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二十四

 入口のほうで声がして、大勢の足音や金属のこすれる音が聞こえてきた。

「戸を閉めろ! 火矢は気にするな! 早く逃げ込め!」

 高市麻呂の声だ。

「比売神様!」

「奥の部屋にいるぞ」

 比売神様が答えると、鎧をがちゃがちゃ言わせながら僕たちのいる展示室へ入ってくる。朝の出陣以来数時間見なかっただけなのに、鎧や着物は薄汚れ、表情にも疲れがにじみ出ていた。

「面目ありません。予想以上に敵の数が多く押し切られてしまいました」

「謝ることではない。それよりも状況は?」

「幸い死人は出ていません。しかし矢が尽きかけています。馬も全滅しました。兵の数だけでなく戦力がかなり劣る状況です。攻めるどころか迂闊な退却でも全滅の危険があります」

「なるほどな」

 頭を下げる高市麻呂の肩を叩きながら比売神様は言った。

「次善の策を考えよう。今の話からすると、時空の境界を突破したときのような正面からの敵中突破は不可能と見ねばならない。しかし建物が頑丈とはいえいつまでもここに籠もっているわけにもいかない。吹負と合流せねばならないし、(とり)の刻までに春日大社に行き現実世界の援軍と連絡を取る必要がある。それでその方法だが」

 比売神様は展示室をゆっくりと歩き始めた。

「私と颯太でやってみたが、ここにある像は小さな物ならば動かせないこともない」

 高市麻呂は室内を見回す。それから、まあ当然だが腹ばいの阿修羅像を訝しげに見た。

「これですか……?」

「とりあえずは動いたが、失敗だった。しかし上手くいけば何か特殊能力を使って攻撃できそうだ。そのために颯太の想像をもっと強化したい。良い方法はないだろうか」

「ふむ……あまりよくわかりませんが」

 高市麻呂は腕を組み首をかしげる。わからないのも至極当然である。しかしわからないなりに解釈してくれたらしい。

「要は比売神様の力で仏を動かして敵を退散させようというわけですね。仏に願いを聞いてもらうためには功徳を積まねばならないでしょう。功徳を積むには読経し仏を供養(くよう)するのが一番です。皆で読経(どきょう)をしてはどうしょう」

 なるほどと僕は思った。時空がどうとか、トリガーがどうとかではなく、仏を動かすという事態をありのままに飛鳥時代的に理解すればそうなるのだろう。そしてそれは、僕にとってもイメージを具体化する手助けになりそうだった。読経すれば仏像に力が宿る。というのは科学的には荒唐無稽だが、何の理由もなく仏が動くよりも、読経の功徳で動いたほうがありだ。

 比売神様が横目で僕を見た。

「颯太、どうだ?」

「試してみる価値はありそうです。さっきよりは動かせそうな気がします」

「よし。それじゃあ読経作戦といこう。展示品の中に法華経(ほけきょう)がある。高市麻呂は法華経は読めるか?」

「もちろんです。兵の中にも読める者はいますよ」

「上々だ」

 法華経は仏教伝来以降早い段階で日本に伝わっていた経典で、飛鳥時代以前にはすでに知られていた。この時代には仏教は学問のひとつとして王族や豪族の間に広まっていて、高市麻呂が読んだことがあってもおかしくない。というか現代人よりもずっと詳しいに違いない。

「ではどの仏を動かすかだが。高市麻呂は気になる像はあるか?」

「ああ、それでしたら……」

 高市麻呂は思うところがあるらしく、胴体のない――つまり頭だけの――仏像の前まで行き、立ち止まった。

「この仏のお顔はたいそう魅力的ですね。他はどうも私の感覚からすると派手というか、やはり後世の人の美意識とは違うのでしょう。でもこの仏は私が見ても親しみがあります」

 高市麻呂が指しているのは国宝「銅像仏頭(ぶっとう)」である。元々は飛鳥京の山田寺の本尊だったが、後に興福寺東金堂の本尊として移された。さらに火災に遭って今のように頭だけになってしまっている。造られたのは壬申の乱の少し後で、高市麻呂が親しみを持てると思ったのは時代的な感覚が近いからかもしれない。

