転の巻
※注意:この物語は数多ある忠臣蔵の物語をご都合主義でアバウトに参考にしております。杜撰な歴史考証での赤穂事件の取り扱い、悪者じゃない吉良上野介は認めない方は今すぐバックだ、ノーヒット・ノーランでお願いします。中太さんとの約束だぞ!
※ノークローム・ノーサターンとか意味が解らん、それを言うならノーヒット・ノーランだろうと野球観戦中の父より指摘があったので今回より訂正しました。
大石内蔵助より上野介からの提案を聞いた浅野内匠頭は怒りの形相で扇を投げつけた。柱に当たった扇は要から折れて無残な姿を晒す。
「この昼行燈が、易々と騙されおって。・・・まずは考えても見よ、赤穂藩はそなたの叔父の代で一度饗応役を行っておる。同じ藩が続けて幾度も饗応役を行うなど聞いたことも無いわ。」
「しかし此度は上様の御母堂であらせられる桂昌院様に従一位の官位を授ける儀式にて、御役目に慣れた我が藩が。」
「よしんばそれが真だとして、我等にはそなたの叔父が饗応役を執り行った記録が残っておろう。今さら高い銭を払ってまで指南を受ける必要など無いのだ。
それに吉良の塩製法だと。それこそ我が赤穂藩の製塩技法を盗まんとする強欲爺の薄汚い策略よ。
出来るかどうかも分からぬ絡繰りをくれてやると甘い言葉でで赤穂の技法を盗み出し、いずれ東海道の高級塩だけでなく上方の販路までも手にしようと企んでおるに相違ないわ。」
冷めやらぬ怨嗟の言葉を繰り返す内匠頭に内蔵助は滝のような汗を流しながら平伏するのみであった。
「内蔵助、今直ぐ手切れ状でもしたためて強欲爺に届けよ。この浅野内匠頭は貴様の見え透いた策になど乗らぬし、饗応役の教えを乞う必要など永劫に無いとな。」
怒りのままにどすどすと足音を立てて去ってゆく主人を前にただただ平伏しながら考えを巡らす内蔵助であったが、一度言い出したことを曲げようとはしない内匠頭を説き伏せる良案など浮かぶはずもなく、すごすごと筆と墨を取りに行った。
内蔵助が足取りも重く吉良屋敷に戻ると、吉良上野介、今枝民部、伊達兵庫らは図面を基にああでも無いこうでも無いと流下製塩の改良を話している所であった。
「吉良殿、お待たせ致し申した。殿に新たな製塩を試したいと掛け合ったので御座いますが・・・。」
「その様子を見るに、芳しく無かったご様子。して、内匠頭殿は何と。」
「新しい技法など必要ないと。更には饗応役につきましても以前の記録があるゆえご指南は不要と。」
沙汰を待つ罪人のように平伏した内蔵助は、赤穂の為にここまで手を打った上野介に対する申し訳無さと、言われるままに手切れ状まで持参した己への恥ずかしさで思わず手の中の書状を握り潰す。
「内蔵助殿、貴殿の事情はよう分かった。浅野殿には浅野殿の考えがあるのだろう。儂こそ勝手に差し出がましい真似をしたな。
その手の書状は儂宛であろう、渡さねば貴殿が叱責を受けよう。頂戴することにする。
只、此度は失敗の許されぬ儀でもある。もし饗応で何か困り事が有ればいつでも聞きに来てよい、頭の片隅にでも覚えおかれよ。」
上野介は内蔵助の肩にそっと手を置き言った。そして皺の寄った書状を受け取ると文箱に仕舞い込む。
好々爺のように優し気な表情をしていた上野介であったが、内心では喝采を上げていた。手切れ状があればこれ以上赤穂藩に関わらずとも済む。関わりが無ければおかしな逆恨みも買うまい。
あとは相談を聞いて恩を売りつつ、二つの大藩と開発する流下製塩で自領と吉良家の懐を潤す。指南役で受け取れる金は惜しいが、もはや浅野の小倅が場所も弁えず儂に斬りかかる未来など消え去ったのだ。
時は過ぎ冬も明けきらぬ頃、幕府より朝廷の勅使を招く通達が発せられた。
饗応役は赤穂藩の浅野内匠頭とし、御指南役には吉良上野介義央が選ばれたものの、手切れ状を理由に辞退。代わる御指南役として高家肝煎として畠山飛騨守義里が推されるも、浅野内匠頭より指南役不要の申し立てがあり御指南役不在のまま饗応の準備にかかった。
埃まみれになりながら古い記録をあさり、ようやく叔父の遺した饗応記録を見つけた大石内蔵助は脂汗を流していた。と、いうのも己らだけで饗応をすることなど想定していなかった為か、ごくごく簡素なほんの数枚の記述のみであったためだ。
内蔵助は残された記録を基に公儀からの使者にあれやこれや問い、饗応役として粗相が無いよう対策を練る。
まず勅使の公卿は江戸伝奏屋敷に滞在し、そこで旅の疲れをとる。伝奏屋敷から江戸城に移動するまでに増上寺で休まれるのだが、ここで食事を出し持て成さねばならぬ。
