来週の日曜日に隕石が降ってきて世界は終わる。そう聞いてから一ヶ月が経った。
隕石落下による地球消滅の日から一ヶ月が経ったにもかかわらず、僕らは意地汚く生きている。
長野県の南側、木曽の麓にある村で、大阪から連れてきた最愛の友人とともに佐々木さんという一人暮らしのおばあさんのところに暮らしている。電気もガスも水道さえも通らない。ほんの三十日前までは世界で第三位の経済水準を誇る国にいたとは思えないくらい、生きることに直結する仕事ばかりで毎日が終わる。
「もう寝たか?」
僕を枕にして眠るミツネにそっと話しかける。彼女は目に涙を浮かべながら規則的な呼吸をするのみだった。瞼越しに眼球が動いているのが分かる。よくない夢でも見ているのだろうか。赤子をあやすように頭を撫で、握られていた手を解く。
そして布団をかけてからその場を後にした。作り置きの麦茶を一杯飲み干すと、音を立てないよう気をつけながら家を出る。
蝋燭もまだ作れない唯一の灯りが見えた。そこへ向かって歩を進める。
空は分厚い雲が覆っている。かつて美しかった星空もここ最近はあまり見ることができない。誰かが核戦争が起こったからだなんて言っていたけれど、僕はあまり信じていない。もしそうなら、あの雲から降ってきた雨が流れた川の水を僕らはすでに飲んでいることになる。被曝は避けられない。そんな暗い未来を認めたくはない。
八月にしては涼しい夜の坂を僕はぽとぽとと歩いた。景色が何も教えてくれないと僕はすぐに自分の中へと入り込んでしまう癖がある。
何度も思い出しては考えるあの一週間のこと。全てをひっくり返した未曾有の大事件。
来週の日曜日、地球は終わる。
そうNASAの職員からリークされた情報は瞬く間に世界中へと伝播した。もう二度と月曜日は訪れないのだと、地球へ向かう巨大隕石の写真を見た時に理解した。
まずツイッターが荒れた。アルマゲドンが急上昇一位となり、次にNASAがそのリークを認めたというニュースがトレンドを占めた。
僕はその瞬間に、大学の授業から抜け出し車を走らせて大阪へと向かった。頭に思い浮かんだ女性に、どうしても会いたかったからだ。いや、会わなければいけない気がしたんだ。
僕が東京を脱出するために動き出したのはかなり早い部類だったが、すぐに人の波に捕まって名古屋の渋滞で一日を潰した。水曜日に入る頃、SNSが過熱し始めた。ハッシュタグ『どうせ終わるならしたいことする』がほぼ全てのSNSを占領し、緊急事態時の温厚さをアピールしてきた日本とは思えないくらいの暴動が巻き起こる。どこか遠くの国で起こった過激デモに酷似した映像が見知った場所を舞台にしていた。
僕はなりふり構ってられなくなり、高速に車を乗り捨て、高架下の自転車を盗み国道二十五号を下った。
「お前今どこにいる?」
アップダウンの激しい坂を車を縫って走っている時同じゼミの武田からラインがきていた。漕ぐ足を止めずに電話をかける。ワンコールで彼は出た。
「今奈良を越えて大阪に入るところ。どうした?」
言うと彼はノイズとなって聞き取れないくらいの怒鳴り声をあげた。唯一わかったのは、「どうしたじゃねえだろうが」の部分だけだった。
「ごめん。……最期のお別れはちゃんとしとくべきだった」
武田は呆れたようにため息をつく。
「最期じゃねえよ。来週の月曜日までに必ず戻ってこい」
「はは、こないよ。サザエさんも最終回なんじゃない?」
僕の大事なことをはぐらかすような態度に彼はもう一度怒鳴った。
「終わりだなんて考えんなよ。……と大阪で用が済んだら長野に来い。東京には来んなよ。あと、電話もいつまで使えるかわかんねえからこまめに電話してこい」
「長野?」
「以前フィールドワークに出た村があったろ。千田さんと連絡が取れてな、コロナに罹ってないならかくまうって言ってくれた」
そこまで聞いて、ようやく彼が世界が終わるということを信じていないのだと気づいた。激しめのエイプリルフールのように一過性の流行だとでも思っているのだろうか。暴動も、世紀末的な荒廃ももう取り返しのつかないところに至ろうとしているのに。
場違いな笑みがこみあげてきて、けれどすぐそれを押し込めた。表に出すのはまずい。
