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 壬申の乱はひとことで言えば、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)と、その甥である大友皇子(おおとものおうじ)とによる、皇位継承をめぐる争いである。ただし乱の発端についてはいまひとつはっきりしない。特に仲が悪かったとする言い伝えはないし、権力に目がくらんだかどうかもよくわからない。痴情のもつれが原因ではないかと推測する人もいるがそれとて明確な根拠に基づく話ではない。それに、先代の天智天皇が健在の折、大海人皇子は吉野(現代の奈良県中部)の山中に退隠し皇位継承を自ら放棄していた。そのように表面上は争いがないと思われる状況において大海人皇子は突如として挙兵したのである。

 この当時の朝廷は天智天皇が近江(おうみ)国に造営した近江大津宮(おおつのみや)(現代の滋賀県大津市)であり、吉野からはそれほど遠いわけではない。普通の(いくさ)ならば両者はすぐに正面から対決することになるだろう。しかし既に退隠していた大海人皇子には大友皇子に対抗できるほどの武力はなく、直接大津宮へ攻め込むことは到底不可能だった。大海人皇子がとった戦略は、伊賀の山を越えて伊勢(三重県)に至り、以前から連絡のあった尾張(愛知県)・美濃(岐阜県)の有力者たちの協力を得て軍を組織することだった。この行動はきわめて迅速だったうえに、大海人皇子方が早い段階で街道を封鎖したために、大友皇子方は初手で有効な手段を取ることができなかった。かくして誰もが予想しなかった互角の形で電撃的に戦端が開かれることになった。

 吉野から伊賀・伊勢・尾張・美濃に拠点を置いた大海人皇子が対処すべき敵は三方面にあった。すなわち、本隊は近江へ東の美濃から攻め込む。近江の南に接し大津宮から近い伊賀・伊勢では敵を引きつけ本隊の進攻を助けるとともに敵の攻勢を食い止める必要があった。また、この当時の経済的・政治的中心地である大和国(奈良県)の飛鳥京(あすかのみやこ)を押さえるのも重要だ。ここにわれらが大伴吹負が登場する。吉野を出発した後に兄の馬来田とともにわずかな手兵を率いて皇子の本隊から分かれていた吹負隊は、飛鳥京(奈良県明日香村)に駆けつけ、内応者の協力も得て政治的拠点を掌握したのだ。

 とはいえ安心してはいられない。大津宮からはやがて大軍が大和を取り返しに来るだろうし、西の河内(大阪府)でも軍が動き出すという情報があった。大和方面に攻め込んだ吹負たちは小部隊であったため敵の大軍が攻めてくるようなことになると人数が足りない。しかし美濃・尾張の援軍が到着するまでなんとか飛鳥京を守りきらねばならない。吹負は手兵を北へ動かし、乃楽山に布陣して敵を迎え撃ち、援軍到着までの時間を稼ぐことにした。

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