二十七
「くそっ!」
吹負が立ち上がり、鎧を脱いで火矢にかぶせ、火を消そうとする。しかし油を染み込ませた矢は火が消えるどころか畳に燃え移り、さらに大きな炎となっていった。
「比売神様!」
「まだだ」
炎、炎、炎……。僕は燃え上がる炎を見つめた。燃え盛る炎のトンネルのイメージがあった。目をつぶり、そのイメージを逃さないようにする。比売神様が寄り添い、手を取ってトンネルの先へと誘導してくれた。炎のトンネルがはるか向こうへ一気に伸びていく。その先は出口。それを抜けた先の暗闇に二人の男が座っているのが見えた。
「蝦夷!」
比売神様が呼びかけた。男は目を見開く。鴨蝦夷。今朝、伊賀への使者として出立した武人だ。
炎の通路が急速に縮み、内侍殿につながる。目を開ける。目前に、二人の男の姿があった。ひとりは鴨蝦夷。もうひとりは鎧と兜を着て、腰から大きな刀を下げている武人。ふたりとも何が起きたのかわからない様子できょろきょろと周囲を見回している。炎はすでに障子に移って燃え始めていた。
「火……あ、隊長、比売神様、これはいったい……?」
「細かく話している時間はない。菟、援軍は?」
比売神様が重武装の武人を指した。ということはこの人が、以前話していた置始菟か。菟という名に似つかわしくない大柄な武人。
「はっ。阿閉麻呂様から二千を預かって参りました」
「配置は?」
「祭殿の周囲と村の内部に二百。残りは村の出口の道沿いに配置しております」
「道――つまり奈良街道沿いか。上々だ」
比売神様の背後で炎が燃え上がった。障子から壁へ炎が燃え移ったのだ。
「比売神様、このままでは建物が持ちません。脱出を」
吹負が進言する。しかし比売神様は首を振った。
「大丈夫だ。逃げる必要はない」
炎は勢いを増し、天井まで燃え上がる。
「時空の境界を消失させる。吹負、こっちに座って円座になろう」
「それはどういう……?」
「時空の隙間から現実世界へ出る。君たちの元の世界へ」
焦げ臭いにおいと炎の熱気が僕たちを包む。内侍殿の入口はすでに炎の中にあり、逃げ道は絶たれた。もしも時空の境界を消失させることができなければ――時空の隙間から現実世界へ帰ることができなければ――僕たちは炎に焼かれて死ぬしかない。こんなことばっかりだ。蝦夷と菟も不安げに見つめている。
比売神様は目を閉じ、手のひらを畳の上に置いた。撫でるように手をゆっくり動かすと、小さな炎が立ち、徐々に周囲に広がっていく。
炎は僕の膝をも燃やした。熱い。しかし皮膚を焼かれる熱さではない。
炎はさらに燃え広がった。壁を焼き、柱を焼き、天井にも回り、僕たちは炎に囲まれた。黄色の炎、赤い炎、そして白い炎。体中が蒸発しそうなほど熱く、目の前は光に包まれ、まるで炎の海に溺れているような感覚になる。
次の瞬間、内侍殿の建物が崩れ落ちた。つづいて、石造りの建物が崩壊するかのように風景に亀裂が入り、ジグソーパズルのピースのように砕け、ばらばらと崩れ落ちていく。焦げた臭いと土の匂いが入り交じる。バリバリとなにかが割れる音。布を引き裂くような音。ありとあらゆる物が壊れていくような音の波。
それらが過ぎ去った後、一瞬の静寂があり、そして耳に飛び込んできたのは蝉の鳴き声だった。
薄暗い。五人の位置は変わっていない。しかし炎はなく、内侍殿の中でもない。見覚えのある部屋だ。吹負が立ち上がり扉を押し開いた。僕も後から続いて外に出る。頭上にはやや橙色を帯びた青空があった。正面からの西日が眩しい。暑い。炎の熱さではない。夏の風の暑さだ。目の前にはムラがある。僕が飛鳥時代に飛ばされて最初に見たムラの風景。竪穴住居がわずか七棟だけの小さなムラだが、今は武装した二百人の兵が満ちていた。
