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三十六日間の忘れ物  作者: 香澄翔
一.初めてみる再放送
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大道芸人の少年

「じゃ、明日ね」


 美優(みゆう)の声を最後にキタミ亭の前で僕達は別れる。


 そろそろ日も暮れようとしていた。なんだかんだいって、それなりの時間ここにいたらしい。もう暮れ始めていた夕日に照らされて街中が茜色に染まっていく。


 夏の風もこの時間には少しは涼しくなる。まだ始まったばかりのこの季節は、これから始まる楽しさを増しているようで、どこか嬉しくなる。


 たまには少し遠くまで歩いてみよう。そんな気分になって、僕は街の中の散策を始めていた。


 昔からずっと変わらない街。だけどこうして一人で歩いていると、普段は目に留まらない風景に気がつく。どこからか漂う潮の香り。寄せては引いていく波の音。砂浜で遊ぶ若者達の声。潮風が少しだけ僕の頬をなでる。


 いつの間にか海のすぐ近くまでたどり着いていた。

 この辺りは遊歩道になっている。休日であればかなり人の姿も多いが、平日のこの時間ならそれほど人の姿は多くはない。もともとさほど人口が多い町でもないし、観光客がくるような場所でもない。


 海辺の町。僕が生まれ育った場所。僕にとっても見慣れた風景。

 だけどこの辺りにはすごく久しぶりに来た気がする。少なくとも事故にあってからは一度も訪れてはいなかった。


 春先の海岸よりはかなり冷えるし、梅雨があけるまでは雨の中だ。その季節の海浜公園はわざわざ向かうような場所でもない。それでも家からはほど近いこの場所はなんだかんだと訪れてきた場所だったけれど、事故の後は何となく理由もないままにここには足を運んでいなかった。


 もっともこの場所に立ち寄らなかった事に意味がある訳でもないし、今日こうして向かった事に意図がある訳でもない。ただ潮風にささやかれて、僕の足が気ままにこの場所に歩ませただけのことだ。


 暮れてゆく空と寄せる波音は、どこか物悲しくて何かを思い起こさせる。

 だけど失った記憶を引き寄せる訳でもなく、ただ僕の心の中の哀愁を刺激して、空を見上げさせていた。


 同時にヒュルルルと風を切るような音と共に、何かがまっすぐに宙へと舞い上がった。

 思わずその音の方へと視線を移す。


 その何かは空高く吹き上げると、やがて力を失って弧を描きながら再び地上へと舞い戻る。

 そこには少年が立っていた。僕とほとんど年齢は変わらないだろう。爽やかな笑顔を浮かべる優しそうなだけど見知らぬ少年だ。


 彼は両手に棒のような何かを手にしていて、それを大きく開くとその間にある紐がぴんと張り詰めていた。

 そしてその紐で落ちてくる何かを受け止めると、勢いを殺さないように棒を左右に動かして何かを紐の上で回転させていく。


 ここまでみてやっと空に上がっていたものの正体に気がつく。中国ゴマだ。ディアボロとも呼ばれるそれは、いま少年がしているように二本の棒とそれをつなぐ紐を使って操る大道芸の一つだ。


「よっしゃ。リック、見たかっ。今のなんか満点だろ」


 少年は満足そうに叫ぶようにして、足下に置いてある人形へと向けて話しかけていた。

 それと共にその人形が声を漏らす。


『いや、まだまだ高さが足りないな。見る人をおおっと思わせなければ大道芸じゃないぞ』


「に、人形が喋った!?」


 突然の事態に思わず僕は声を漏らしていた。


 その声に少年は僕に気がついたのか、中国ゴマを操る手をとめて僕の方へと振りむく。

 それからすぐに笑顔を浮かべると、こちらへと近づいてきていた。そして何か思う間もないままに、すぐ目の前まで歩み寄っていた。


「久しぶりだね。最近来ないからどうしているんだろうと思っていたけど、今日はあの子は一緒じゃないのか」


 親しげに話しかけてくる声は、明らかに僕の事を知っている話しぶりだった。


 だけど僕は彼の事を知らない。いや覚えていないのかもしれない。忘れてしまった三十六日間に出会った相手なのだろうか。慌てて記憶を探るけれど、僕の壊れた脳みそはまったく思い出させようともしない。