「あの村かぁ。よかったな」
「おい、萩原、必ず来い。必ずだぞ」
何を感じたのか彼は再度念を押してきた。僕は自転車を止め、息を整える。別れにふさわしい言葉は思い浮かばなかった。
「行けたらね。武田、僕はお前のこと好きだったぜ」
「気色悪いこと言うな、お前と天国で再会するつもりはねえから!」
最後まで彼は同じ調子で、僕らは電話を切った。
ポケットに携帯を突っ込んでペダルを強く踏む。頭にはある日のゼミの思い出。教授のいない暇な時間に、僕らはもしも話をしていた。
「もしも、地球が終わるとして、自分は何をするか」
僕はふざけて一生分のセックスをするとか言ったけれど、武田はその時こんなことを言っていた。
「誰かが滅亡を阻止してくれると信じて生き延びることのできる最善策を取る」
まさかそれが本心だったとは。
僕は一生分のセックスをするわけでもなく、というか未経験のまま死のうとしている。高校生の時、告白できなかったあの子の顔を見るためだけに日本を縦断している。
同窓会で凛と笑う彼女に再び恋をしてしまったことを忘れられないでいる。
汗が目に入る。ぼやける視界でも強引に目をかっぴらく。
彼女との思い出は苦いものばかりだ。思い出すだけで体を捩りたくなるような、クソみたいなものばかり。本当に好きだと思った人に僕は何もしてこれなかった。というか、本当に好きとはなんだろうとか考えていた。恥ずかしい青春だった。
いや、今も恥ずかしいままだ。僕の人生に最高にクールな瞬間は一度もない。僕は深く考えすぎるタイプなのだ。何事にも考え込み、二の足を踏む人生を無駄にしてしまいがちなタイプ。余計なことに気を配り、結局鳴かず飛ばずの成績しか手に入れられない。そういう平凡な男。なぜ生きているのかを真剣に悩んで体調を壊すような、不器用な奴。
社会に出ることを忌避して、そのことを考えるだけでストレスが溜まり、自分はなんて社会不適合者なんだろうと自嘲しながら、週五の塾講師バイトを続けるなんていう矛盾に満ちた生活を送っていたのに。
どうして今、こんなにもまっすぐ走り続けられるのだろう? ペダルを漕ぐ活力が湧いてくるのだろう?
人畜無害で臆病なはずが、放置された自転車を盗んで走り出す勇気をどこでもらったのか。
何もかもがノープラン。行き当たりばったりの無頓着。一寸先のことも考えられず、与えられたことにいちいちぶつかって生きる毎日。今こうやって必死になっているのも、その一貫だろうか。
僕は今、寒いことをしているのだろうか。
いやそんなことはない。僕は正常だ。そのはずだ。
原因なんて分からない。そうすべきだと思ったから、僕は三日三晩を駆け抜けたんだ。殺人も、強姦も、暴飲暴食も、犯罪も露出も思いつく限りの物事を他の人はお祭りのように行っていた。僕は? ただひたすらに、無駄になるかもしれないのに、地元へ至る道のりを走っていただけだ。だのになんだか誇らしくて、僕は一番人間らしい人間だろうと自分を褒めた。
木曜日、そして、僕は己の無力さと現実に叩きのめされたんだ。素直に欲望の赴くまま生き急いでいれば、この不幸に出会わなかっただろうに。
鉄と汚物の臭いが鼻をつく。悲鳴が聞こえる。ミツネの家の扉を蹴破って、それまでドギマギして期待と興奮とに色鮮やかな情景を抱く頭は瞬く間に鈍器で殴られた。鈍い火花が散る。取っ組み合いの末、床に転がるミツネを抱きしめたのは僕だった。彼女の浅い息が首筋にかかる。僕は唇を強く噛んだせいで口の端から血が滴った。
裸の彼女に服を着せるのにずいぶんと時間がかかった。彼女の必要そうなものをカバンにつめ、血溜まりの真ん中にいるどこかミツネの面影がある男女をシーツで覆った。その間、気持ち悪かったのに不思議と吐かなかった。たぶん、それどころじゃなかったのだ。景色があまりにも、現実と離れすぎていて。
虚ろな彼女を抱えながら、自転車を漕ぐ。来た道を帰ることは難しそうだった。国道二十五号線は、道も悪ければ坂も多い。女性一人を抱えてのニケツで長野までいくことは不可能だろう。東海道は諦め、北側から回っていくことにした。
