぐそばにある』