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 道は右へ向きを変えた。現代なら平城宮跡(へいじょうきゅうせき)の近くだろうか、しかし復元された第一次大極殿があるはずのあたりも、風景は相変わらず田んぼと沼地と村ばかりだ。道はやがて林の中に入り、緩やかな坂を上り、さらに進むとそこは木が伐られた広場のような空間が広がっていた。

 鎧を着て刀や弓を持った武人たちが百人ほどその広場に群がり、ある者は丸太を運び、またある者は柵を作り、走っていく者、議論している者、食事をしながら談笑している者などさまざまで、ちょっとした喧騒があった。どうやら戦の陣地のように見える。

 隊長と馬を曳く隊員はためらわずその真ん中へ馬を進める。何人かが僕たちに気づき、こちらにやってきた。

「隊長、お疲れさまです!」

 日焼けした、歯の白いさわやかな若者が汗を拭きながらにこやかな大声で声を掛けた。それで僕は、隊長は本当に隊長だったんだなと思った。なんだかどうでもいいような感想ではあるが。

 隊長は若者に応えて手を挙げる。

「おう、戻った。敵の動きはないか?」

「物見からは『何も無し』の報せです。まだ菟道(うじ)の川までは達していないようです」

「了解した。もてなしの準備はできているか?」

「はい、できています」若者はそう言い、僕たちをちらりと見た。「そちらがお客様で?」

 周囲にいた男たちの視線も比売神様と僕に集中する。戸惑いと好奇心と少しの警戒が入り混じったような顔がずらり。それはまあ当然の話で、古代の服と鎧を着た男たちの中で現代の服を着た僕たちはあきらかに異質な存在だった。おまけに比売神様は戦場になんて到底いそうにない美少女である。

「こちらが比売神様だ」

 隊長が紹介すると、あちこちで「おお」とか「あのお方が」みたいな驚きの声が上がり、急にかしこまった感じになった。頭を下げる者や手を合わせる者もいる。呼び名が比売神様とというだけでなくどうも本当に神レベルで尊敬されているらしい。タイムスリップするくらいだから本物の神様的な存在なのかもしれず、とりあえず美少女の姿をした何か得体のしれないものであることは確かなようである。

「それから、そちらは……」

 と、隊長が比売神様に曖昧に視線を送る。僕が何者かわからず困惑しているという感じだ。まあ、それは僕も同じで、ここにいる人たちが何者かわからず困惑している。

吹負(ふけい)の末裔だ」

 比売神様は前置きもなくそう言った。それでわかるだろう、とでもいう感じで。みんな怪訝な顔になった。

「私の?」

 と隊長が尋ねた。

「そう、吹負のだ。おもしろいだろう」

 比売神様は答えた。しかし隊長も隊員たちもやはりよくわからないという顔である。僕もよくわからない。とりあえず隊長の名前がフケイというらしいことだけはわかった。

「まあよい。詳しくは三人でゆっくり話そうではないか。久しぶりに馬に乗って疲れたことだし」

「あ、これは失礼しました。お休みの準備はできておりますので」それから隊長は若者に向かって言った。「高市麻呂(たけちまろ)、案内せよ」

「はいっ」

 高市麻呂と呼ばれた例のさわやかな若者は先頭に立って陣地の先へと僕たちを誘導していく。年は僕よりも少し下のように思えるが、所作はきびきびとして自身に満ちて、現代にいれば勉強もスポーツもなんでもできる優等生タイプだなと思う。

 陣地の隅の一角には幕が張られ、背もたれのない低い簡素な椅子が三脚置かれていた。

「この程度の物しかなく恐縮です」

 高市麻呂が比売神様に礼儀正しく頭を下げた。

「いや、構わない。戦場で余計な仕事を増やしても仕方ないからな」

 比売神様は澄んだ声でそう言い、慣れた様子でひらりと馬から下りた。スカートの裾が翻り、金色の髪が輝いて舞う。優雅であり、たおやか。

「これをお使いください」

 僕の馬を曳いていた隊員氏が踏み台を置いてくれたので、僕はそれを使って不器用に馬から下りた。

 僕たちが椅子に座った頃合いを見計らったように高市麻呂が小さな器を三人分持ってやってきてそれぞれに配った。

「人払いをいたしましょうか?」

 器は素焼きで、中に白湯が入っている。この暑い夏にお湯か、と一瞬訝しく思ったが、水道のない時代だから生水を出さないのもまた気配りなのかもしれないなと一人納得した。僕が頭の中でそんなことを考えているうちに比売神様が答える。

「そうしてくれるとありがたいが、どうせ皆聞き耳を立てているのであろう?」

「いえ、その」

 高市麻呂は苦笑いする。

「まあ、よい。聞かれて困る話でもない。不要だ」

「はい、それでは失礼します」

 比売神様は白湯を一口飲んだ。僕もつられて同じように飲む。思いがけずおいしかった。ミネラルウォーターとして売ったら結構人気が出るんじゃないかというくらいに。

 ぬるめの湯を飲み、椅子の上で肩の力を抜くと、ようやく実感を持って周囲の様子を見ることができた。夏の午後の空気と蝉の声。目の前に座っているのは紛れもなく古代の武人である。日焼けした腕に筋肉が盛り上がり、眼光は鋭いというよりも人生経験を沈着させたかのように深く重い。比売神様によると千三百五十年前だというが、目に見えるものも手に触れる素焼きの器の感触も吸い込んだ風の匂いも、僕にとっては今まさに現在の体験として感覚できる。

