起の巻
※注意:この物語は数多ある忠臣蔵の物語をご都合主義でアバウトに参考にしております。杜撰な歴史考証での赤穂事件の取り扱い、悪者じゃない吉良上野介は認めない方は今すぐバックだ、ノークライム・ノータリンでお願いします。うちとの約束だぞ!
ちらつく雪の中、冬の冷気でかじかむ手足。槍で刺された脇腹の傷が燃えるように熱く疼く。
火消し装束をまとった若者に炭小屋の外に引きずり出され、四十過ぎの男が「吉良上野介義央に間違いない。」などと確認を取っている。
盗賊の仕業かと思った襲撃だが、目の前に立つこの男には見覚えがある。
赤穂藩の筆頭家老で確か大石内蔵助良雄といったか。父の急逝で役目を継いだだけの昼行燈と噂された愚物だけによう覚えておる。
と、するとこの襲撃は浅野内匠頭長矩が切腹した事への報復であろう。このような事を起こせば赤穂藩にも累が及ぼうというに、主従共々なんと愚かな。
そう思ったのも束の間、ぬかるんだ地面へと蹴倒され首筋に熱が走る。
昏く落ちゆく意識、これが死か。
悲鳴にならぬかすれたような声をあげ夜着を跳ね上げる。布団も羽織った小袖も大量の汗でぐっしょりと濡れており、漂う冬の冷気が体温を急激に奪ってゆく。
夢か・・・。否、夢にしてはあの場の情景がはっきりし過ぎている。刺されたはずの脇腹に手をやればずきりと鈍い痛みが走り、見れば蚯蚓腫れのように赤くなっている。
よもや予知夢なるものか。それとも首を落とされる前に助けが来た・・・。いや、そのような時間はあるまい。
何者かが儂を助けに現れたとして、大石めは首を落とさずとも儂を斬り伏せ討つ時間は裕にある。
あの場に居たのは大石の手の者だけで、刺し違えても儂を守ろうとした護衛はこと切れて転がっておった。
そうじゃ、今はまだ元禄十三年十二月。愚か共が儂のもとに討ち入った二年前ではないか。さすれば浅野が饗応役に立てられるのは来年であろう。
しかしなぜ内匠頭めはあのように場も弁えず儂に斬りかかって来たのだ。
義央は体が冷えるのも構わず湿気った布団にあぐらをかき考えた。
赤穂藩主である浅野内匠頭が饗応役に選ばれ、幕臣旗本である儂が指南役として推された。
以前も赤穂藩が饗応役に選ばれた時に指南をしておるし、その時は大過なく御役目を果たしておるので恨まれることはあるまい。
変わった事といえば浅野の使者が慣例となっている指南の礼金でもある付け届けを渋り、儂が苦言を言うた事か。
昨今の物価高も相まってどこの藩の財政も逼迫しておるのは理解できる。
しかし儂にも養わねばならぬ領地領民がおり、その者らの為にも特別に甘い事は言えん。
もし儂がすんなりと「付け届けを払わなくともよい。」などと抜かそうものなら、儂の面目も立たぬだけではない。
今後指南を受ける者達まで幕府のお役目や儂を侮り、払わぬと言いかねぬ。これまでに付け届けを真面目に払った者達の顔も潰す事になろう。
どうしても払えぬと繰り返すので礼金が少ないのも受け入れたが、その恩も仇で返しおって。
それとも朝廷の勅使を招く観智院の畳替えを指摘した事であろうか。
そもそも朝廷の勅使、公家などともなると時世の動きなどよりも慣習や慣例を重く見る。
儂も強く言いすぎたかも知れぬが、あのまま古畳を変えもせなんだら御役目に支障が出る。勅使殿が気分を害され、そのまま帰られるなどという事になれば上様になんとお叱りを受けるか。
そのような不手際は浅野だけの咎では済まぬ。指南した儂の咎にも成りうる上、上様も儂の指南に疑問を持つであろう。
なればこそ過不足なき正しき指南を行わねばならぬ。それも知らずにあの若造め、御役目を軽んじたのではあるまいな。
浅野が場所も弁えずに起こした刃傷沙汰で儂も今の屋敷を追われ職も辞す事になったのだ。討ち入りたいのは儂の方だ。
頭に血が上りすぎていて気付くのが遅れたが、汗に濡れた体はとうに冷え切っている。
上野介はくしゃみを一つすると跳ね飛ばした夜着を羽織り、行灯に火を入れると文机に白紙を広げて唸った。
「ううむ、やはり未だ死にとうはない。」
本所の屋敷に移ったところで大石らが討ち入ると町民が噂をしておったから屋敷に人を増やし警戒はしていた。
しかし人を増やせばその分の銭もかかる。いつまでも警戒態勢など続くものでは無い。ひと冬ずっと討ち入りに備えておったら儂の家の財政は干上がってしまう。
それに警戒している中で討ち入りが始まる確証も無い。大石めは儂が干上がるのを待って夏に悠々と討ち入ってもよいのだ。
ならば討ち入りの理由や大義名分を無くせばよい。やつ等が討ち入ったのは何故か。町人共は浅野内匠頭の仇討ちであるとしきりに噂していたようだが、それは表向きの理由でしか無かろう。
浅野は殿中での件で上様の強いご不興を買い、赤穂藩は改易。大石らは御家再興に奔走したが叶わなかったと聞く。
となると大石らは座して待てば全てを失い、浪人として仕官先を探す日々が始まる。その時自分をどう高く売り込むか。
浄瑠璃坂の仇討ちを参考に儂を討ちとる事で名を上げようと考えてもおかしくはない。
つまりは赤穂藩が安泰ならば大石めは討ち入りをする必要が無くなる。しかし、これだけではまだ安心はできぬ。浅野は場所も弁えずに斬りかかって来るような危険な若造なのだ。
たとえ浅野が暴発しても儂に類が及ばぬようせねばなるまい。そのためには儂に損が無い形で赤穂藩に恩を売る。
儂に覚えはないが、浅野があの時発した「此度の遺恨、覚えたるか。」を誰が見ても乱心であるようにして、仇討ちの大義名分が立たぬようにするか、そもそも乱心せぬように持って行かねばならぬ。
赤穂藩と儂に同時に利をもたらすものはあろうか・・・。上野介はしばらく瞑目して考えると筆を動かした。
上野介は紙に『塩』と大きく書く。瀬戸内にある赤穂藩は機内の庶民に向けた大衆塩を取り扱っている。儂の三河にある領地でも東海道や将軍家向けの高級塩を扱っており販路を競することは無い。
昨今の物価高で薪代も上がり利鞘が減った製塩を改良できれば互いに実のあるものとなる。
奥州に販路を持つ仙台藩や羽州北関東に販路を持つ能登加賀藩あたりを巻き込んでおけば赤穂の小僧共もそう悪さをできまい。