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三十六日間の忘れ物  作者: 香澄翔
二.終わりのない歌を願う
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届かないメッセージ

 あのあといくつかの店を見て回った。お金はないから、殆どひやかしばかりだったけど、気の知れた美優(みゆう)と一緒にいるのは楽しかった。


 手を繋ぐことも、ましてやキスなんかする事もなかったけれど、肩が触れ合うほど側にいて胸の中が揺れていた。


 それなのに心の中にはずっと靄が掛かったようで、どこかはっきりしない。

 どこか曖昧な気持ちのまま、時間を迎えて家に戻ってきた。


 まだ全ては思い出せない。三十六日間なんて短い時間の中のことなのに、その間に何があったのかも分からなかった。


 ずっと無くした記憶なんて必要がないものだとばかり思っていた。何の価値もないものだと。僕にはもう不要な記憶なんだと信じていた。


 だからこんなにも思い出したいと願ったことはなかった。

 同時にこんなにも忘れたままでいたかったと悔やんだことも。


 忘れたままでいれば、僕は素直に美優といれただろう。美優の事は好きだから。


 小さな頃からずっと一緒にいて、いろいろとわがままなところもあるけど、それでも本当は優しい奴で。

 僕は他の誰より美優の事をわかってあげられると思う。だからこそ美優も僕を必要としてくれたのだと思う。


 それなのに僕の心は、いまはどこか違う場所にうつろっていて、そこにはいない。美優と一緒にいながらも、僕の心はなくした記憶について考え続けていた。


 生返事をした事も多かったと思う。美優はそんな僕を体調が悪いのだと思ったのか、心配そうに見つめていた。途中からあからさまに僕の曖昧な気持ちは表にでていたのだろう。美優には悪い事をしてしまったとも思う。


 それでも思い出してしまった記憶は僕の心を捕らえて放さなかった。


 記憶の中にいた少女の事は何一つ思い出せない。年齢も住所も名前すらも記憶に残ってはいない。それなのになぜか彼女への気持ちだけは思い出していた。


 自分の頭がどうにかなってしまったんじゃないかとすら思う。なぜこんなにも僕は心を揺らしているのだろうか。


 そのとき不意に携帯が柔らかなメロディを奏でだしていた。あの時、彼女が歌ったあのドラマの曲だ。


 僕は慌てて携帯を手にとる。

 何度か聴いたメロディ。何で僕は気がつかなかったのだろう。なぜ忘れていたのだろう。その音をきっかけに、僕の頭の中に忘れていた記憶が鮮明に思い起こさせる。


友希(ともき)くん、携帯貸して」


 記憶の中の少女が呟いていた。


「なんで」


「いーからっ。はいっ」


 彼女は僕の携帯を奪い取って、それからしばらくの間いじっていた。

 それから終わったよと言いながら僕に手渡すと、今度は自分の携帯をさわり始める。同時に僕の携帯から柔らかなメロディが流れだしていた。見るとライムのメッセージが届いていた。


「あ、勝手に着信音設定したな」


「いいじゃない。友希くん、ぜんぜんメールもライムもしないんだもの。今度からはライムが届いたらこのメロディね。知ってるよね、有名なドラマの歌だもんね」


 少女は言いながら僕に向けて微笑んでいた。


 現実に引き戻され、僕はぼろぼろと涙をこぼし始める。少しだけ記憶の世界が僕の目の前に広がっていた。

 このメロディはあの時、再放送のドラマで流れた歌。そして彼女が歌った旋律。


 それから気がついて携帯のメモリーを確かめ始める。


 どうしてこんな事に気がつかなかったんだろう。いや、どうして見ようともしなかったんだ。

 ライムのフレンドリストにはそれらしき人は残っていなかった。退会してしまったのだろうか。


 次は携帯電話のメモリーを探し始めていた。


 上から順番に電話帳を眺めていく。


 相浦。赤木。浅井。知り合いの名前が並んでいた。


 あるはずだった。必ずみつかるはず。

 僕は必死で探し続けた。


 そしてすぐに一つだけ記憶から抜け落ちている名前を見つけだす。


 綾瀬(あやせ)ひなた。


 そうだ。僕はいつも、ひなと呼んでいた。

 それが忘れていた彼女の名前。


 僕は、どうして彼女の事を忘れてしまったのだろう。

 誰かに訊ねれば、きっと事故に会ったからと答えるに違いない。


 でも、事故って一体何だったんだ。


 いつ、どこで、どうやって。全く覚えていない。そこに何か意味があるのだろうか。

 ただ一つ思い出したのは、失った記憶の間に出会った少女の事。


 ひなたの、こと。


 メールしてみようかと思う。しかし今さら何て送ればいいのか思いつかない。

 わからない。それでも彼女の事をもっと思い出したかった。


 携帯を手にとってみる。メール送信のメニューを選んだ。

 なかなか文章が思いつかなかった。指が動かない。

 それでも必死で何とか一文を作り上げる。


『ひさしぶり、元気にしているかな?』


 短いメール。だけど送信ボタンを押すのもためらいが走る。


 出していいのだろうか。ずっと彼女からの連絡もなかった。だから彼女の方は連絡をとりたいと思ってはいないのかもしれない。


 だけど強く目を閉じて、それから思い切って送信ボタンを押した。

 出したと同時、すぐに返信は帰ってきた。


 このメールアドレスは使用されていません、と英語のメッセージが無機質に答えてくれていた。


 メールアドレスを変更したのだろうか。

 電話してみようか。しかし電話はメール以上にためらいがある。


 メールは間接的に過ぎないが、電話は相手と直接話す事になる。

 ずっと忘れていた自分が、彼女に何と告げればいいのかもわからなかった。


 携帯を手にして、電話帳から彼女の名前を探す。

 綾瀬ひなた。ディスプレイにはそう表示されているから、発信ボタンを押せばすぐにでもかかる。


 なかなか押せなかった。


 押したら繋がってしまう。

 ひなともういちど話したい。ひなの事を知りたい。


 それなのに。それだから押せなかった。押したくて、押したくなかった。


 少しの時間が流れただろうか。

 再び携帯が柔らかなメロディを奏でていた。もういちどメッセージが届いたのだろう。


 だけどその瞬間僕は思わず発信ボタンを押していた。

 電話はすぐにつながって、無機質な案内が流れる。


『おかけになった電話番号は現在使われておりません』


 流れた音声は、電話会社のアナウンス。

 メールも電話も繋がらなかった。


 ひなたのことは、他には覚えていない。

 もう連絡する方法すら無いのだろうか。


 心の中が錆び付いているかのようで、どこか苦しさを覚えたような気がしていた。


 何をしたらいいのかもわからなかった。

 僕は携帯をただ握りしめているだけで、何も出来ない。


 そして後で気が付いたけれど。

 このとき届いたメッセージは、美優からのものだった。

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