「よろしい。それでは早速、読経できる者を集めてくれ。私は法華経を持ってくる。他に必要なものは?」

「香を焚けば雰囲気が出ますね」

 と、高市麻呂。

「じゃあ颯太は館内に線香がないか探してくれ」

「わかりました」

 それからしばらくして、仏頭の前に兵たちが集まってきた。入口で警戒している数人を除いてほぼ全員だそうだ。全員がお経を読めるのではなく野次馬もかなりいるらしい。

「私は字が読めないんですが何が起こるのか気になりまして」

 黒猪はそう言って遠巻きに興味深そうに様子を見ている。

 僕はミュージアムショップで線香が売られているのを見つけ、持てるだけ持ってきて比売神様に渡した。こんなにたくさんは必要ないと言われたがまあ別にいいだろう。

 照明が落とされ、仏頭の前には蝋燭が灯された。線香の煙がゆらりと立ち上り、芳香が漂う。仏頭の前の床に広げられた国宝・細字法華経を、読経する十人ばかりが覗き込んでいる。蝋燭の灯りがそれぞれの顔を照らす。

「それでは始めよう」

 比売神様の合図で、僕は仏頭を見つめた。飛鳥時代に造られ、千三百年の時を経て頭部だけになりながらも端正な姿を留めているこの仏頭が、動くとしたらどのように動くだろうか?

 男たちの太く低い声が読誦を始める。「如是我聞」から始まるこの経典には利他の行いや平等の精神が説かれている――と聞いたことはあるが正直なところ僕はそれ以上を知らない。ただ声は低く重々しく一定のリズムで音を奏でた。

 はじめは、この仏頭に胴体が付き手足が生えて歩くところを想像しようとした。しかしそれはイメージが難しかった。この仏頭は単に仏頭として存在するものなのではないか?

 ――阿耨多羅(あのくたら)三藐(さんみゃく)三菩提(さんぼだい)

 低い声が唱える。言葉の意味はわからないが、音の並びが頭の中に残る。目を閉じる。真っ暗な宇宙のような空間に、蝋燭で照らされた仏頭が浮かび上がる。宇宙のようでいて宇宙空間ではない。ここには座標が無いように思えた。仏頭はほのかな薄橙色を帯び、やがてその色は濃くなっていった。炎のような色になり、目は爛々と輝き始めた。まるで大量のエネルギーを生成し、いまにも爆発しようとしているような。

 比売神様の声で僕は我に返った。

「掴んだ!」

 僕が目を開けると、仏頭は宙に浮いていた。イメージの中のそれと同じように炎のような色で輝き、目から光を放っている。兵たちがどよめく。読経が続いているが、もうその必要はなかった。仏頭は比売神様がコントロールできるようになっていた。室内を自在に飛び回っている。

「比売神様の力が仏を動かしたぞ」

「なんと奇怪な……」

 読経が止み、兵たちが顔を見合わせて口々に話している。

「颯太、このイメージは熱すぎるぞ。あまり長い間は持っていられない」

 と比売神様は文句を言ったが、もう僕の頭の中から離れてしまったからにはどうすることもできない。

「これで攻撃とかできそうですか?」

「よくわからんが、かなり強力なエネルギーを出せそうな気配はある」

 仏頭はふわふわと飛び、比売神様の周囲で円運動を始めた。

「とにかくやってみよう。高市麻呂。これを外に出して敵中に放り込んでみる。入口を一瞬だけ開けてくれ」

「承知しました」

「仏頭を出したらすぐに閉めて備える。いいな?」

「はい、そのように」

 仏頭はおどろおどろしい形相ながら、比売神様の後ろを飼い犬のように従順についていく。

「では、開けます」

 開けろの合図とともに兵によってガラス扉と木戸が開かれた。国宝館は敵に包囲されていて、大勢の兵たちがこちらを向いているのが見えた。その敵兵たちから声が上がる。仏頭は急に加速し、敵の真ん中へと飛んでいった。

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