繰り返される告白
「私のお父さんさ。前からおかしいとは思ってたんた。私と顔を合わせるのをいつも避けるようでさ。毎日飲んで帰っては、すぐに寝てしまって話もしようとしない」
美優のこれから始まる悲しい話に、僕は何を言えばいいかわからない。わからないのに、美優は話を止めようとはしない。そして僕には美優を止められない事もわかっていた。
「でもさ、それはそれでもいいと思ってた。お父さんさ、私のお母さんの事、ホントに好きだったって。だからお母さんを事故で亡くしてから、変わってしまったって。おばさんに良く聞かされていたから。だから、お父さんが私と話してくれないのは、仕方ないのかなって思ってた」
美優の母はまだ物心つく前に亡くなったらしい。美優は母親の事を覚えていないと言っていた。もちろん僕も美優の母親の事は記憶にない。
美優の家族で知っているのは、いつもどこか空っぽな様子で見つめる父親と、たまに来るその姉。つまり美優の伯母さんだけだ。
「それでも前はまだ話してくれてた。最低限ではあったけど、話しかければ答えてはくれたし、必要なものは準備してくれた。お金も言えば出してくれた。だからまだつながっていた。でも本当に口も聞かなくなったのは、高校生になってくらいかな。その頃には一週間くらい顔も見ないなんてざらになってた」
美優はいつのまにか僕の方を見てはいなかった。顔をうつむけて、ただ言葉を吐き出すかのように独りで話し続けていた。
吐き出さずにはいられなかったのだろう。美優の中でずっと鬱屈してきた想いは、たぶんこの時をきっかけにあふれ出してしまったのだ。
だけどそれを聴いたはずの僕は全て忘れてしまっていた。
僕は彼女の気持ちにどう答えたのかわからない。覚えていない。
だからもういちどぶつけずにはいられなかったんだろう。
「お父さんにとっては、ずっと私はいないのと一緒だった。何をしても何も言わなかった。喧嘩をしても、テストで百点をとっても、中学生になっても、学校をずっとさぼっても。それで街で補導されたりしても、お父さんは何も言わなかったし、知らないふりをしてた」
美優は僕に背を向けて、ただ海の向こう側。寄せては引いていく海だけをみていた。
でもその手をいつの間にかぎゅっと握りしめていて、小刻みに震わしていた。まるで何かに耐えるように、ただ力を込める。
「高校に入っても、それは変わらずにいる。そう、思ってた」
美優はまるで自分の体を抱え込むかのように、両手で胸の前で合わせていた。
背を向けているから、美優がどんな顔をしているのかはわからない。
だけど揺れているその体は、見なくても強い想いを抱えているのは感じられていた。
「でもね。でも、あの日。私が家に帰ったら、珍しくお父さんが家にいて言ったんだ」
くるりと振り返る。
その長い髪が少し遅れてついてきていた。スカートが舞い起きた風でふくらんで、少しだけその素足を覗かせていた。
美優の顔に浮かんでいたのは笑顔だった。優しい。何かを愛おしく見つめるかのように笑顔だった。
そこにない何かを感じているかのように。
「おかえりって。おかえりっていってくれたんだ。お父さんがおかえりなんて言ったのは、たぶん小学生の頃が最後。嬉しかった。お父さんはまだ私の事を忘れた訳じゃなかったんだって、そう思ったから」
震えていた。
笑顔なのに、震えていた。ここにいる美優は、どこか遠い場所を見ているような、幻の中にいるかのように思えた。
確かにここにいるはずなのに、手が届かないほど遠く遠く、僕から離れていく。なのに美優は言葉を紡ぐのをやめようとはしない。
「私も『ただいま、お父さん』って応えた。そうしたら、お父さんはもういちど言ったの」
僕はこの後に続く言葉を知っていた。
美優が告げようとしている台詞は、美優の心を切り刻んでいく。だけど僕は何を告げる事も出来ずに、ただ呆然と立ち尽くしているだけ。
「『おかえり、美朱』って」
美優は笑っていた。ただ笑っていた。消えてしまいそうな儚い笑顔をのぞかていた。
どうして笑っているのか、僕にはわからなかった。美優がどんな苦しみを抱えているのか、僕には理解してあげる事は出来なかった。
美朱は美優の母の名前だ。僕はそれを知っている。
父親が美優に何を見ているのか。僕にはわからない。
「お父さんとお母さんは、高校生の頃知り合ったんだって。私はお母さんの若い頃に良く似ているっておばさんが良く言ってた。けど」
美優の声が少しずつ崩れ始めていた。
ため込んだ何かがあふれ出て崩壊していた。
「私はお母さんじゃない。私は美優だよ。でもお父さんの中には美優はいない。お父さんにはお母さんの姿しか見えてない。じゃあ、じゃあここにいる私は、誰なの」
だけど美優の笑顔は壊れてはいない。ただずっと笑顔を崩さずに、それなのに涙がこぼれていた。
母親と似ているという美優に、父親は少しずつ母親の影を重ねていったのかもしれない。少しずつ少しずつ愛している妻に近づいてくる娘に、父親は何を思っていたのだろうか。だからこそ彼は美優に何も言えなくなったのだろうか。
