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三十六日間の忘れ物  作者: 香澄翔
ブロローグ
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無くした記憶

 三月六日、その日僕は事故にあった――らしい。


 らしいというのは他でもない、僕自身にはその記憶がないからだった。医者の言う事によれば事故のショックからくるものだそうだが、それ自体は別にどうでもよかった。覚えていない事をいちいち言っても仕方ないし、特にそれで生活に困る事がある訳では……多少はあったが、おおむねない。


 事故による外傷は全て治りきっていたし、記憶障害もごくほんの一部に過ぎない。両親の顔や友人の顔を忘れてしまった訳ではないし、基本的には事故に関する記憶がないだけ。


 たまに昔の事がなかなか思い出せなかったりもしたけど、だからといってテストの点数には関係する様な事もないし。まぁ、もともと大した点数をとっている訳じゃあなかったからだけど。


 そんな訳で今日この街に出てきたのも、普通に買い物にきただけだった。それも五足で千円の靴下を一セットだけ。我ながらせこい買い物だと思う。しかしもう替えの靴下が穴だらけになったからには仕方がない。


 その為だけにわざわざ街にでかけるのも勿体ないから、今はついでにぶらぶらと散歩していた。


 たまには街を歩くのもいい。少々日差しはきついけども、夏の匂いは確かに僕を包んでいて、街を歩く人達と共に確かに今日という日がきたのだと信じられる。


 どうも人ごみは好きになれなかったが、活気に溢れる街の雰囲気そのものは嫌いじゃなかった。

 彼女と一緒にこられたら楽しいだろうな、とも思う。もっともそんな高等な関係の相手はいやしないけど。


 三十六日間。

 僕が失った記憶の量はだいたいこんなものらしかった。散々いろんな検査や質疑応答やテストを受けさせられて判明した事実。


 ただしその間の記憶が全くない訳じゃない。ところどころ抜け落ちてしまっただけで、覚えている事も多い。脳波には異常がないそうだから、そのうち思い出すかもしれないとの事だった。とはいえ特に困る事もなかったから、思い出しても意味があるとは思えなかったけど。


 日常って奴は毎日が積み重ねられて初めて出来るものだけど、そのうちの多少が欠けたからって大きく変わるものじゃない。実際、僕には記憶が欠けているという実感がなかった。何日の何時、何をしていたと訊ねられた時に初めて答えにつまるくらいのものだ。


 でも誰だって一週間前の、あるいは一月前に何をしていたかと聞かれて、すぐ思い出せるものでもないだろう。ただそれが少しばかりひどいだけの話。そう思っていた。


 だって街角はいつもと変わらない雑踏で、僕は確かにここにいる。明日は金曜で学校が終わって、土日を挟んで月曜はまた学校が始まって、火曜は英語の授業が憂鬱で。毎日は繰り返し続いていく。


 そしてその次の日にはどこの高校も夏休みに入るけども、その次もその次も毎日は繰り返されていって、明日は今日になり続けるのだから。


 つまり昨日は一昨日になって、一月が過ぎて、一年がたって、今日僕が靴下を買いにきた事なんて、大した意味を持たなくなる。


 ならたった三十六日間の空白なんて、長く続くだろう人生の中で、どれほどの意味があるというのか。

 と、そんなような事を医者にいったら「君は変わっているね」と呆れたような、それでいて感心したような複雑な顔を浮かべられた。


 普通は忘れる事は怖いんだという。


 もちろん僕だって全く気にならない訳じゃない。けれど医者の言う通り、確かに時々は思い出していたし、それでもせいぜいが先週のドラマはいいところで終わっていて、非常に先が気になってたんだっけとか、ろくでもない記憶ばかりで、たぶん意味のある事なんて何一つ起きなかったのだろう。


 忘れた昨日のことなんかより、これからの明日の方がずっと大切で、なくしてしまったものを嘆いても仕方ないだろうって思う。


 前向きだね、我ながら。

 内心呟いてから、それはちょっと違うような気もしたけど、そういう事なんだって考えることにする。


 とりあえずは町中の散歩に精を出す事にしよう。何か思い出すかもしれないし。

 後付のような理由を胸に、散策を続けていく。街の彩りは街路樹に止まる蝉時雨。今日は夏なんだとうるさいほどに主張していた。


 どこか湿りくる潮の匂いは夏独特の熱気と共にあって、たまに忘れそうになるけども、この街が海の側にある事を思い出させる。


 海辺の街。僕が生まれ育ち、そしてこれからも暮らしていく場所。

 ずっと、ここにいようと僕は思う。

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