十九
戦は始まっているはずだが、しばらくは何も無かった。街は静かだし、敵が攻めて来ているとは思えないほどだ。気持ちが落ち着かず店内をうろうろしていたら、野菜ジュースをストローですすりながら比売神様が言った。
「少しは落ち着け。ドリンクバーが飲み放題だぞ」
そう簡単に落ち着けるものではない。が、落ち着けというのはごもっともである。僕はコーヒーマシンでブレンドコーヒーを淹れて窓際の適当な席に座った。このまま全部嘘でしたってことになっていつのまにか現代に戻っていたりしないだろうか。ならないだろうなあ。わかってはいるのだ。でもそう思いそうになるくらいに戦の気配がない。
黒い雲が重く垂れ込め、雨は降っていないが薄暗い。まるで日暮れ前のようだ。窓の下に見える近鉄奈良駅前には見張りの兵が二人、大宮通りに出て左右を見張っているが、今のところ異常はないようだ。店内には僕と比売神様のふたりだけ。どちらも口数多くしゃべるわけではないので、至って静かだ。
時が過ぎていく。僕は何杯目かのコーヒーを淹れる。
「あいつらにも持っていってやったらどうだ? 退屈は油断を生む。少し刺激があったほうがいい」
「それはいい考えですね。持っていきます」
やることがあるのは、落ち着かない僕にとっても気を紛らすのにちょうどよかった。
はじめにブレンドを淹れようとして、いや外は暑いだろうなと思い、冷たいコーラにした。コーラ二杯をトレイにのせて店を出る。外はもわっとした湿った夏の空気が淀んでいた。夏にしては暑いというほどではないが、夕立が降る前のような不穏な空気。
僕は、少し離れたところで大宮通りを見張っている体格のいい兵のもとへ行った。
「飲み物をお持ちしました」
「ん? おお、かたじけない」
僕がトレイを差し出すと彼はコップを受け取り、いぶかしげに眺めた。ゴツゴツとして毛深い、獣のような手だ。
「冷たい……真っ黒で泡が出ている……これも未来の飲み物か?」
あ、チョイスを間違えたかなと思った。真っ黒な液体や炭酸飲料に慣れていない古代人には抵抗があるかもしれない。
「コーラと言いまして、甘くて舌に刺激のあるものです」
「ほう、甘いか。面白そうだな」
兵は甘いということに思いのほか興味を持ったようで、ひとくちぐびりと飲んだ。
「うむ……良いな。甘くてうまい。あいつにも飲ませてやろう」
道の反対側に出ていたもうひとりの名を呼ぶ。
「クロイ!」
クロイと呼ばれた兵がこっちへやってくる。おそらく黒猪と書くのだろうが、その名前のわりには色白の優男だ。
「どうしました、熊さん?」
体格のいいほうの兵は熊さんというらしい。それは見た目通りだ。
「未来の飲み物だそうだ。冷たくてうまいぞ」
「はあ、それは……大丈夫なんですか? 真っ黒ですけど」
黒猪も熊さんと同じようにいぶかしげにコップを眺め、それからひとくち飲んだ。
「……うん、甘い」
「そうだろう? この甘さと口の中で弾ける感覚がおもしろい」
残りはふたりともぐびぐびと飲み干した。気に入ってくれてよかった。
「もしよかったらお昼もお持ちしますよ」
「ああ、ぜひそうしてくれ。おもしろいものがいろいろあれば退屈しないで済む」
ふと、熊さんが遠くを見る。黒猪も振り向く。僕も二人と同じ方を向いたが、はじめはなんだかよくわからなかった。
「早馬だ。いよいよ動いたか」
大宮通りの西の方、目を凝らすとやがてJRの高架下あたりから馬に乗った兵がやってくるのが見えた。古代人は目がいい。あるいは、彼らからすれば現代人の僕は目が悪いということにもなるだろうが。
早馬は猛スピードで駆けてきて、僕たちの目前で止まった。
「注進! 新大宮駅付近で近江軍と遭遇! 敵は大宮通りを東進する模様! 高市麻呂隊が石橋から攻撃して食い止めます! 以上!」
「了解! 戻ってくれ!」
熊さんが答えると、馬に乗った兵はすぐさま馬首をめぐらして大宮通りを戻っていった。
「比売神様に報告しよう。黒猪、見張りは頼んだ」
「了解」
僕は熊さんと一緒にサイゼに戻り、注進の内容を比売神様に伝えた。比売神様は予想通りという様子でうなずいている。
「わかった。君はまた見張りに戻ってくれ」
「はっ!」
黒猪が一礼して出ていく。比売神様は優雅に窓際の座席に腰掛け、ジュースをストローで吸った。
「さていよいよ戦いであるが」
比売神様がテーブルに地図を広げた。駅から持ってきたのか、奈良市内の観光案内図だ。
「近江方は新大宮から大宮通りを東進、と。おそらく本隊は乃楽山の方から二四号を通って来たのだろう。人数が多いから大きな通りを進むのは当然だ。下手に路地に入ると少数の兵でも迎撃しやすくなる」
僕はうなずく。
「それを見越して大宮通り沿いには人数を割いた。建物の間などに隠れて矢を射れば向こうにとっては嫌だろう。高市麻呂がJRの高架から攻撃するのもよく考えた策だな。大宮通りを真上から攻撃できるし、高架の壁が敵の矢を防ぐ盾にもなる」
比売神様が線路と大宮通りの交差する部分を指で示す。
「だが敵は数で勝っている。軍を分けて複数の方向から攻め込んでくると見たほうがいいな。大人数を動かしやすい道といえば……」
「……県道四四号とか七五四号ですか?」
僕は地図上にある数字を指して言った。このふたつの道は二四号よりも一キロほど東にあり、奈良市街地に北から入ってくる。攻めてくるには使えそうだと思った。しかし比売神様は首を横に振った。
「こっちは般若寺越と呼ばれる峠道でな、飛鳥時代にはあまり使われるルートではない。敵の将もここに二車線道路があるとは思わないだろう。それよりも二四号を使ったとすると目につくのは……」
比売神様の指は二四号を示す線から右下へ移動する。
「そこは道では……」
道ではない、と僕は言おうとした。だがそれは正確ではない。正確には、車道ではない。
「鉄道ですか」
「そのとおり。二四号奈良バイパスを歩いていれば隣に真っ直ぐな線路が市街地へ続いているのが見える。それを使わない手はないだろう?」
「たしかにそうです」僕はうなずいた。「そうすると高市麻呂さんが危ないのでは?」
わずかな人数では大宮通りを東進する敵を線路から攻撃するのも簡単ではない。そこへ線路沿いに来た敵から横腹に攻め込まれたら防ぎようがないだろう。
「もちろんそうだ。しかし線路は飛鳥時代人にとっては見慣れぬ鉄の棒が置かれた歩きにくい道だ。近鉄が動いていたことからするとJRも動いているかもしれない。そうすると線路脇を行く軍の進みは遅いはずだし、主力をそこに充てるとも考えにくい。時間的には少し猶予があるな。そのことは高市麻呂もわかっているはずだ」
そうだろう? と比売神様は僕を見る。
たしかに、そのはずだ。というのも、思い出すのは昨夜の高市麻呂との会話である。高市麻呂は線路が南北に繋がっていることを僕に尋ねた。僕は北は乃楽山のほうへ続いていると答えた。
「たぶん承知の上でしょうね」
比売神様はうなずいた。
「念のため知らせてやるか」
比売神様の視線の先、窓から見える近鉄奈良駅前には、次の早馬が駆け込んできたところだった。