 ふと思いついて比売神様に尋ねてみる。

「千三百五十年前っていうと、西暦何年ですか?」

「六七二年だ。干支(かんし)壬申(じんしん)

「壬申の乱ってありましたっけ」

「そう、壬申の乱。この場所は乱の最前線にあたる」

 僕はそのあたりの歴史には詳しくないので、壬申の乱の中身がどのようなものだったのかはよく知らない。しかし教科書に載るレベルの乱であるからには人が死ぬくらいの戦闘はあったのだろう。比売神様はさらりと言ったが、その乱の最前線にいるというのは結構危ない状況ではないのだろうか。

 僕の考えを察してか、比売神様は言う。

「危ないといえば危ない。間違えると死ぬかもしれない」

「マジですか」

「だが間違えないようにはする。私はこんな背格好だが」比売神様は両腕を上げて細っこい体の線を僕に見せる。「これでも経験豊富なのだ」

 見た目には子供だし、戦場での殴り合いで勝てそうにも見えない。しかし時を超え神と崇められる存在なのだから、きっとなんとかしてくれる……だろうか? なんとかしてくれないと困る。

「ともあれこれから共に戦う仲間だ。まず君たちにはお互いのことを知っておいてもらいたい。吹負、まだ彼のことは知らないな?」

 と比売神様は僕を指差して言った。そうか、もう戦う前提なのか。

「ええ、私の末裔とだけ……」

「そうだったな。彼の名は(ばん)颯太(そうた)だ。吹負からすると千三百五十年後の子孫にあたる」

「千三百……いや、ここへ来るまでに比売神様からその年数は伺っていましたが」吹負はやや戸惑ったように答えた。「わが血筋がそれほど続いているのは驚くやら嬉しいやら……氏名(ウジナ)も変わったようですな」

「まあ、いろいろあったな」

「なるほど」

 それから、膝に手を置き、僕に向かって小さく一礼した。

「時を超えてよくぞ来られた。ぜひ力を貸してもらいたい」

 どうも、と僕も頭を下げる。

 そしてふたりともが頭を上げたところで、今度は比売神様は吹負を指差して言った。

「こっちは大伴吹負(おおとものふけい)。いや、(カバネ)を入れるのが正式か。大伴連(おおとものむらじ)吹負」

「呼び名はいずれでも構いません」と、吹負。

 比売神様はうなずいて続ける。

「颯太から見ると反対に千三百五十年前の先祖にあたる。この時代の大伴氏は大臣を務めるような国の要だ。吹負や兄の馬来田(まくた)の代になってからは冷遇されているが指揮官としての能力はかなりのものだ」

 めっそうもない、と吹負が謙遜する。しかしその低姿勢にはまんざらでもないという自信があるようにも見える。正直なところ大伴吹負という先祖の名前を知らないが、こうして近くで向かい合ってみると頼もしそうな人だと感じる。

「そして最後に」と比売神様は言った。「私は比売神と呼ばれている。またの名を春日神(かすがのかみ)ともいう。春日山に住む土地神だ。あるいはそういうことになっていると言うべきかもしれないが今はどちらでもよい」

「はあ」

 と、僕は答えた。神様。なるほど、と咀嚼する。タイムスリップが事実であるなら、これも信じざるを得ない感じだ。ちなみに春日山というのは春日大社の裏手にある山のことである。

「春日大社に祀られている神様ということですか」

「そういうことになるな」

 比売神様はうなずいた。

「私が春日山に降り立ってから現代まででおよそ二千年が経つ」

「二千歳……」

 と僕は思わずつぶやいていた。まあ神だし二千年くらい生きてもいいのかもしれないけれど、見た目十二、三歳の美少女と二千歳という現実とがうまく噛み合わない。

「年寄りだと思うか?」

「い、いえ、見た目とずいぶん開きが……」僕は戸惑いながら答える。

「見た目は仮のものだ。そもそも私たちには人間が認識できる実体というものがほとんどない。この姿は私たちの世界での私という個体のイメージを君たちの認識できる形に投影したものだ。だから千三百五十年の間ほとんど変化していない」

 なんだかわかりにくいが、神世界でもイメージ的には美少女だということだろうか。向かいの吹負はそのあたりの理屈がよくわからないらしく神妙な顔で顎をさすっている。

「ところでこの時代の比売神様はいないんですか?」

 と僕は尋ねてみた。うっかり鉢合わせしてまずいことになるというのはタイムトラベル物にありがちな展開である。

「いる。が、友と連れ立って東国へ遊びに行っている。富士山を見て、霞ヶ浦を船で渡り、蝦夷(えみし)の国へも行った。あれはずいぶん楽しい旅だった」

 比売神様はそう言って、昔を思い出しているのか手に持った白湯を見つめている。

「昔のことをよく覚えてますね」

「人間とは記憶のしかたも容量も違うんだ。大容量の記憶装置に動画のデータが入っているようなイメージをもってくれればいい」

「コンピュータみたいな?」

「だいたいそれでいい」

 さて、と言って、比売神様は白湯を傍らに置いて立ち上がり、そばに落ちていた小枝を拾った。

「自己紹介が終わったところでこの時代の情勢と、私が何をしようとしているのかを概略説明しておきたい。いいか?」

 僕と吹負がそれぞれうなずく。

「よろしい。まずは壬申の乱の経緯だが……」

 比売神様は小枝で地面に図を描き始めた。

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