二十六
だがここで吹負が背後に気づいた。
「敵がいます」
「敵? 高市麻呂が相手をしているはずでは……」
「おそらく興福寺を包囲していた隊の一部でしょう。こっちに向かっています」
「どうする?」と、走りながら比売神様が言う。
「追いつかれる前に逃げ切るしかないかと」
「仕方ない。全力疾走だ。颯太、……颯太?」
僕の体力は尽きていた。前を走る比売神様の背中が遠くなる。足を出そうとしても思うようについていかない。視界がふらりとしたかと思うと、足がもつれてなすすべなくその場で地面に投げ出された。倒れ伏す。ああ、人間は体力の限界を超えるとこうなるんだな。
「大丈夫か」
と、吹負が戻ってきて気遣ってくれる。感謝の言葉を述べたいところだが、その元気もなく、
「うう……」
としか言いようがない。吐きそうだ。腹ばいのままでいると、比売神様が僕の背中に手を触れた。
「この大事なときにしょうがないやつだ」
小さな手が優しく感じられる。もしかして四次元存在の超自然的パワーで全回復なんていう力が発揮されるのか? という期待もしたが相変わらず吐き気がこみ上げてくるばかりである。慰めてくれただけか。それでもありがたいけど。
「しかしまずいな。なんとかしないと」
比売神様の口調がこれまでになく深刻だ。敵に追いつかれたら僕が真っ先に殺されるだろう。でも、僕を置いて逃げてくださいと言う勇気がない。
すぐ近くには鹿せんべいの露店がある。奈良公園に住み着いている鹿に観光客が餌付けをするためのせんべいを売る簡易販売所だ。奈良公園の各所にある。
鹿せんべいを食べたら元気になるだろうか。いや、あれってたしかおいしくないんじゃなかったか。鹿はせんべいをおいしく食べられていいなあと思った。鹿せんべいを食べる鹿を思い浮かべた。鹿に食べられる鹿せんべいを思い浮かべた。鹿と鹿せんべいが渾然一体となり、鹿せんべいが鹿に……。
露店の台に置かれた鹿せんべいがむくむくと膨らみ始めた。やがて足が生え、尻尾が生え、目ができ口ができ、全体が茶色になり、最後に立派な角が生えた。鹿である。鹿は四本の脚で地面に立ち、しゃがんでいる僕の頬を舐めた。舐めないでほしい。
「鹿が? なにゆえ……」
吹負がそう言うのも無理はない。僕はまあ、だいたいわかる。たぶん興福寺の仏頭と同じで、僕の想像をトリガーにして比売神様が生み出したものだ。
「詳しくは省略する。颯太、あと二頭出せるか」
「ああ……」
吐きそうな状態でうながされるままに鹿せんべいを想像すると比売神様がすかさずそれを掴み取ってむくむくと二頭の鹿を出現させた。
「乗れ」
「鹿に、ですか?」
と吹負が驚いている。たしかに鹿に乗る人にはお目にかかったことがない。馬とは違って体が小さいから乗ったら潰れてしまいそうだ。
「本物の鹿ではない。たぶん乗れる」
そのとき、ひゅん、と矢羽の音が聞こえた。まだ遠いが、敵が矢を射たのだろう。
「まずいですな。乗るしかありますまい」
吹負が鹿にひらりとまたがった。鎧を着た大人を乗せても鹿はびくともしなかった。
「案外大丈夫だ。颯太も乗れるか?」
「はい……やってみます……」
僕は走れないながらも立ち上がれる程度には落ち着いてきていた。ふらふらとしながらも鹿の背にまたがる。馬よりも低いし、僕がふらついてもびくともしないくらい安定感があった。
「いけそうです」
比売神様はスカートの裾を乱さず華麗に鹿の背に乗った。相変わらず美しい横座りだ。と、同時に鹿がみるみる白く変わっていく。
ああ、春日鹿曼荼羅図――と僕はぼんやりと思った。まさに目の前すぐそこにある奈良国立博物館に収蔵されている、春日神が白鹿に乗って春日大社にやって来る様子が描かれている絵図である。絵によっては春日神は榊の木を見立てられていたり男神だったりもするが、少なくとも美少女を描いたものはない。
「格好をつけすぎでは……」
「これくらいのほうが雰囲気があってよかろう」
比売神様はふふんと笑った。
「行くぞ!」
振り向くと、敵兵が興福寺の方角から交差点を曲がってこちらへ走ってくるのが見えた。矢が飛び、さっきよりも手前の地面に刺さる。僕はおぼつかない足で鹿の腹を蹴った。頼りない蹴りだが、鹿は走り出し、速度を上げていく。馬よりも小刻みな揺れが多い。振り落とされそうになりながら、鹿の首に腕を巻き付けてなんとか落ちないように踏ん張った。尻が痛い。
凸凹の多い参道を鹿は飛び跳ねるように駆け上がり、春日の杜を走る。二の鳥居をくぐり、春日大社の赤い社が見えてきた。南門を駆け抜ける。境内。幣殿の前を右へ。特別参拝受付を突破。中門の前を左へ曲がる。その先が内侍殿だ。比売神様が鹿を止める。
「止まれ!」
「おおっと」
僕は鹿の角を握って引いた。これが正しい止め方なのかどうかはわからないが、ともかく鹿は止まった。止まるやいなや、鹿は鹿せんべいに戻ってぽとりと地面に落ちた。比売神様と吹負は軽やかに着地。僕だけ失敗して地面に転がった。痛い。
「内侍殿に入るぞ」
「はい」
僕は急いで立ち上がり二人の後を追う。服が汚れたとかは気にしていられない。敵はすぐに追いついてくるだろう。
内侍殿の中は僕が最初に比売神様と会ったときと変わらなかった。勝手のわかる場所だ。僕は靴を脱いで畳に上がった。部屋の中央で三人が車座になる。
比売神様が口を開く。
「ちょうどこの場所が現実世界の村の祭殿に重なる位置になっている。颯太は知っているだろう。最初に飛鳥時代にやってきた場所だ。蝦夷が戻ってきていれば時空の通路を開いてこちらへ引き込むことができる。吹負、時刻は?」
「申の刻まであと少しというところです」
「約束の時刻にはまだ早いか。しかし……」
そのとき、外に急に人の気配がし始めた。足音、話し声。急いでいるような大声。
「このあたりにいるはずだ!」
「火であぶり出せ!」
敵だ。
「蝦夷が戻ってきていることに賭けるしかない。援軍が到着していなければそれまでだ」
比売神様が畳に片手をつく。
「颯太、酒がないんだ、できるだけ強いトリガーがほしい。明確な通路のイメージを作れるか?」
「やってみます」
通路、通路、通路……。思い浮かぶのは大学の廊下だったり、トンネルだったり、細い路地だったりした。しかしだめだ、時空という感じではない。
外から木の割れるような音が聞こえた。立て続けにだ。そして直後、障子を突き破って火矢が飛び込んできた。畳に突き刺さり、炎を上げる。




