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「比売神様、質問なんですが」と僕は言った。

「なんだ?」

「包囲網が完成する前に今すぐ撤収するというのはだめですか? 無傷のまま援軍に合流できそうな気がします」

 これには、できれば戦いに巻き込まれずに安全圏に逃げたいという僕の願望も込みだ。

 比売神様はなるほどとつぶやく。

「君も結構わかっているな。たしかに近江方が人間のみであるならばそれも考えられる。我らが退いてもなお襲撃を警戒して進軍は遅いだろう。しかし」

 比売神様は足元の図に矢印を描き足した。

「稲荷神が背後で指示している。するとやっかいなことが二つある。一つ目は、歴史的な事実を知っている、つまり援軍の行動は完全に把握されているということだ。援軍がしばらく来ないとわかっていればその到着までに一気に南下して飛鳥京を陥れるだろう。となれば我々は援軍を得たとしてもほぼ無傷で橋頭堡を築いた敵に正面から対峙せねばならない。これは実際の歴史よりも難しい展開だな」

 なるほど、そう言われるとそうだと思わざるを得ない。吹負が隣で腕組みをしてうなずいていることからして、これは最前線の武将にとっても納得できる判断のようだ。

「二つ目は、我々が史実と異なる動きをした時点で私が関与していることが知られてしまうということだ。もちろんいつかの時点で知られるのは必然なのだが、そのタイミングはできるだけ遅くしたい。いつの間にか我々のペースにはまり込んでいるというのが理想だ」

 比売神様は続ける。

「では、逃げないとしてどうするか。何もしなければ敵の狙い通り包囲殲滅されてしまうが、ここに一案がある。現代とこの時代をつなぐ通路は形成のトリガーとなった吹負と颯太がいることで不安定性が増している。これを使えば奈良の市街地周辺で、我々が『時空の隙間』と呼ぶ異空間を生み出すことができると踏んでいる。我々は何も知らないふりをして偶然迷い込んだという体でそこへ逃げ込み、敵を閉じ込めた上で市街戦に持ち込んで大軍を食い止める。その異空間内で戦うぶんには現実世界への影響はない。我々に有利な状況に持ち込んで歴史改変の可能性を潰したい」

 時空の隙間がどのような概念なのか僕はよくわからない。吹負は僕よりもさらに理解不能という顔だ。それを見て比売神様が付け加える。

「時空の隙間というのは、言い換えれば、平行世界(・・・・)とかもうひとつの(・・・・・)世界線(・・・)というイメージでいい。現代でいうところの奈良市周辺の狭い範囲で出現したその平行世界とこの世界をつなぐ。また吹負のために言い換えると、この世と神の世のあわい(・・・)へつながる道を開くということだ。あわい(・・・)の地は私にとってある程度勝手がわかっている。少しは有利に戦えるだろう」

 ふむ、と吹負がうなずいた。

「さてここで重要なのは時空の隙間へ敵を誘い込むまでは私の関与を気づかれないこと。気づかれれば敵は戦略を変えるだろう。何も知らない、包囲されて慌てて逃げようとしているかのように見せかけなければならない。しかしそれはわずかに遅れただけで全滅のおそれがある」

 比売神様は「吹負」と書かれた丸の上にバッテンを描いた。吹負はじっとそれを見つめている。吹負の顔からは、かなり際どい展開になっているらしいことが察せられた。僕は吹負が腰から下げている刀を見た。当然ながら真剣だ。一歩間違えば僕は敵の刀に斬られることになるだろう。きっと冷たい痛みだ。その痛みや苦しみへの恐怖もあるし、はるか遠い飛鳥時代で死体となって打ち捨てられることの寂しさや心細さが胸に迫る。

「うむ……」

 吹負は顎に手を当ててしばし考え、それからゆっくりと立ち上がった。

「作戦は理解しています。やりましょう。しかしお話を伺って考えるに、準備を早めたほうが良いですな。比売神様も颯太も、戦の準備をしたほうがいいでしょう」

 さらに僕に尋ねる。

「颯太は戦の経験はないな?」

 もちろん、現代の平和を謳歌している僕にそんな経験はない。僕はうなずく。

「ならば馬に乗る練習をしておく必要があるな。高市麻呂!」

「はい!」

 吹負が唐突に名を呼ぶと、幕の向こうから高市麻呂の爽やかな顔が現れた。

「颯太に馬の乗り方を教えてやってくれ。半時でどうにか」

「半時?」

 高市麻呂は驚いた様子である。そして僕はおそらく高市麻呂以上に驚いている。半時ということは一時間。それで馬に乗れるようになれというのは唐突にもほどがあるんじゃないか。

「馬にしがみついているだけでもいい。颯太が一里は走れるようにしてくれ」

「なるほど……」高市麻呂はこめかみのあたりを押さえながら思案し、僕の頭からつま先まで何度も視線を往復させた。しばらくそうしてから僕の前にしゃがんで太ももやふくらはぎを観察し、それからうんとうなずき、ついに結論に至ったのかにこりと笑った。

「なんとかします」

 高市麻呂的には、できるという判断に至ったようだ。吹負もうなずく。

「任せたぞ」

 吹負は高市麻呂の肩をぽんと叩いた。

「では比売神様、早速作戦準備といきましょう」吹負はそう言って比売神様を誘い、幕の外へ出ていく。

「うむ」比売神様はそう答え、それから僕に言った。「颯太、半時後が楽しみだな」

 無表情だが、かすかに意地悪な笑みが浮かんだ気がしなくもない。

 幕の外からは吹負の声がして、陣地はにわかに慌ただしい雰囲気になった。

「本当に馬に乗れるようになるんでしょうか……」

 僕は不安になって高市麻呂に訊いてみた。

「できますよ、大丈夫!」

 青年は爽やかな笑顔で答えた。

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