僕たちに気づいた兵が駆け寄ってくる。
「大伴吹負殿? 菟殿も! どういうことです? 先ほど急に現れた近江の者共を捕らえたところですが、いったい何が起きているのか……」
ムラの外からは馬に乗った兵が駆け込んでくる。
「申し上げます! 道の向こうに近江方と我が方の……おそらく三輪高市麻呂と思しき軍勢が突如現れました!」
「高市麻呂か!」
吹負が走り出す。僕も、比売神様も、蝦夷も、菟も、走り出す。
竪穴住居を横目にムラを駆ける。むせ返るような緑色。夏の日差し。
ムラの外にも味方の兵は満ちていた。そしてその先の、青々と育った稲の海の真ん中に、高市麻呂はいた。わずか数十の手勢を引き連れて、その周囲を数百の近江方の軍勢に囲まれて。そのどちらもが突然の事態に虚を突かれて呆然としている様子だった。時空の隙間の奈良県庁がなくなったことで、両軍は現実世界にそのまま放り出されたわけだ。
追いついてきた菟の大声が混乱を収束させる。援軍の大将、置始菟。
「攻撃用意! 攻撃用意だ! 高市麻呂を助けるぞ! 全員進めっ!」
兵たちの中から、わっと声が上がる。何人かが畦道へ走り出したのを端緒にして、全軍がそれに続いた。敵は遠目にも浮足立っているのがわかる。僕の隣にいた蝦夷もいつの間にか走り出し、軍の中にいる。
「私も行きます。比売神様、このたびはありがとうございました」
吹負が頭を下げた。
「感謝するまでもない。そもそもは神の間の諍いがすべての発端なのだ。人間を巻き込んでしまったことを申し訳なく思っている。よくここまで一緒に戦ってくれた。私こそ、ありがとう。武運を祈る」
駆け出そうとして、吹負はふと気づいたように立ち止まる。
「比売神様はまだしばらくこちらに?」
「いや、もう現代に戻ってしまうつもりだ。こちらはもう大丈夫だろう。さっき境界を消失したはずみでちょうど現代への通路が開きそうになっているんだ。面倒を少なくするためにもう飛んでしまおうと思っている」
「なんと、そうでしたか。訊いておいてよかった。名残惜しいことです」
「こちらの時代の私が数日後に東国から戻ってくるはずだ。そっちの相手をしてやってくれ」
「ええ、もちろん、喜んで」
吹負は一礼して、それから僕を見た。
「では、颯太とはこれで最後だな。ともに戦えたことを嬉しく思う。私はこれから皇子様とともに国を統一し、国を立て直していく。颯太たち子孫が暮らす国がより良くなるようにな。颯太もさらにその子孫のために力を尽くしてくれ。幸運を願う」
吹負は僕の肩を叩くと、振り向き、そのまま味方の軍勢に混じって走っていった。
僕と比売神様はその様子を目で追ったが、やがて大勢の兵たちに紛れて見えなくなった。
戦況は吉野方の圧倒的優位に見える。
「それでは戻るか。私たちの役目は終わりだ。歴史に足跡を残してしまわないうちに静かに帰るとしよう」
比売神様は緑色のスカートを翻した。僕も後に続く。
蝉の鳴き声はいつしかヒグラシの合唱になっていた。日は傾き、もう少ししたら風も涼しさが混じってくるだろう。夏の夕暮れ。たった二日間を一緒に行動しただけなのに、吹負や高市麻呂にもう会えないのがひどく寂しく感じられた。そういえば高市麻呂には何も言わずに別れてしまった。
「寂しいか?」
比売神様は僕の心を見透かしたかのように言った。
「わかりますか」
「顔を見ればな」
僕たちは祭殿に入り、向かい合って座った。僕がトリガーになるまでもなく通路は開いていたらしく、ほんの瞬き一回の間に、僕たちは内侍殿の中に戻っていた。鹿之介さんが何も変わらずそこにいて、すべてを知っているのかいないのか、にこにこと僕たちを迎えてくれた。




