一
二年前、つまり大学三年生の夏休み、僕は奈良に来ていた。転勤の多い叔父夫婦が当時は奈良に住んでいて(去年また引っ越してしまったが)、しばらく泊まって観光でもしてはどうかという誘いだった。借りていた古い一軒家は子供のいない夫婦には広すぎたそうで、僕が遊びに行くとにぎやかになったと喜んでくれた。また、酒好きの叔父は晩酌の相手ができたことがいっそう楽しかったようだ。酔いが回るとよく大伴旅人という奈良時代の歌人の短歌を諳んじた。
なかなかに人とあらずは酒壺になりにてしかも酒に染みなむ
酒が好きすぎていっそ酒壺になってしまいたいという酔っぱらいの歌である。ちなみに叔父と僕は大伴旅人の子孫にあたる(叔父から聞いたときは半信半疑だったが、どうやら事実である。そして事実であるがゆえにこの後の事件に巻き込まれることになる)。奈良時代から千年以上を経て遺伝したとは言わないが、叔父は子孫と言うにふさわしい酒飲みで、僕もまあまあ飲めるほうだ。飲み始めるとたいがい夜遅くなってしまい、叔母には呆れられてばかりいる。この夏は例年ほどは暑くなく、二階の窓を開けて畳に大の字に寝転がると、酔った体に夜風が心地よかった。
さて、そんなふうに酒と奈良観光とで数日を過ごしたある日の午前である。この前日も叔父と酒を飲み、やや度が過ぎてしまったために少し二日酔いが残っていた。午前八時を過ぎ、開け放した窓からセミの大合唱と夏の熱気が入り込んできて、僕は寝苦しさに目を覚ました。一階に下りて台所で水を飲んだところで、玄関の呼び鈴が鳴った。叔父か叔母が出るかと思ったが、この日は朝からでかけていることを思い出し、僕はやや気後れしながらも玄関の扉を開けた。セミの声と夏の日差しが飛び込んでくる。立っていたのは小柄で人の好さそうなおじいさんだった。
「やあ、伴さんとこの甥っ子さんか」
おじいさんは親しげに話しかけてきた。以前会ったことがあっただろうかと記憶をたどってみたが、しかし思い出せなかった。きっと近所の住人で、叔父か叔母が何かのときに僕のことを話したのだろうと、僕は当たりをつけた。
おじいさんは名乗りもせず唐突に言った。
「人手が足らん。ちょっと手伝いに来てくれ」
老人というのはしばしば話が唐突である。僕の祖父などもそうだ。
「はあ、町内会の仕事でしょうか」
と僕はたずねた。
「そんなところだ。春日大社のな」
おじいさんはにこにこしながら言った。にこにこして優しそうではあるが僕の答えはイエスしか認められないような無言の威圧感があった。
まあ、僕としては断る理由もないのだった。というのも奈良公園周辺の主だった観光地は一通り見終わってしまい、次はどこに行こうかと思案していたところだったからだ。地元の住民しか関われないような仕事を手伝えるのならそれはそれでおもしろそうである。
僕はイエスと答え、おじいさんに連れられて奈良公園を歩いた。午前八時過ぎだが日差しはすでに熱気を帯びて、鹿たちはほとんど地面にへばりついていた。飛火野にはセミの鳴き声が響いている。夏の暑い平日の朝だからか観光客はいつもより少なかったものの、やはり奈良は一大観光地だけあってそれなりににぎわってる。
二人は春日大社の南門をくぐった。おじいさんは特別参拝受付を当然のように素通りしていく。なるほど受付時間外に顔パスで入れるような立場の人なのだなと、僕は思った。まだ特別参拝の始まっていない時間なので境内には誰もいない。僕たちは中門を横目に、左手にある建物に入った。数日前に観光に来たときにも見た内侍殿という建物だ。中は畳敷きの広間で、部屋の一番奥が一段高い祭壇のようになっている。その祭壇の手前にひとりの少女が座っていた。
「お連れしました」
と、おじいさんが言った。ということはここが目的地である。この子が町内会の祭で巫女を務めるとかそんなところだろうかと思ったが、一方でそうでもない雰囲気を醸している気もする。
「来たか」
と、少女は僕を見て言った。金色の髪の、はっとするような美少女だった。見た目は小学校高学年か中学生と思えるかわいらしい童顔だが、表情や声は成人であってもおかしくないようなやけに大人びた印象がある。内侍殿の和式の内装とは対照的に、緑色のプリーツスカートをまとい、明るい色を基調にした洋装である。
