二
目を開けると、かすかに周囲の様子が見えた。どうやら感覚が戻ってきたらしい。手足を動かしてみると、自分がうつぶせに倒れているのが確かに感じられた。吐き気や頭痛もなくなっている。
起き上がり、見回してみる。木造の建物の中のようだが、内侍殿とは違い、障子はなく板壁で囲まれていて、そのせいでほとんど真っ暗である。壁の隙間からわずかに光が漏れていて物の輪郭がなんとか視認できる。広さは内侍殿の半分ほどで床は畳でなく板張りだ。少女も鹿之介さんも姿は見えなかった。倒れている間に別の場所に連れてこられたのだろうか。
外からはなんとなく、セミの鳴き声とか木の葉ずれのような音が聞こえている。木の匂いがした。僕の正面には観音開きの扉がある。近づいてそっと押してみると、扉はすんなりと開いた。まぶしい真夏の光がセミの大合唱とともに押し寄せてくる。
むさ苦しいほどの草の匂い。土の匂い。湿り気を含んだ夏の暑い風。それは奈良の街中とはまったく違った。都市の喧噪から離れた田舎、というよりも。
文明化していない。
地面に直接茅葺き屋根を置いたような竪穴住居が一、二、三……七棟。それに加えて、僕が立っているこの建物は高床式で、地面から二メートルほどの高さに床がある。竪穴式でない、壁のある普通の家も一棟。歴史の教科書に描かれている古代の村の風景そのものなのだった。映画のセットや博物館の屋外展示にしてはリアルにできすぎている気がする。何より、周囲の山や森の様子は現代とは思えないほど自然そのものという感じだ。いったいここはどこなのだろう。
村は三方向を森に囲まれ、開けた側には田んぼが無数に連なり、緑色の稲の葉が夏の風にそよいでいるのが見える。そして田んぼの間を縫うように通っている畦のような道を、人の列が左から右へ進んでいる。
よかった、人がいた。ここがどこで、どういう状況なのか訊いてみよう。それで僕は足元の階段を伝って高床建物から下り、村に人がいないかと見回しながら家々の間を抜けた。どの家も人の気配はなかった。木で作られた鳥居のような門をくぐり、田んぼが見渡せる場所に出たところで、行列とは別に木陰に数人の人を見つけた。腰に刀を下げ鎧をまとった男が一人と、同じく刀を持っているが鎧を着ていない男が五人。全員、髪を伸ばして結んでいる。服は着物のように前あわせにして帯を締めている。隊長と部下たち、というのが第一印象だ。そして、隊長と思しき男と話しているのが、あの少女である。特殊な状況であることは間違いないが、映画撮影という雰囲気ではないし(撮影クルーがいない)、博物館の解説員などでもなさそうだ。かといって少女が怪しい男たちに絡まれているという感じではなく、むしろ男たちのほうが低姿勢に見える。状況がわからない。
「誰か?」
部下のうちの一人が僕に気づいて声をかけてきた。全員の視線が僕に集まる。男たちは怪訝な顔だが、しかし敵対的な様子ではない。
少女が男たちに手で合図して、こちらへ歩み寄ってくる。男たちはその後に続いた。内侍殿の中で見たときと同じく透き通るような美少女だ。内侍殿で座っていたときも小柄な印象ではあったが、やはり身長は小学校高学年か中学生なみといったところか。金色の髪が太陽光の下で輝きを放っている。緑色のスカートが真夏の風に翻る。
「目が覚めたか。気分はどうだ?」
と、少女は相変わらずの口調で尋ねた。幼さの感じられる声だが、大人のように落ち着いている。
「まあ……」僕はそう言いながら、自分の体の具合を確かめる。吐き気も頭痛もなくなっている。
「悪くはないです」
と、僕は答えた。なんだか間の抜けた返事だなと思った。
「それはよかった。きっと混乱して弱っているだろうと思ったからな」
「弱ってはいないですが混乱してます」
僕が言うと、少女はふふふと笑った。
「それはそうだろう。しかしともかく成功ではある」
少女は背後の男たちのほうを向いた。
「立ち話も何だな。乃楽山の本陣に行ってゆっくり話すとしようか」
「はい、それがよろしいかと思います」
鎧を着た隊長(ということにする)はそう言い、僕をちらりと見た。それから、部下たちに向かって言った。
「馬を二頭。それから、乃楽山に行って高市麻呂に客人を迎える用意をするように伝えてくれ」
「はっ」
五人の部下たちはすぐさま田んぼの向こうを行く人の列に向かって駆けていき、そのうちの二人は馬を連れて戻ってきた。金色の飾りがあちこちに着けられた、なんだか豪華な馬だ。競馬場で競走馬を見たことはあるが、それに比べると少し小柄で、ずいぶんおとなしい馬という感じがする。
少女は慣れた様子で馬の背に上り、スカートの裾をわずかも乱さずに横向きに座った。
「君も乗るといい」
と、少女は言った。説明のないまま事態が進み、僕の頭の中は混迷の度合いを深めていく。あと、僕は馬に乗ったことがない。
「どうやって乗ればいいのかわからないんですが」
「適当でいい。そちらに手伝ってもらえ」
馬の曳き綱を持っている隊員(と僕は心のなかで呼んだ)が僕に会釈した。
「これ、鐙に足をかけてまたがってください。上るときには私が手助けしますので」
「あ、すみません」
丁寧に対応されて恐縮してしまう。少女は隊員氏と顔見知りかもしれないが、僕は初対面だし、上下関係でもない。
言われたとおりに鐙に足をかけ、馬の背によじのぼる。隊員氏がお尻を押し上げてくれたので不器用ながら特に苦労なく乗ることができた。乗ってみると目線の位置が高くて眺めがいいし、安定感もあって意外と乗り心地がいい。
隊長も馬に乗ってやってきた。さきほどまで近くの木に繋がれていた馬だ。乗馬の心得があるようで、手綱で軽やかに馬を操っている。
「では、参りましょう」
先頭を隊長の馬が行き、その後ろに少女と僕の馬が隊員たちに曳かれて並んで歩き始めた。馬は思いの外、揺れた。僕はたしかに生き物に乗っているんだなというのが、初めて馬に乗った実感である。