十
と、いうわけで予定通り小一時間の練習を経て僕は奇跡的にか高市麻呂先生の指導の成果か、馬に乗って走ることができるようになっていた。技術とか美しさはまったくないのだけれど。
僕たちは乃楽山の上の陣地で息を潜めるように静かに時を待っていた。太陽は傾き、夕暮れが近づいている。ヒグラシの鳴き声が寂しげに野山にこだまする。鳥が巣へ帰っていく。
僕の指導を終えた高市麻呂は陣地のあちこちを動き回り準備に余念がない。吹負は椅子に腰を下ろして兵たちから伝えられる報告を聞いては指示を出している。
そこへまた一人の兵がやってきた。
「物見からの報せです。敵が歌姫越えを閉じようとしています」
それを聞いて吹負が「そうか」と答える。ついに、と僕は思った。
はじめ、近江方が物見の視界に現れたのは高市麻呂による乗馬指導が終わった直後のことだった。当初、大軍は乃楽山の陣地から見通せる平野の真ん中に集まり、あまり動きはなかった。傍目には、攻撃の時を見計らってしばらく様子を見ているように見えた。
しかし比売神様と吹負の立案により乃楽山の周囲に潜んでいた物見たちは、敵の別働隊が乃楽山の周辺を静かに包囲し始めたことを察知していた。比売神様が予想した「吹負を逃さないための包囲網」が構築されつつあったのだ。次々に寄せられる報告からは、包囲網が徐々に伸びていく様子がわかった。
追い詰められつつあるように見える状況でも、吹負はまだ軍を動かさなかった。これも比売神様による「包囲されて慌てて逃げようとしているかのように見せかける」ためである。では慌てるふりをするのはどのタイミングか。吹負はそれを、歌姫越えが閉じられる時、と提案した。歌姫越えとは僕たちがここへ来るときに通った道であり、乃楽山から南の飛鳥京方面へ向かう主要な交通路でもある。ここに敵兵が現れればそれに気づくのは不自然でなく、こちらに比売神様が組みしていると悟られる可能性は低いというわけだ。
そして今まさに、歌姫越えに敵が現れたことが報告されたのである。
「鐘を鳴らせ!」
吹負が命令する。すぐさま鐘が鳴らされた。寺の鐘のような美しい響きではなく、重機でドラム缶を破壊しているかのようなけたたましい音が、乃楽山に響く。
「敵だ! 敵襲! 敵襲!」
高市麻呂が叫びながら陣地を走り回る。
「撤退だ!」
「撤退!」
「逃げろ!」
あちこちで兵たちが呼応する。大声で叫びながら、それでいて取り乱した様子のない兵たちは、てんでばらばらに動いているように見えて吹負の周辺に集まっていく。遠く敵の本隊からはパニックに陥っているように見えるだろうか。僕も高市麻呂に教わったとおりに「えいっ」と馬にまたがった。
「行くぞ」
「おう!」
吹負の掛け声に全員が応え、歩兵も、騎兵も、一斉に走り始める。
「駆けろ!」
「おう!」
僕は馬の腹を蹴った。大騒ぎに興奮した馬が急加速を始め、僕は加速度に体が置いていかれそうになるのをかろうじて立て直した。馬の揺れで何度も落馬しそうになりながら踏みとどまる。
「颯太!」
吹負が横に並びかける。
「もう少し控えろ。できるか?」
「は、はいっ」
なんだかもうギリギリという感じで僕は手綱を引き、馬の速度を落とさせた。
「それでいい。兵たちの走る速さに合わせるんだ」
後ろから歩兵たちが追いついてきて僕たちの周囲についた。みんな手に大きな盾を持ち、腰には刀、背には弓を背負っている。これだけの武器を持ってよくも走れるものだ。
「我々二人が先頭に立って神世とのあわいを開く算段だが、あまり離れると危ない。この速さで進むぞ」
「はいっ」
兵たちはワアワアと大声を上げながら駆けた。吹負も「おう! おう!」と掛け声をかける。僕も見様見真似で「わあああ!」と叫んだ。
「君もその気になればなかなかやるじゃないか」
美しい声がして、僕は振り向く。比売神様の乗った馬が僕のすぐ後ろにいた。
「高市麻呂が褒めていたぞ。さすがは大伴連の一族、だそうだ」
比売神様は相変わらず馬の背に優雅に横座りし、この戦場に似合わぬ緑色のスカートの裾をひらりと舞わせて、そして今は兵に曳かせるのではなく自分で馬を操っている(後で調べたところによると外国ではこういう横座りの騎乗技術もあるらしい)。
「高市麻呂さんは?」
僕はなんとか質問をするくらいの余裕が出てきていた。
「殿だ。あいつでないと務まらない」
