突発性難聴
『そろそろ帰るね』
ひなたが用意してくれたノートにそう記入して、彼女の顔を心配そうに見つめる。
ひなたはどこか寂しそうに、それでもふわりと笑顔を浮かべて、小さな声でうなづいていた。
このまま帰りたくはなかった。後ろ髪を引かれる思いはあるけれど、もう日も暮れている。女の子の部屋にあまり遅くまでいる訳にもいかないだろう。
僕はひなたへと手を振って、部屋を後にする。
「また明日ねっ」
ひなたが僕の背中へと声をかける。
僕は振り返って大きくうなづくと、それからドアを閉めて部屋を後にする。
階段を降りていく途中で気がついたのか、一階の奥の部屋からひなたの母親が迎えてくれていた。
「ごめんなさいね」
ひなたの母親は僕の顔をみるなりそう呟くと、不安そうに僕を見つめていた。
「ひなちゃん、あんな風でびっくりしたでしょう。でもひなちゃんがどうしても言わないで欲しいっていうから、言えなくて」
「いえ、平気ですよ。気にしないでください。確かに驚きましたけど、でも彼女も笑ってくれましたから」
申し訳なさそうに告げる母親に、僕は少しだけ顔を伏せて答える。
交わしたキスを思い出して、顔が赤くなっていないか心配になる。
ただひなたの母親は僕のそんな様子にはまるで気がついていない様子で、それよりも少し驚いた顔を浮かべていた。
「笑って……」
ぼそりとつぶやくように告げると、目尻を少し濡らしていた。それからひなたの部屋の方へと顔を見上げる。
「ひなちゃん。病院から戻ってきて以来、ほとんど笑った事がなくて。貴方が来てくれた事で、少しは気持ちが落ち着いたのかもしれない。だけど、やっぱり部屋からはでようとしないのね。ひなちゃん、もうトイレとお風呂の時以外はずっとあの部屋にいるの。だからお見送りもしないで、ごめんなさいね」
母親の声はどこか重たく沈んでいた。
そうだ。僕はひなたと会えた事で浮かれていたけれど、ひなたの傷はこれで癒えた訳じゃない。何も変わっちゃいないんだ。
「ひなちゃん、貴方には心を開いているみたいだから。明日もまた会いにきてくれるかしら。他の子じゃ駄目みたいなの。沢山の人がお見舞いにきてくれたのに、ひなちゃん会おうとすらしなくて。でも貴方にはすぐ会うって、そう言ったの。だから」
ひなたの母親は、僕へとまっすぐに視線を向けていた。
僕は知らなかった。
ひなたはまだ塞いでいる。心を閉ざしていたんだ。耳がきこえなくなったこと。同時に歌を失ってしまったことは、ひなたの心に強い陰を落としていた。僕の前ではそんなそぶりは見せなかったけれど、本当は世界から自分を閉め出そうとしているのかもしれない。
唐突に事故にあって、自分の夢を砕かれた。それはひなたにとってはあまりにも突然のことで世界から急に見捨てられたように思えたのかもしれない。
ただそうだとしても、このままでいていいはずもなかった。
ひなたを救いたい。
そう強く思った。僕にしか会わなかったということは、ひなたを連れ出せるのは僕しかいないのかもしれない。
僕はひなたに必要とされているのかもしれない。
僕はそのことを強く意識していた。ひなたを救いたい。僕がやらなくてはいけない。
つい少し前まで行く先すらわからずに、当てもなく探さなければならなかった。それに比べれば、ずっと目の前は明るいはずだ。
なのにどこか胸が痛んで、苦しくなる。
何かが僕の心を苛んでいた。
だけどひなたと出会えた事で心が占められてしまっていた僕は、その痛みの正体に気がつく事は出来なかった。
この時の僕は忘れていた。こうしてひなたに近づいていくことは、他の大切なものを手放しているということを。何かを選択するということは、何を捨てるという事を。
僕は、知らなかった。
「ええ、僕もそうしたいと思っています。また来ます」
「そうしてくれると私も嬉しいわ。ありがとう」
「いえ」
頭を下げる母親に、僕は軽く首を振るった。きっと頼まれなくても僕はそうしていたと思うから。
僕がひなたを求めていたから。
だから、ひなたに会いに来る。そうしたかった。
「よかった。それにしても、ひなちゃん。こんなに優しいお友達がいるのに、どうしてあんな事をしたのかしら……」
後半はほとんど小声でつぶやくような言葉だったけれど、確かにそう口にしていた。
あんな事。ひなたが一体、何をしたというのだろう。
そうだ。僕はそれだけが思い出せない。
ひなたが事故にあい、僕も事故にあった。
とても偶然とは思えない。僕の事故と無関係ではないはずだ。何かが関わっている。
しかしそれにしては、僕とひなたは一緒の病院に収容される事もなかったし、ひなたの両親も僕の事は知らなかったようだった。
仮に関係があるのだとしたら、ひなたの母親は僕の事を知っていてもおかしくないはずだ。
ひなたは何も言わなかった。僕からは事故の事については触れられなかった。
だけどそれを知らないままにしていく訳にはいかないんだ。僕は強く思う。
ひなたの為にも、僕の為にも。記憶を無くしたままでいる訳にはいかないんだ。
ひなたに訊ねる事は出来なかった。下手な事を言って、万が一にもひなたをこれ以上に傷つける訳にはいかないとも思う。
僕は何も知らない。何もわからないけど、だけど目の前のひなたの母親は少なくともひなたの事は知っているはずだ。
「あの、ひなは……ひなたさんには一体何が起こったんですか?」
