001
こじんまりとしたアパートの部屋に、壮大なゲームミュージックが流れる。ぼんやりとパソコンのモニタが明るくなり、タイトルロゴが映し出されると、部屋の主である”彼”はごくりと唾を飲み込んだ。
老舗MMO-RPG〈エルダー・テイル〉。全世界で二千万人ものプレイヤーがいるとされる大人気ゲームに、彼はのめり込んでいた。高校入学と同時に買ってもらったパソコンで、〈エルダー・テイル〉の世界に足を踏み入れてから五年。思えば、彼にとってここまで長くプレイしているゲームは少ない。同級生にPCゲームをしている人はほとんどいなかったが、それでも〈エルダー・テイル〉が彼を歓迎する限り、彼の一番の楽しみはそこにあった。自作PCに手を出したり、なけなしのバイト代でモニタを買ったりと、彼の青春はこのゲームと共にあるといっても過言ではないだろう。
そして今日は、待ちに待った新拡張パック〈ノウアスフィアの開墾〉の導入日。この日のために大学は午前の授業しかとらなかったし(拡張パックの導入は深夜なのだが)、その講義中すら掲示板を見て過ごした。掲示板はもちろんお祭り状態である。皆がモニタの前で同じように、少し緊張をしながらも頬を緩ませていると、簡単に想像できた。
「・・・そろそろかな」
拡張パックのインストール状況を表すバーが95パーセントを超え、音楽が転調にさしかかったとき、やけにリアルな土の匂いが漂った。彼が不思議に思う間も無く、視界は暗転し、意識が途絶えていった。
***
目を覚ますと(寝ていた覚えはないのだが、感覚はそれに似ていた)、澄んだ空気が鼻を通り抜けた。やけに背中がしっとりしている。
「・・・なんだ、これ」
体が重くて、上手く起き上がれない。頭だけ起こしてみると、着古したスウェットだったはずの衣服は、見覚えがある武士風の鎧になっていた。
「〈涅槃の肩衣〉?」
ヤマトサーバのなかでも希少で高性能な〈武士〉専用装備。高難易度クエストを潜り抜けた報酬で、アイテムの効果も、見た目も大変気に入っていた。一度は実際に着てみたい、そんなリアルイベントがあればと思っていたが。…いや、今大事なのはそうではなく。
「(まさか。ゲームのアイテムだろ。それは)」
周囲の喧騒が耳に入ったのは、その時だった。
「どうなってるんだよこれは!」
「責任者は!?オイ!」
「でかい声で騒ぐな!」
「…」
大声を上げる者、なにやら空中を指で操作している者、立っていられないのか地面にくったりと横たわっている者。だれもかれもが中世的な鎧やローブに身を包んでいる。いつか行ったコミケの様子に似ていたが、コスプレにしてはクオリティが高く、なによりここには現実世界らしいものがひとつもない。廃ビルのような建物は苔むしているし、あらゆるところから木が飛び出ている。
「う、なんだ!?」
視界いっぱいにウィンドウのようなものが飛び出してきて、思わず目を閉じた。おそるおそる目を開くと、それはモニタでよく見たステータス画面に酷似したもので、彼のことがパラメータで事細かに説明されていた。
「リョーキ。レベル90、武士」
苦笑いするほかなかった。この世界では、彼はリョーキなのだ。それ以外の名前も、情報もない。まるで、現実の彼などいないかのように記されている。
「・・・はは」
思わず乾いた笑いが出て、リョーキは湿り気のある苔の上に座った。
***
“すぐには帰れそうにない”、そう気づいた者が増えたのか、いつのまにか周りはどんよりとした空気に変わっていた。GMコール(ゲームマスターへ繋いでくれるサポートセンターのような機能)も、ログアウトするもできない。コマンドを見つけた全員が淡い期待を持って真っ先に試し、落胆した。外のフィールドへ続くゲートをくぐる者も何人か見たが、アキバから出る気にはならなかった。リョーキは〈エルダー・テイル〉ではレベル90。つまり現段階での最高レベルにまで育成されている。アキバからほど近いフィールドエリアは、そこそこ低レベルのモンスターが配置されていたはずなので、死ぬことはまずないと思うが、この重い鎧と満足に振り回せもしない刀に慣れないことには、モンスターと戦うことなどままならないだろう。まずは少し体を慣らそうと歩き始めた時、聞き慣れた声がリョーキを呼び止めた。
「・・・座長!!!」
「うわぁっ!?」
驚いて下を見ると、壺や巻物のようなものがあちこちに転がっていて、思わず転びそうになる。そしてそこにぺたんと座り込んでしまっているのは、ゴスロリ風の装備に身を包んだ、ギルドメンバーでもっとも信頼のおけるひとり、カイネだった。
「お前、こんなところにものを散らかして・・・」
彼女の奇行に気を取られ、咄嗟に出たのは再会の喜びやこんなところに来てしまったことへの労いでもなく、ため息を含んだものだった。
「まあまあ座長、いきなり怒らないでよ」
カイネは、〈エルダー・テイル〉はゲームグラフィックを学ぶために始めたと言っていた。おそらく学生で、同い年だと思う。いつしか〈骨董〉アイテムに興味を持つようになった彼女には、なんの効果もない壺だけが報酬のクエストに何度も付き合わされたことがある。廃屋みたいなダンジョンにアイテムがあると言い張り、散々歩いた挙句、「やっぱりここじゃない」と言われて帰還呪文を唱えたときには、どうかしてしまいそうだった。
「どれもこれも”本物”で、びっくりしちゃって」
「だからってこんなに広げることないだろ」
散らばった〈骨董〉アイテムに手を伸ばし、できる限り一箇所にまとめていく。カイネの手によって〈魔法の鞄〉に吸い込まれていく様子はなかなかに不思議で滑稽だ。体積も質量もお構いなしに、小さな鞄に収まってゆく。すべてまとめ終えると、妖術師専用の魔法杖〈サクリファイス・ロッド〉につかまりながらカイネは体を起こした。
「まぁ、何はともあれ座長に会えてよかったよ」
アキバの適当な宿屋でログアウトして拡張パックのインストールを待っていたはずだが、気がついたら路地裏に寝転がっていたらしい。そのとき放り出されていた〈骨董〉アイテムのつくりの精巧さに目を奪われ、鞄をひっくり返してすべてをじっくり見ていたという。
「まあ、あの辛気臭い広場じゃ、どうもな」
リョーキのぼやきに、同情の意でため息をついたカイネは、どうやらリョーキと同じくあの空気に耐えられず色々試していたようだった。といっても、得られた情報はほとんど同じ。アイテムは問題なく使える、魔法もおそらく使える。ただその情報は、この世界の普通に触れただけである。もう誰しもが気がついている。ここは剣と魔法の世界〈エルダー・テイル〉で、それが現実になったのだ。
「しばらくはここで生きるしか無さそうだね」
「・・・そうだな」
「あーあ。少し楽しんで帰れるなら、最高なんだけどな〜!」
カイネはぐっと伸びをして、ゴスロリのスカートを翻す。
「まあ、“俺たち”らしく生きてみるとしようぜ」
老舗MMO-RPGエルダーテイル。全世界に2000万人ものプレイヤーがいるこの世界に、〈冒険者〉たちは閉じ込められた。のちに今日のことを、〈大災害〉と呼ぶことになる。