日曜日、最後の日。僕らは琵琶湖のほとりで転がっていた。自転車が悲鳴をあげて壊れ僕らは投げ出されたのだ。それまで僕のいいなりになって食べ、排泄し、眠り、動いていた彼女が初めて口を開いた。痛みが彼女を呼び起こしたのかもしれない。
地球の最後に残った理性のように、誰かが「お家へ帰れ」と叫び続けていた。
「終わるなぁ。世界」
コーヒーを飲んで一息ついた後のような優しい声だった。
腕が痛むのも忘れて、僕は彼女の隣に寝そべった。空にはオーロラが出ていた。夕方に放たれた閃光が空を埋め尽くし、機械という機械がその運動を停止させていた。EMP攻撃だ、とどこかで聞いた単語が頭によぎった。
「……そうだね」
僕の声は、さも僕のものではないかのようだった。疲れとか、怠さとか、そういったものを差し引いてもなお自分のものとは思えなかった。
満点の星空に一つの光の筋が空を縦に割る。月と同じくらいの大きさのそれは、以前見たアニメ映画のワンシーンのように神々しく輝いていた。
「痛いんかな?」
独り言のように彼女は呟く。僕はずっと空を見つめる。
「痛みを感じる前に、全て終わるって誰かが言ってたよ」
嘘だった。世界の終わる瞬間のことなんて知るはずもなければ聞いたこともない。これまでの知識でもって、僕は反射的に返していた。
「ハギくんは物知りやなぁ。でも嫌やなぁ。痛くないんかぁ」
普通逆だろう、そう思ったが口には出さなかった。けれど彼女は心不在げに笑って「だってそうやんか」と言った。
「痛くなかったら、生きてるって思えんやんか。こんだけ苦労して生きたんや。痛くなかったら、あたしの人生は夢の中みたいにしょうもないもんになってしまう」
「苦しい方がいいの?」
「……ううん、そうでもない。苦しいのは嫌やわ……」
僕らは同じことを思い出したんだろう。彼女はふっと立ち上がって服を脱ぎ始めた。唖然とする僕に彼女は欠けた月のような笑顔を見せる。
「泳ごうや」
彼女はパンツも脱ぎ捨てて七月のまだ冷たい湖へ走り出した。好きな人の、引いては初めて見る女性の裸。場違いにも奮い立つ僕の僕を、それでも彼女と同じようにさらけ出して僕もまた走り出した。
ランニングロードを横切り、柵を超え、岩場を飛び跳ねて湖に飛び込んだ。きゅっと心が縮むような思いだった。
想像以上に深く足はつかない。先に行って水飛沫をあげる彼女めがけて僕も飛ぶ。
電気の止まった星灯のみに照らされた琵琶湖は僕らを二人っきり宇宙に放り出してくれた。僕らが動くと宇宙に波紋が広がって、星が歓喜に揺れる。
水がきらきらと宙を舞う。ぷかぷかと器用に浮かぶ彼女を僕は立ち泳ぎをしながら見つめた。小ぶりなミツネの胸から目を離せないでいると、彼女は久しぶりにからりとした笑顔を見せた。
「えっちやね」
何かがその瞬間に変わった気がした。体のどこかにあるスイッチを力いっぱい押されたような、そんな気分。カチリと確かに頭の中で音がした。
そして急に死ぬのが怖くなった。生まれてから初めて感じた恐怖だった。
他の誰でもない僕が今という瞬間を独占している。彼女と二人きり、夢にまで見て妄想しては悲しくなったシチュエーション、それを僕だけが記憶できる。湖の中で僕はそんな己の幸せを呪った。僕は幸せになっていいのだろうか。突然怖気ついて前後不覚に陥る僕が。
思考とは裏腹に、胸がどうしようもないくらい昂った。こういう時、どんな言葉がベストなのか分からなかった。経験があまりにも乏しすぎて、何をすればいいのか分からなかった。
次の瞬間に僕は彼女を抱きしめていた。柔らかくすべすべな肌を隙間のないくらい強く強く抱きしめる。
冷たい水の中で、彼女だけが熱かった。
「痛いって、一回離してや」
ひゅっと、背筋の凍る思いをした。
そう言われて飛び上がるように僕は手を離した。彼女から距離を取るように後ろに泳ぐ。けれど彼女はそれを許してくれなかった。
「え、うわ!」
逆に飛び込んできて、僕は下敷きになり沈んだ。ぶくぶくと泡を吹きながらもがく。
泡の向こう側、揺らいだ視界、その中で彼女の顔が目の前にあった。唇が、気のせいだと思うくらいに短く触れた。
その瞬間、時間が止まった。
音がやみ、もがくのをやめてゆっくりと浮き上がる。足だけで水をかきながら彼女の脇を下から抱えるようにして持ち上げ、見つめ合った。