僕は絞りだすような声で訊ねる。
僕の質問にひなたの母親はあからさまに顔をこわばらせていた。たぶんあまり思い出したくない事なのだろう。
しかしすぐにどこか諦観したかのような表情を浮かべて、僕にまっすぐに視線を合わせる。
「そうね。貴方には話しておいた方がいいのかもしれない。あの日、ひなちゃんの身に起きたこと」
ひなたの事故の事を話してくれるようだった。
どんな答えが戻ってくるのかと、僕は息を飲み込む。
母親は万が一にでもひなたに声が届かないようにか、息を殺すかのようにして話し始めていく。
「ひなちゃんは、あの日ね。みんなには事故っていう事にしてあるけれど、どうやら自殺しようとしたみたいなの」
母親の言葉に僕は思わず目を白黒とさせていた。
ひなたが自殺。ありえない。初めに思ったのはその想いだった。ひなたは明るくて朗らかで、いつだって前向きでとても自分から死を選ぶようなタイプではないはずだ。そうだというのに、彼女はそれを選んだというのだろうか。
明るくて、いつも笑っていて、少し変なところもあるけれど、誰よりも前を向いて夢を目指している。それが僕の中のひなたのイメージだ。
いまは耳がきこえなくなって、少しすさんでしまっているかもしれない。それでも今のひなたですら自殺を選ぶようには思えない。
「あの日、ひなちゃんはオーディションを受けたの。でもどうもあまり結果が良くなかったみたい。それで落ち込んだみたいで。ひなちゃん、海に飛び込んだの」
「うそだ!?」
だから僕は反射的に叫んでいた。あの日の記憶は僕にはない。それでもオーディションの結果が悪かったくらいで、ひなたがそんな事をするとは思えない。
「うん。そうよね。だって私も初めてきいた時は、そんなことない。ひなちゃんに限って、自殺なんかするはずないって、そう思ったもの」
母親は大きくため息をもらして、それから再びひなたの部屋の方を見上げる。
「でも、ひなちゃん自身がいったの。自分で海に飛び込んだって。理由は何も言ってくれなかったけれど、オーディションの結果が悪かった事以外、何も考えつかなくて。だってひなちゃん、前の日まですごく楽しそうに笑っていたのよ。あの日だって、ひなちゃん元気にいってきますって、挨拶して」
母親の声は、少しずつ震えを含んでいく。
ひなたの言葉を思い出したのだろうか。
ひなたの母親は本当にひなたの事を心配しているようだった。目に入れても痛くない愛娘という言葉があるけれど、まさにそういう感じだと思う。
その愛娘が自殺を図ったあげく、聴力を失ってしまっただなんてことは、それだけでも吐き出したくなるほどに狂おしいはずだ。いまも振り絞りながら話しているのだろう。
そのうえおそらくは今のひなたは家族にも心を開いてはいない。完全に自分の殻の中に閉じこもっているのだろう。だからこそ僕に期待をしているのだ。ひなたの心を開いてくれるんじゃないかと。だからこそ自殺をしただなんて、話したくもない話を始めたはずだ。
僕にひなたを救う事が出来るだろうか。自問自答するけれど、答えは出ない。
ただ母親の話はまだ終わっていなかったようで、そのあとも続いて話し続ける。
「でも、幸いひなちゃんね。少し打ち身があった程度で殆ど怪我はしていなかったの。けどひなちゃんはその時のショックで一時的に耳が聞こえなくなっちゃったみたいで、その事で塞ぎ込んでしまって」
母親の言葉に、僕はうなづく。いやうなづきかけて、どこかにひっかかるものを覚えて首をかしげる。
少しだけ母親の言葉をかみ砕いて、すぐにその違和感に答えを出した。
「あの。一時的、なんですか?」
ひなたの耳は今も聞こえていない。一時的にというからには、このあと元に戻る見込みがあるように思える。だけどひなたの態度はそんな風には思えなかった。一生聞こえなくなるからこそ、あれだけの嘆きを産んでいたはずだ。
そんな僕の疑問に母親は少しだけうつむいて、それからため息交じりに答える。
「……そうであって欲しいっていう、私の願いも含まれているんだけれど。でもね、いまひなちゃんの耳。どこにも悪いところは見あたらないんだって。でも聞こえないみたいで。こういう理由もわからず聞こえなくなる事を、突発性難聴っていうらしいけど。理由もわからず聞こえなくなったなら、もういちど聞こえるようになっても、いいのかなって」
母親はうつむいて、まるで独り言のように独白していた。
たぶん母親も信じたくない気持ちの方が強いのだろう。あまり言葉には出したくないのかもしれない。
あるいは僕に告げるというよりも、自身の願望が現実になるようにと思って言葉にしたのかもしれない。
突発性難聴。その病名は訊いた事はなかったけれど、もし母親の言うように理由もなく聞こえなくなったなら、理由もなく回復する事があっても不思議じゃないはずだ。
だけどもしも万が一治らないのだとしたら。その時は僕が彼女のそばにいよう。彼女の耳の代わりになってもいい。ひなたのそばにいたい。そう願った。
少しでもひなたに笑顔を取り戻して欲しい。
それだけがいまの僕の願いだった。
「そうですね。治ってくれれば、いい」
僕もつぶやくように告げると、それから拳を強く握りしめた。
自分に何が出来るのかなんてわからなかったけれど、僕はひなたの為にやるべき事をやろう。
そう誓っていた。