僕はおじいさんに促されて靴を脱いで内侍殿の広間に上がった。
「君は大伴連の一族らしいな。そのわりにぱっとしない顔だが……それはまあどうでもいいか」
と、少女はどうでもよさそうに言った。幼い見た目とは釣り合わない傲然とした口調だ
「鹿之介から聞いていると思うが……」と少女は言った。
「鹿之介?」僕は首をかしげる。
「ああ、鹿之介はそっちの爺だ」
少女に指をさされておじいさんが会釈した。どうも、と僕も頭を下げる。いったいこのおじいさんと少女はどういう関係なのだろう。町内会の知り合いという感じではなさそうだ。
「で、聞いているとおり君に手伝ってもらいたいことがある。しかしなかなか込み入っているしいきなり言われても理解するのは簡単ではないだろう。だからまずはやってみるべきだと思う」
そう言って、少女は祭壇から三方(台付きのお盆みたいなやつだ)を下ろし、自身の前に置いた。いったいなにをやるのかと見ていると、少女は僕を手招きする。それで僕は少女の正面に座った。二人が三方を挟んで向かい合って座っている状態である。
そのうちに鹿之介さんが背後で内侍殿の戸を閉めた。外の音がしなくなり、室内がしんと静まり返る。
「さて、大したことをやろうというのではない。この酒を」
三方の上には素焼きの盃がふたつと、小さな徳利のようなうつわが並んでいる。少女は徳利を傾け、盃に酒を注いだ。濁り酒である。
「飲め」
と、少女は盃を差し出した。鋭く冷たく、大きな声ではないにも関わらず人を圧する何かがある。僕はうやうやしく盃を受け取った。絹のようになめらかな濁り酒が揺れている。
「お神酒ですか」
と僕は言った。敬語である。どうもこの少女に対しては、普通の子供に対するのと同じにはいかない。
「そうとも言えるしそうでないとも言える。特別な酒だ」
無表情だった少女の口元にかすかな笑みが浮かんだ。盃からは甘い芳香が漂ってきた。かなり良い酒のようである。喉がゴクリと鳴った。
「では、いただきます」
僕は盃をうやうやしく押しいただき、濁り酒を口に含んだ。予想にたがわず、はっとするような芳香が口の中に広がった。舌先では甘く、喉に流し込むと旨味があった。甘い蜜のような香りが鼻に抜けた。じつにうまい酒だった。いくらでも飲みたいと思うような……。
少女はもうひとつの盃にも酒を注ぎ、それを飲んだ。未成年が、という考えが一瞬浮かび、しかし消えた。それはあたかもそうすべきであるように思えたからだ。
次の瞬間、僕の頭の中は急激にぐるぐると回り始めた。唐突に吐き気がこみ上げてきて、四肢は麻痺したようになり、その場に倒れ込んだ。体が動かなくなった。頭痛がする。目の前には畳と内侍殿の壁。
酔いが回ったのか、と不確かな頭の中で思った。しかしたった一杯の日本酒、飲んでわずかな時間である。日本酒はいくつも飲んだことがあるが、一杯でこんなになったことはない。それに、飲んだときの印象ではアルコール度数が高いとも思えなかった。少女は特別な酒だと言った。……とすると何か妙なものでも混ぜられていたのか? この少女はいったい何をした? そうだ少女だ。
目玉をぐるりと動かしてみたが、少女の姿は見えなかった。そればかりか、いつの間にか、なんの違和感もなく、部屋の明かりは一切なくなっていた。暗闇。いや、そもそも視覚がなくなっているのかもしれない。そういえば手足の触覚もなくなっていて畳に触れているはずなのに畳の存在が感じられない。上下左右もはっきりせず自分が床に倒れているのか宙に浮いているのか判然としない。
胃の中身が急にこみ上げてきて、それを我慢できず、暗闇に向かってぶちまけた。暗闇のはずなのに吐いた濁り酒は白く輝いて見えた。何度も嘔吐した。腸ごと逆流してきそうな苦しさだった。嘔吐は止まらず、そればかりか吐いた濁り酒は紐のように長く伸び、からみあい、木の幹になって空へと成長していく。僕は木の根となって地面に縛り付けられ、悠久の時が周囲を逆流してゆく……。そんな世界が僕の意識の中で繰り広げられた。やがてその意識は世界に溶けてなくなった。まるで自分自身が粒子になり霧になり拡散してしまったかのように、なくなったのだ。