十一
「颯太!」
吹負の声は背後から聞こえた。全力で馬を走らせるうちに吹負を追い越してしまったのか。
「颯太、こっちだ!」
「何ですか!」
僕は振り向く余裕もなく叫んだ。
「あわいに入ったようだ。見ろ!」
僕は走る馬の上でおそるおそる顔を上げた。薄暗い霧の中、大きな建物が眼前にあった。揺れる視界で建物の特徴を観察する。石造りの基壇の上に太く赤い柱が幾本も建ち並び、瓦葺きの二重の屋根の端には金色の鴟尾が載っている。周囲はだだっ広い芝生の広場だ。
「颯太、馬を止めよう! 敵は来ていないようだ!」
吹負に言われ、僕は手綱を引いた。馬が踏ん張り、土煙を上げながら急減速、そしていななきながら止まった。
馬の呼吸が聞こえるほど周囲は静かだった。敵の声も蹄の音も聞こえない。
吹負が僕の隣に馬を寄せてくる。建物を見上げてつぶやく。
「なんという大きな建物か……噂に聞く唐の宮殿はこのようなものであろうか……」
この建物を初めて見た吹負にはその驚きは当然のことだろうが、しかし、僕にはこの建物には見覚えがあった。ほんの数日前に観光で訪れた場所。平城宮の第一次大極殿だ。八世紀、奈良時代の都である平城京に建てられた、天皇がまつりごとを行う正殿である。その後遷都の際に取り壊されたが、現代では西大寺駅と新大宮駅の間の広い範囲が史跡公園になり、大極殿の他に朱雀門などいくつかの建物が復元されている。乃楽山からまっすぐ南へ下ってきたのだから位置的にはここに大極殿があることは問題ない。ただし、飛鳥時代には平城京はまだ建設されていないし、当然のことだが復元もされておらず、時間的にはここにあるはずがない。時空を超えてあわいとか隙間とかいう場所に来たのは間違いないらしい。
「あの音はなんだ?」
と吹負が言った。僕は最初何のことかわからなかった。周囲は静まり返っている。
「音?」
しばらく耳を澄ましていると、僕の耳にもかすかに音が聞こえた。聞き覚えのある音だった。
「踏切だ……」
「踏切? なんだそれは」
しばらくして、カタンカタンと列車がレールを踏む音が近づいてきた。轟々とモーターの音が唸る。かと思えば数秒のうちに鉄輪の音は遠ざかり、踏切も鳴り止んで、そしてまた静寂に戻った。
「奇妙な音だな。おまけにかなりの速さで動いていたように思える。颯太は知っているのか?」
「はい、あれは……」
僕はうなずいて言った。
「僕の時代にある“電車”という乗り物です」
現代では、平城宮跡の真ん中を近鉄の線路が貫き、踏切がある。風向きにもよるだろうがさっきのように電車が走る音が聞こえてもおかしくない。
「颯太の時代の……ということは我らは颯太の時代に飛ばされたのか?」
ここまでの状況から判断すると、吹負のように考えるのが妥当なことのように思える。しかし、なんとなく違和感もある。それはもしかすると、やけに静かだということかもしれない。車の走る音とか、人の話し声とか、工事現場の音とか、そういうものが一切聞こえないのである。
「ちょっと、断定はしにくいですね……」
と、そこへにわかに足音と人の話し声と馬の蹄の音が聞こえてきた。
「敵か?」
吹負が馬首をめぐらして刀を構えた。僕もいつでも走り始められるように手綱をとる。だがそれは杞憂だった。
「隊長、颯太さん! いたら返事してください!」
高市麻呂の声だ。
「こっちだ! 颯太も一緒にいる」
吹負が応える。しばらくして、霧の中から高市麻呂を先頭にして兵たちが続々と現れた。ぱっと見て、ほとんど全員がボロボロの様子であることがわかった。刀が折れていたり、鎧や冑が壊れていたり、顔や腕に切り傷がある者もいる。高市麻呂自身、腕に巻いた布から血が滲んでいる。しかし元気そうではある。
「ふたりとも無事で……おおっ? なんですかこの建物は!」
吹負以上のリアクションで大極殿を見上げる。その背後の霧の中から影がふらりと出てくる。
「大極殿というものだ。君たちも二十年ほどすると同じようなものを目にすることになる」
「おお、比売神様。ご無事で!」
比売神様は傷一つなく、相変わらず馬の背に優雅に腰掛けている。兵たちがボロボロなのとは対照的だ。
「吹負と颯太が時空の隙間を上手く開いてくれたようだ」
比売神様は馬をなだめながら吹負の隣に並ぶ。
「霧が出ている間はまだ彼我の位置が確定していないから敵と遭遇する恐れは少ない。今のうちに移動して防衛戦の準備と休息をしたいのだが構わないか?」
「できるだけ安全なところへ行けるのなら早いほうがありがたいです。負傷者もいますし」
吹負が全員を見回した。
「高市麻呂、被害の状況は?」
「脱落は六名。それ以外はとりあえず動けます。しかし武具を失ったものが多いですね。弓矢では戦えそうですが白兵戦の戦力はかなり落ちているかと」
うむ、と吹負が唸った。
「六名か」
吹負は全体を見回した。僕も兵たちを見る。何人かは悲痛な表情を浮かべていた。死んだ兵たちと親しかったのかもしれない。
「まあ、命あっての物種だ。六名を失っただけで済んだのは想像よりもいくらかマシだったとも言える。彼らのぶんも戦わねばな。前を向こう。皆、死んだ者を送ろう」
そして吹負は両手を胸の前で合わせ、頭を垂れ、突然「おお、おお」と悲しげに声を上げた。その他の兵たちも同じようにし、霧に包まれた夕闇に、男たちの声が重なり響いた。異様な光景に僕は初め戸惑ったが、これがこの時代の習わしなのだろうと思いいたり、彼らにならって頭を垂れた。目を閉じると、矢で射られて倒れた名も知らぬ兵のことが思い浮かんだ。彼はこの時空の狭間にたどり着くことなく、地面の上で痛みに苛まれながら死んだ。故郷へ帰ることもない。人の死、それも六名もの死がこれほど身近にあるのは初めてだった。




