十六
比売神様はそこまで一気に話し、ようやく一息ついた。夜は更けている。店内の喧騒はやや落ち着き、眠っている者もいる。
「一休みできた頃合いかな」
そうつぶやき、今は窓際の席に移った吹負を呼ぶ。
「もういいか」
「はい、行きましょう」
吹負は少し離れた席に座っていた武人に声を掛ける。
「蝦夷、仕事だ」
「承知」
鎧は身につけておらず、小刀のみを腰に下げた身軽な格好である。
「鴨蝦夷です。よろしく」
そういってその武人は会釈した。どこかで見た顔だと思ったら、飛鳥時代に飛ばされて最初に出会った吹負の部下のうちの一人だ。
続けて比売神様が言う。
「蝦夷は使者として現実世界の援軍と連絡をとる。つまりこの時空の隙間から出る必要があるわけだ。しかし、この隙間と現実世界との境界はまだ安定していない状態だ。あまり強い力を加えると境界が現実世界に溶けて消滅してしまう可能性がある。せっかく敵を閉じ込めたのにまた現実世界に戻って戦わねばならなくなるわけだ。颯太、この状況はわかるか?」
「はい、ええと……境界が……時空の隙間がなくなると、僕たちは飛鳥時代の戦場に放り出されて、あの大軍と戦うはめになると」
「それでいい。そこで、いわば柵を一部分だけ開くようにして微妙な力加減で現実世界とつなぎたい。そのために颯太にはトリガーになってもらいたい。颯太にとって時空の隙間と現実世界とをつなぐ小さな通路になりそうな場所はないか? トリガーの颯太がイメージを持ちやすいほうがいいんだ。なんとなくここを通ったら現実世界に行けそうだと思えるような場所だ」
「ええと……そうですね……」
僕は奈良市街のいろいろな場所を思い浮かべてみる。春日大社や東大寺は現実世界をつなぐというよりは幽幻世界につながりそうなイメージだし、サイズが大きすぎる気がする。近鉄奈良駅やJRの奈良駅、東向商店街。どれも通路っぽくはない。奈良公園のところの地下道はちょっと通路感があるかな……あ、でもどうせならドアとかがついていたほうがいいかもしれない。どこかの店、例えば食堂とか居酒屋……しかし良い店が思いつかない。酒、酒……叔父の家で酒を飲んだことを思い出す。叔父夫婦は僕がいなくなって心配していないだろうか。無事に戦を終わらせて現実世界に戻りたい……。
「あ、思い浮かびました」
「どこだ?」
「叔父の家です」
そうか、と比売神様は言った。
「妥当なところだ」
叔父の家に帰れば、酒を飲み、奈良を観光する、夏休みの続きがあるのだ。そのイメージはしっかりと想像できた。玄関のドアを開けたら現実世界につながってもおかしくないという感じがある。
「では、颯太の叔父の家へ向かおう。私と颯太が先導するから、吹負と蝦夷は着いてきてくれ」
比売神様の一言で僕たちは立ち上がり、サイゼを出た。
蝦夷はバスのりばに繋いであった馬を曳いてくる。手には懐中電灯を持っている。比売神様の手にはワインのボトル。サイゼで飲んだやつの残りだろう。大宮通りを渡り、東向北商店街を抜け、奈良女の脇を通って叔父の家の前に至った。ここのところ何度も通った道だ。現実世界と寸分違わない。家のドアを開ければ叔父がいてもおかしくないと思える。
玄関先に四人と馬一頭が集まると、比売神様がワインのボトルを差し出した。
「ここで円座になろう。それから全員で一口ずつ飲む。酔うほど飲んでは駄目だぞ。ほんの少しのきっかけになる程度がいい」
その場で四人は輪になって座り、最初に吹負、次に僕、蝦夷も飲み、最後に比売神様も口をつけた。馬の尻にも一滴垂らす。サイゼのワインにしてはやけに甘いなと思った。さては比売神様が何かを入れたのか、そうであれば時間を遡行したときのようにひどい吐き気に襲われたりしないだろうかと身構えたが、何も起きなかった。
「ほんのきっかけだからな」
僕の心の中を見透かしたかのように比売神様が言った。そして、両手をパンと打った。特に異変は起きなかったが、音の余韻がかすかに耳の中で響いた。
「では行こう。私が玄関のドアを開くと現実世界につながっているはずだ。開いていられるのはほんの一瞬。蝦夷は馬と一緒にすぐに飛び込め。向こうも真夜中だから懐中電灯を照らして進め。あと、懐中電灯は現実世界には置いてこないように。使い方はわかるな?」
「はい、さきほど伺いました」
「連絡は明日の申の刻だ。それまでに春日の村の祭殿に入り扉を閉めて待て。伊賀までの往復には猶予のない時間だがなんとか頼む」
「お任せください。成し遂げてみせます」
蝦夷は力強くうなずいた。
一同が立ち上がる。比売神様がノブを握り、蝦夷がその後ろで馬の曳き綱を握って身構えた。
「せーの」
ドアを開けた瞬間、背後から強い風が吹いた。ドアに向かって吹き込む、体を直立したままではいられないほどの突風だ。僕も吸い込まれそうになるのを必至でこらえる。ドアの向こうは真っ暗闇。叔父の家の玄関ではない。こちらの世界の街明かりが漏れて、田んぼがあり、あぜ道がまっすぐ続いているのがかろうじて見える。
「行け!」
「はい!」
蝦夷が飛び出す。馬がいななく。馬の尻尾の先が現実世界へ出たのとほとんど同時に比売神様がドアを閉めた。
吸い寄せられたドアがバタンと大きな音を立てる。そしてそれっきり、風は止み、静けさが戻った。一瞬のことだった。残された三人は何事かが起きはしないかとしばらく黙ってドアを見ていたが、何事もなかった。
「上手くいきましたか」
吹負が尋ねた。
比売神様がゆっくりとドアを開くと、そこは田んぼではなく、全く正確にコピーされた叔父の家の玄関があった。
「大丈夫だ。境界は維持されている」
比売神様が答えた。