星々が騒がしく僕らを照らしていた。風が吹き木々が拍手をしてくれた。
口を横に釣り上げるような笑みを、ミツネは浮かべていた。涙を浮かべていたように思ったけれど、暗くてよく分からなかった。
湖からあがり、岩場で水を払った。二人して震えながら、手を繋いで服の散乱する場所まで戻った。
アダムとイブだ。生まれたままの姿で、世界で最初に誕生した僕らは、世界の最期にもまた二人きりで死ぬのだ。
一枚のタオルでお互いを拭いてから、服を着ることもなくただ並んで空を見上げた。
僕があぐらをかいて、彼女はその中に収まり僕に背中を預けた。
不思議とペニスは勃たず、彼女は何も言わなかった。僕らはその瞬間をじっと待ち続けた。
長い長い時間があった。その間に様々な物事が頭の中を駆け回った。
もしかしたらその時間は一秒にも満たないようなものだったのかもしれない。それでも、走馬灯に似た人生の復習は確かに行われた。主に、会えなかった友人や家族の情景だったけれど。
最期の時を待ち続けて、ついにそれは起こった。
空を縦に切り裂く隕石が月と衝突したのだ! まるで空に映像を映し出しているのではないかというような景色だった。満月は砕け爆発した。月だったものは大きくその場所をずらし、けれど結局今までと変わらず宙に浮かんでいた。数分後、赤い線が空にいくつも走っていた。そのうちの何個かが地上に落ちたような気がした。
たったそれだけだった。
たったそれだけで、あとは今まで通り、時間だけがただただ過ぎて行った。
地球は、世界は、終わらなかったのである。地球上で人間だけが終わりを迎えたんだ。社会は潰え、国家は沈んだ。一人一人の個人だけがあとに残った。
その事実を飲み込むことは、すぐにはできなかった。
未だ僕らは衝撃に備え続けている。
ただあまりにも長かったため、先に根をあげたのは僕だった。受け入れることはできなかったが、次にすべきことは分かっていた。
「服を着よう。長野県で友達が待ってる。風邪をひくのはまずい」
先に立ち上がり、服を着る。彼女の衣類も集めて、動かない彼女にブラをつけ、上着を着せた。
その時である。
たまりにたまった鬱憤が、必死の覚悟で押さえつけていたのだろう想いがついに溢れ出した。
「なんで終わらへんの!? なんで、なんで終わらせてくれへんの!? 殺してや! それだけが、あたしらに対する救いやったはずやろうが!」
「お、落ち着けって」
「これが落ち着いていられるか!」
怒りの矛先が僕へ向いた。
「なんであたしを助けたん! なんであんたがここにいるん! なんであたしはあんたといるん! 余計なことせんといてや! あんたはいつもそうやってお節介ばっかして。あたしは、あたしはあそこで、あのおっさんに犯されて、そんで、そんで……あたしは殺されたかったんやぁあああ」
叫びながら、彼女は子供のように泣いた。
僕にできることは、本当に一つもなかった。
じっと下唇を噛んで今までとは違う夜空を、その下で泣く最愛の人をただ見つめることしかできなかった。
あの月が、二度と満月にならないように。彼女の身に起こった不幸は一生消えないのだ。
僕にできることは、何もないのである。
酒造の扉を叩く。あれからもう一ヶ月だ。時間は瞬く間にすぎていく。地球が消滅しなかったことに、僕は案外すぐ慣れた。結局、今までと同じように、今までとは違う日常がやってきただけなのだ。寝て起きれば、同じ明日がやってくる。
「よう遅かったな。みんないるぜ」
武田が疲れた顔で出てきた。
灯の中に僕は入っていく。扉を閉めると外はついに本当の闇を迎えた。動植物は眠りにつく。人間だけが、こっそり繁栄を画策して起きている。
地球が終わると予言された日から一ヶ月が経った。僕らは未だ意地汚く生きている。問題は依然山積みで八方塞がり四面楚歌。過去は相変わらず後ろ髪を引いてくるし、未来はやはり暗闇の中に隠れている。
けれど今、僕は、なぜ生きているのかを問うことはしなくなっていた。
それでもなお、『死だけがあたしらに対する救いやったやろうが』と叫ぶミツネの言葉を忘れることはなかった。
読んでいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。