九
そこから高市麻呂先生によるスパルタ乗馬教室が始まったわけだが、その厳しさは手取り足取りの厳しさではなくて自由放任の厳しさだった。
「まず馬に乗ってください」
「ええと……まず乗り方を教えてほしいんですけど……」
「『えいっ』で乗れますよ! 鐙に足をかけて『えいっ』て!」
というような具合である。高市麻呂はとにかくいつも爽やかな笑顔で、やればできる、やってできないことはない、誰でも必ず成長できる、というスーパーポジティブ青年なのだとわかった。かといってただの根性論というわけでもなく、簡潔なアドバイスに従っていると本当になんとなくできてしまったりする。例えばとりあえず「えいっ」で乗ってみたら最初は上手くいかなかったものの数回のトライでなんとかできるようになった。
「じゃあ走りましょう!」
「走るって、どうやって!?」
「こうです、こう!」
高市麻呂は猛スピードで林の中を走っていってしまう。僕はまだ馬に乗った視線の高さに恐怖している段階である。
「馬の腹を蹴るんです! 手綱をしっかり持って!」
林の向こうから高市麻呂の声だけが聞こえてくる。
「あなたならできます。私の見たところ乗馬の才能がありますよ!」
ええい、もうこうなっては仕方ない。待っていても高市麻呂は懇切丁寧な指導などしてくれないだろう。思い切っていくしかない! 僕は手綱を握り、馬の腹を蹴る。馬は鼻を鳴らし、猛然と走り始めた。
ヤバいヤバいヤバい――。あまりにも加速が早すぎて胃のあたりがヒュンとする。
「あ、あ、あ、あ、あ」
言葉にならない声が自然と出てくる。風がひゅんひゅんと顔を撫でる。林の木々が視界を後ろへ飛んでいく。馬、速すぎないか? 体が馬の速さについていかない。滅茶苦茶揺れる。しかも不規則な揺れで振り落とされそうだ。でもここで落ちたら木に激突して大怪我は免れない。だから僕は必死にしがみつく。
「止め方! 止め方は!? 止め方あああ!」
僕は叫んだ。
「手綱を引け!」
木霊のように高市麻呂の声が返ってきた。
僕は思い切り手綱を引く。
「止まれ止まれ止まれ!」
と同時に馬が急ブレーキをかけ、のけぞっていた体は反対に前へふっとばされそうになる。落ちたら地面に叩きつけられて死ぬ。僕は馬の背中にしがみついてなんとかギリギリのところで持ちこたえた。
馬が止まる。僕は全身に汗をかき、全速力で走った後みたいに息が上がっていた。足がガクガクしている。股関節に全然力が入らない。なんとか生きていた……。
背後から軽やかな蹄の音が近づいてきた。
「最高、最高ですよ! 初めてとは思えない!」
馬を横につけた高市麻呂は僕の肩をぽんぽんと叩いた。
「ちゃんと乗れてましたよ。この調子ならまったく問題ありません」
そう言われると、たしかにちゃんと乗れていたなと思う。しばらくして冷静になってから考えたところによると僕はただ馬の背中にしがみついていただけでしかないのだが、ともかくこのときは高市麻呂にまんまと乗せられていた。
「たしかになんとかなりそうかも……」
「そうでしょう。馬と一緒に走るのは楽しいと思いませんか?」
「楽しい……楽しいです」
「素晴らしい! ではもう一度行きましょう!」
高市麻呂が馬を走らせる。僕もふたたび、馬の腹を蹴った。