饗応役として最大の御役目は増上寺を整え、勅使に御馳走を出して話し相手となる事にあるのだ。
「記録には勅使がお立ち寄りになる増上寺は新たに畳を張り替えたとあるが、増上寺の畳は正月に替えたばかりじゃ。わざわざ替える必要もあるまい。」
共に準備に当たった守富助右衛門が言うように替えて数カ月の畳は汚れほつれも無く、青畳特有のい草の香りが落ち着き始めている。これならば堂内を掃き清めるだけで十分なのではないだろうか。
赤穂藩一同で寺を掃き清め、職人らが襖の張替えを行い庭木を整える。さらに大石は江戸屋敷から狩野の墨絵、鷹の屏風を持ち込みこれで良しとした。
次いで問題に上がったのが勅使を持て成す料理である。
「この記録にはしょうぶつ料理とあるが、勅使として来られるのは公卿の方々。その様なやんごとなき身分の方が寺で生物料理など食うまい、精進料理の間違いではないのか。」
「材料の手配に時間がかかる料理に間違いがあっては不味い。ひとまずどちらであっても対応できるよう備えるのだ。」
疲れ切った内蔵助がぽつりとこぼす。
「どちらにすべきか殿に意見を求めたいが、記録にあるように致せとご立腹されるに違いない。
吉良殿に聞きに行ければ良いのだが、殿は吉良殿を悪しざまに思うておる。知られればお怒りになるだろう。」
「ならば大石殿、如何成されるつもりか。」
襖職人に指示を出していた堀部安兵衛が独白を聞きつけ不安げに問う。
「背に腹は代えられぬ。寺坂なら多少抜け出したところで殿も不審に思われまい。我等で銭を出し合い、手土産を持って吉良殿に伺ってくるのだ。」
吉良邸へはくれぐれも目立たぬように言い含められた寺坂吉右衛門が、集められた幾ばくかの銭と饗応の記録を懐に吉良邸へと急ぐ。
この時裏口より守富助右衛門がそっと抜け出し、浅野の元へ走ったのを気付いた者は居なかった。
守富より報せを受けた浅野内匠頭は赤鬼のような形相で地団太を踏んだ。
「おのれ昼行燈め、吉良の強欲爺などに助けを求めるとはなんたる不忠。かの糞爺に借りを作ろうものなら後々有り得ぬ対価を支払う事に成るのをなぜ理解せぬ。」
守富は頭を下げつつ諫めようとする。
「しかし殿、饗応役を仕損じては赤穂藩が只では済みませぬ。」
下げた頭を踏みつけ「貴様も裏切者か。」と凄む主に、守富はその怒りが解けるまで貝のようにじっと耐えるしかなかった。
一方、酒肴を手土産に携え吉良屋敷を訪れた寺坂吉右衛門は屋敷の玄関前で平伏していた。
「上野介様ぬは大変なご無礼えを働ぎ恐縮でごぜますが、なにどぞ御内密にご助力いただぎたく伏すで申す上げまする。」
急の知らせを受けた吉良上野介は突然訪ねて来た訛りの強い男を立たせると、屋敷内に向かい入れ赤穂藩饗応の記録に目を通しながら事細かに事情を尋ねた。
「大石殿はよき決断を為された。もしこのまま饗応を進めていたら大変な事に成るところであったぞ。
寺坂、といったか。外を走り寒かったであろう、火鉢を用意する故、儂が注釈をしたためるまでゆるりと当たってゆかれよ。」
上野介は渡された記録に注釈をつけてゆく。畳は必ず真新しくする事、狩野の鷹よりも金屏風を用い華やかにする事、此度の勅使殿には鯛などの肴を用いた生物料理が良いので頃合いを見計らって求める事。
さらには勅使へ振るべき話題や、白書院での将軍奉答には長上下ではなく烏帽子大紋で登城すべしなど事細かに書き添え寺坂に渡した。
「これを大石殿に届けるが良かろう。浅野殿は儂を嫌っておるゆえ、くれぐれも気取られぬ様に。
其方はここに来なかったし、儂も何もしておらぬ。この注釈は大石殿が古き記録をあさり書き込んだ物、表向きはそのようにな。」
そう言うと寺坂は記録を懐にかき抱き、深々と礼をして去って行った。
時は経ち饗応の当日、増上寺での接待を恙なく終え、守富が用意した烏帽子大紋で登城した浅野内匠頭は始終ひどく苛立っていた。
「よくも我が臣をたぶらかしてくれたものだ。赤穂の利を貪ろうとする強欲爺もそれにうまうまと乗せられた昼行燈も只では置かぬ。」
腸が煮えるような熱を腹に抱え殿中を進めば、松の廊下で幕臣と静かに談笑している吉良上野介を見つけた。吉良はこちらに視線を向けると小さくふと笑う。
内匠頭は何かが爆発したように目の前が真っ白になり、気付けば誰ぞに羽交い絞めにされていた。
「殿中で御座る、殿中で御座るぞ。」の言葉にはっとなりぶるぶると震える我が手を見れば儀礼用の刀と、目の前に額を割られ倒れ伏す吉良上野介。
力が抜けた浅野はからりと刀を取り落とすと引き摺られる様に城の外へ連れてゆかれた。