「え、えっと。うん。まぁ」


 思わず曖昧に答えていた。彼が何者なのかもわからなかったし、あの子とは誰のことだろうか。あまり知らない人と話すのが得意ではない僕は、大した事はしゃべれそうにもない。でも彼は僕の様子に疑問に思う事もなく、ごく親しげに再び話しかけてきていた。


「そっか。って、今さらリックが喋ったからって驚くなよ。腹話術だって前にも言っただろ」


 少年は笑顔を崩さずに、僕の背中をばんっと叩く。


 ここまできて人違いという訳でもないだろう。しかし僕は何も覚えていない。だから僕に出来るのは、なんとかこのぽんこつな脳みそから何とか記憶を引きだそうとねばることと、そのことに気がつかれないように適当に相づちを打つ事しかできなかった。


「あ、うん。そうだっけか」


「なんだ。忘れっぽいな。ま、君よりもあの子の方がいつも熱心だったから、仕方ないのかもしれないけどさ。リックの事くらい覚えてくれよ。俺の一番の芸なんだぜ」


『そうだぞ。私がいなくては祐人(ゆうと)の芸はおもしろさ半減だからな。何せこいつは大した芸が出来ないから』


 リックと呼ばれた人形が再びはっきりと言葉を漏らしていた。確かに一番の芸だというだけはあって、本当に人形が話しているように聞こえる。というよりも、人形が話しているようにしか思えない。


 それと比べるとさきほどの中国ゴマは、少しどこかぎこちなくて、まだまだ練習中であるのは確かだろう。それでも腹話術だけでは芸として物足りなくて、研鑽を重ねている最中なのかもしれない。


 しかし大道芸をしている少年だなんてとても珍しい存在だ。それだけでもかなり目立つのだから、普通なら忘れようも無い。そう思えばやはり事故で失った記憶の間に出会った友人なのだろうか。


 ただそうだとしてあの子と言うのは誰の事だろうか。あの子という呼び方をするって事は、子供かそうでなければ女の子だろうという事くらいは推測がつく。


 子供の知り合いはあまりいないから、単純に考えれば女の子なのだが、そちらもいまひとつ思い当たる節がなかった。僕と一緒にいる女子といえば美優以外には思い当たらないが、事故の後に美優からこの少年の話を聞いた覚えはない。


 もちろん気まぐれな美優の事だから、その頃は夢中になっていても、今となってはどうでも良くなっている可能性もある。ただああ見えて人見知りの激しい美優だけに、一度仲良くなった相手と喧嘩もせずに離れるというのも考えにくい。かといって喧嘩別れしたのであれば、こんな風に気軽に話題には出してこないはずだ。


 僕はいくつもの疑問が浮かんではいたが、彼は僕の事故の事は知らないようだから、余計な事は言いづらいとも思う。自分自身よく覚えてもいない事故の事は、話したくても話しようがなかった。


 海辺に吸い込まれていく夕日が、辺りを曖昧な色で照らしていた。その様子はまるで僕の心の内を示しているかのようにすら思えて、なぜだか息を飲み込んでいた。


「せっかく久しぶりに会えたけど、そろそろ日も沈むし、今日はそろそろ帰る事にするよ。また前みたいに遊びにきてくれよ。一人で練習しているのもつまらないからさ」


 人形から祐人と呼ばれていた少年は僕に笑顔を振りまいたあと、それから大道芸の道具を仕舞い始めていた。


 僕は何となく彼が全ての道具を仕舞い終わって立ち去るまで、ここで立ってみていた。


 少しだけ頭が痛む。僕は何かを忘れてしまっている。そのことを初めて突きつけられたような気がしていた。

 失った記憶の中で何があったのだろう。初めて僕はそのことに恐れを抱いた。


 不安と焦燥が僕の中に少しずつ生まれてきては、ゆっくりとゆっくりと僕の中の風船を膨らませていく。

 過ぎ去っていく波の音だけが僕を包んでいた。

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