殿は最後方で敵の追撃を食い止める役割だ。そのため集中攻撃を受けやすい。後の時代の話になるが戦国時代の合戦では勇猛な武将が務めることが多かった。
「それって滅茶苦茶危険なやつじゃありませんでしたっけ」
「滅茶苦茶危険なやつだ。しかし誰かがやらなければならない」
比売神様は平然と答えた。僕の戦国時代に関する知識によると、殿軍が壊滅するというのはそう珍しいことではない。高市麻呂は無事に追いついてこられるのだろうかという思いが頭をよぎる。が、吹負の声で不安な思考は断ち切られた。
「ここを抜けると敵中に突っ込むのみ! 心してかかれ!」
これまで道の両脇にあった林が、目の前で途切れている。その向こうには沈みかけの夕日に照らされた橙色の田んぼが広がっている。
「おう!」
「おう!」
全軍が雄叫びを発して雪崩のように道を走った。軍といってもわずか百人ほど。しかし掛け声と足音は大地を震わせるかのように轟いていた。
「敵襲!」
「矢が来るぞ! 防げ!」
僕たちの周囲を走っている兵が盾を高く掲げた。直後、鋭い音が空気を引き裂いた。頭上を矢が飛び去り、または盾に突き刺さって恐ろしい音を立てた。
「怯むな、走れ!」
「おう!」
吹負が馬上で矢をつがえる。流れるような美しく無駄のない動作。
「放て!」
吹負が矢を放ち、味方からも矢が放たれる。その狙いは、百メートルほど先の田んぼの中。
横一列に展開して待ち受ける敵の軍勢を、僕も認識した。
僕たちは一目散にその中心を目指して駆けていく。流れ矢が耳元を掠めていく。当たったら腕くらいは簡単に吹っ飛んでしまいそうな恐怖の音。
「行け! 行け!」
「矢、来ます!」
ドスンと音がして、振り向くと兵がその場に転倒するのが見えた。あ、と思う間もない。
「先に行けえ!」
兵はそう叫んだが再び起き上がることはなかった。馬は上下に揺れ、僕はずっと後ろを見ていることもできずたてがみにしがみついて前に向き直る。矢は次々に盾に刺さり、僕たちの頭上を飛び越えていく。考え事をしている暇がない。
また矢が迫る。僕は馬上で伏せてかろうじてかわしたが、矢は真後ろへ飛んでいく。
「比売神様!」
振り向いた瞬間、金色の髪が宙に舞うのが見えた。比売神様の体がふわりとのけぞる。まるでスローモーションのように感じられた。夕日に照らされ、燃えるような輝きを放つ髪。矢は比売神様の後ろの地面に突き刺さっていた。矢羽が髪を掠め、切り飛ばしたのだ。
「弓矢を」
と比売神様が隣を走る兵に言った。瞳には夕日が映って燃えるような金色に輝いていた。
「颯太、ちゃんと前を見ろ。死ぬぞ!」
「はい!」
吹負に言われ、僕は前を向く。この間にも矢は降り注ぎ、また一人の兵が脱落する。声を掛ける間もない。
「颯太、伏せろ」
比売神様が背後から言った。
「はい!」
僕は馬の首に抱きつくように伏せた。その瞬間、バン、と衝撃音がして、風を切り裂く音を残して矢が飛び去っていった。数瞬の後、正面の敵の中心にいる騎兵がずるりと馬から落ちた。的中……?
「的中です!」
誰かが叫んだ。
「比売神様!」
僕は思わず振り向く。比売神様は馬上で弓をつがえるところだった。夕日に照らされ、背を伸ばし、弓を構えて、燃えるような瞳で敵を見据えている。
「前を見ろと言っただろう」
「すみません!」
僕はまた前に向き直り、伏せた。と同時に衝撃音が駆け抜ける。空気を切り裂く矢羽の音。そして、馬から落ちる敵の武者。一瞬、戦場が静まり返った気がした。敵が慌てふためいているのが見える。距離は三十メートルほど。
「やった!」
味方の誰からともなく声が上がる。
「行くぞ! 突っ込め!」
「おう!」
「颯太、前に出るぞ!」
吹負が馬を加速させた。僕は遅れないように馬の腹を蹴る。馬にしがみつく。あと十メートル。弓を持った兵たちの中へ馬を突っ込む。
「うおお!」
吹負が刀を抜き、そのまま敵の歩兵を斬り倒した。冑が吹っ飛び、兵は田んぼに倒れ伏した。矢が吹負の甲に弾かれて甲高い音を立てる。
「走れ、走れ!」
僕は馬の腹を蹴った。手綱をぐいぐいと推した。馬はどんどん加速した。僕は前を見なかった。降り注ぐ矢をかわすため顔を伏せて馬の背にしがみついていた。吹負の乗る馬の尻が上下するのだけを視界に入れて、それだけは見失わないように手綱を必死で操った。いつの間にか周囲が暗くなり、霧に包まれているのにも気づかなかった。