積み重なっていく美優に、とうとう壊れてしまったのかもしれない。
そして美優もまた耐えきれなくなったのだろう。美優は僕にその気持ちを溢れさせてぶつけていた。
今だけでなく、以前にも。
美優はどんな気持ちで僕に告げているのだろう。こんなにも溢れる気持ちを忘れられて、もういちど告げずにはいられなかった。美優はどう思っているのだろうか。
僕を恨んでいるだろうか。悲しんでいるのだろうか。
一度告げたはずの苦しみなのに。もういちど、まるでドラマの再放送のように繰り返す言葉には、どんな想いを背負っているのだろうか。
笑っているのは僕のせいだろうか。もういちど告げさせてしまっている僕の為だろうか。僕に少しでも苦しみを感じさせないように。無理矢理に笑顔を作っているのだろうか。
笑っていようと。泣かないで告げようと、美優は僕のために心を振り絞っているのだろうか。
少しだけ取り戻した僕の記憶の中にいる美優は、こんなには強くなかった。
あの時の美優はただ泣いていた。泣きながら叫んでいた。無くしてしまった自分に。無くしてしまった父親に。ただ激しく泣き続けていた。
美優が泣いている姿なんて、もうずっと見た事が無かった。小さな頃から美優はほとんど泣かなかった。泣いている姿なんて想像すら出来なかった。なのに僕の記憶の中の美優は大きな声をたてて泣き続けていた。まるで僕にすがるかのように。
美優の中に唯一残っていた何かを、父親の言葉は壊してしまった。だから美優も崩れ落ちてしまった。
でも僕は全て忘れてしまった。
だから美優はそれほどの想いを、もういちど告げなくてはならなくなってしまった。
交わしたはずの気持ちはどこか遠くに去ってしまい、それでも美優は僕にこの気持ちを知っていて欲しかったのだろう。
あの時の事を僕は思い出した。この後に美優が告げる言葉も、僕ははっきりと思い出していた。
あの時と同じように美優が僕に告げるのかはまだわからない。だけど僕はその気持ちになんて答えるべきか、ただ考え続けていた。
美優は少し早口になりながら、あの時と同じ台詞をもういちど僕に告げる。
「私はどこにもいない。美優はいない。生まれてきていない」
強くあろうとしていた美優は、だけどもう壊れ始めていた。いつまでも耐えられるほどには美優だって強くはなかった。
美優の体が少しずつ震えだしていく。自分の胸元を強く握りしめて、目をつむり顔を下に向けていた。
波の音が聞こえる。このままでいたら、美優が海の中に消えてしまうんじゃないかと思えた。まるで泡となって消えた人魚姫のように。
「ここに、いるじゃないか」
僕は美優に向けて手を差し出していた。
美優が目を開いて、僕をみていた。ただすがるような瞳で、僕の助けを求めていた。
「僕の目に映ってる。ここにいる女の子は、美優だよ。僕の大事な幼なじみの、美優だ」
美優は迷子の子供のように、不安そうに僕を見つめている。
僕は小さくうなづく。
この後に続く美優の言葉を僕は知っている。だけど何度思いだそうとしても、美優への答えだけが思い出せない。
記憶を辿り尽くしても、僕の中からは消えてしまっていた。
だけどそれ以上考える必要なんてないと思った。いま僕が感じている気持ちと、きっと変わらないはずだから。
だから僕は美優が口を開く前に、その答えを告げていた。
「僕が一緒にいるよ。僕と美優はずっと一緒にいた。家族みたいなものだろ。僕は美優のそばにいる」
僕はさらに手を差し出して、美優へと微笑みかける。覚えてはいないけれど、あの時とおそらくは同じ答えのはずだ。
だけど美優は僕の手をとろうとはしなくて、ただその両の手を強く握りしめていた。
「友希はずっと一緒にいたよね。兄妹みたいに育って、いろんな時間を共有して。ずっとそばにいるのが当たり前だと思ってた。でも、本当はそうじゃない。友希は、幼なじみだけれど家族じゃない。友希はただの友達に過ぎない。お父さんは私の事を見ていない私には誰もそばにいない」
「美優っ!」
僕は思わず美優の名を呼ぶ。しかし美優はそれを遮るようにして強い声で叫びだしていた。
「でも私はっ。私は友希に一緒にいて欲しい。ずっと一緒にいてよ。だから、私を、友希の彼女にして。私の恋人になってよ」
美優はあの時と同じ台詞をもういちど告げていた。
僕は一瞬だけ声を失う。
もしも美優がそれを望むなら、すぐにうなづこうと思っていたのに、どうしてそう出来なかったのかはわからない。
だけど止まっていた時間はほんのわずかの間。次の瞬間には僕は美優を強く抱きしめていた。そうする気持ちを止められなかった。
「ああ。ずっとそばにいる。僕は美優から離れないよ」
僕の胸の中に確かに美優はいた。僕の胸の中にその体を寄せていた。美優の温もりが服の上からでも感じられた。
「うん」
美優はいつもの美優らしくなく、小さな声でうなづいていた。
この瞬間から、僕は美優の彼氏になった。