7 行進
「ただいま戻ったよ。愛しい愛しいボクの主」
イグルシが膝を抱えてくるくると空中で回っていると、一番聞きたかった声が聞こえてきた。
声のした方を確認すると、泥だらけになったユガが笑いながら立っていた。
このあたりは森になっていて足場が悪い。おそらく何度も転んだのだろう。イグルシはユガの纏ったボロキレのようなローブを脱がせてから、服に着いた汚れを払った。
せっかくだからこういう汚れも穢れの補正に加わればいいのに。そんなことを考えながら首尾を確認する。
――おかえり。どうだった?
「とても楽しかったよ」
――そっか。それは良かった。
ユガが楽しかったと言うのであれば、おそらく成功なのだろう。イグルシはそう判断して早速次の作業へ取り掛かろうとした。
しかしその前に一点、気になった質問をユガに投げかけた。
――その杖どうしたんだい?
それはユガが手に持った立派な杖についてだ。ここを発つ際にそこいらの木の棒を杖として持たせたが、それはもっと汚く形の悪いものだったはずだ。
「杖? これのことかな? ええと……ううん、何だろう? 分からないや。欲しいかい?」
――いや、僕には必要無いかな。
「そっか。ならボクも要らないや」
そう言うとユガは先程までいかにも大切そうに抱えていたそれを、ぽいと投げ捨てた。
――よかったの? ずいぶん立派な物に見えたけど。
「うん、構わないよ。だって何だったのかも分からないし。本当に大切なものなら憶えているはずだよね? それにボクには何にも要らないから。絶対なる主さえ在れば、他には何も」
――そっか。
ユガが良いと言うのだから、それで良いのだろう。この話はこれでおしまいだ。
イグルシが今度こそ発とうとしたところで、今度はユガが問うてきた。
「そうそう、ボクからも聞いておきたい事があるのだけれど。そう、何より大切で大切で大切なことが、ひとつだけ」
――うん、予想はつくけど、いいよ。言ってみて。答えてあげる。
「ありがとう。愛しく優しく寛大なるボクの主。邪悪なる異形の樹の化身、混沌にして虚無なる王。ボクの問いはただひとつだけ。……どうか壮麗なる主の名前を、ボクに教えてくれないかい」
◇
――それじゃあ行ってくるから。ユガは待っててね。
少しの雑談に興じた後、名残惜しみながらもイグルシはいよいよ本当に発つことにした。
「うん、偉大なるボクの主、イグルシ。邪悪なる樹はボクの命に換えても護るから、安心しておいで。そもそもボクには命も死もないんだけれどね」
そう言ってユガはくすくすと笑った。イグルシはユガの発した不死者ジョークに少しだけテンションを高めた。
◇
まずは今回の件、ユガがあの辺境の村へ訪れることとなった経緯から説明しよう。
事の起こりは昨晩のこと。イグルシは自身に有利な補正の掛かる夜のうちに、ひとりで偵察を行なっていた。
WToMにて選択可能な九つの種族それぞれを一体の生き物の体と見立てた際、樹とその化身は脳であり心臓とも呼べるもっとも重要なパーツである。
樹が死ねばその種は死に絶え、化身が死ねば邪悪なる樹は何もできなくなる。
ゆえに本来樹の化身が偵察に出ることなどあり得ないのだが、なにせ使徒であるユガは目が見えずものも覚えられず走ることもままならないほどに非力であるため、初期ユニットとしてまず確実にユガを選択するイグルシにとって、最序盤の単独偵察は常套手段であった。
邪樹の化身の黒い身体は闇に紛れて動くのに都合が良い。そうして空を見上げて、知っている星がひとつもないなと思いながら歩いていると、遠方より魂の喧騒を感じ取った。
生物の魂の気配を感じる、イグルシの持つ異形の主としての能力のひとつである。
感じた方向へしばらく進むと、僻地の寒村が見えた。人類種の村である。
彼は僥倖だと思った。察するに規模からいっておそらく人の出入りはほとんどない。そしてこの規模であれば、ユガ単独でも呑める。
念のために驚異となる者が存在しないか探った後で、出発前にユガに貰った彼女の肉片を適当な場所に置く。これでユガひとりでも自身の肉片の気配を辿れば自然とこの場所へと辿り着くはずだ。後はすべて勝手にやる。
不具の仔ユガには何も教える必要がない。無論教えたところで何も覚えられはしないが。
ただ彼女は他種族を見ると自然と懐き、やがて感謝や、慈愛や、融和の祈りを込めて、施しの泡を雨と降らせる。悪意も敵意も害意もなく、ごく自然に、精神構造上そうなるようにできてしまっているのだ。
そうして自身の肉片を回収して事が済めば邪悪なる樹とイグルシの気配を辿り、またふらふらと勝手に戻ってくる。
WToMの高ランク帯ではなかなか通用しない戦法だが、イグルシが初心者のころには好んで使った手であった。
◇
時は戻って現在。イグルシは再び件の村へ訪れていた。今度は隠れることなく堂々と表からの侵入だ。
今は乗り物も用意できないため、やはり移動は長時間かけて徒歩である。
本来であれば邪悪なる樹には、自身の汚染の及ぶ範囲へと異形に属するものを転移させる能力があるため、やろうと思えばわざわざ歩かずとも簡単に移動できる。
だが転移にはマナを消費するため、好き勝手無制限に飛ばせるというわけではない。なお座標間の距離や転移物の質量によって消耗するマナの量が増減する。
また他の『樹』の支配領域はそちらの力場、異能の法則が働くため、穢れを送り込めたとしても転移することは難しいという制限も存在する。
何より今は少しでもマナを温存したいため、多少時間がかかっても無闇矢鱈と消費はしない、というのがイグルシの方針だ。
村の中央に位置する広場のような場所では、幾十名もの村民が折り重なるように倒れ、呻き声を上げていた。
――うん。上々だ。
そのうちのひとり、体格の良い壮年の男性の前で膝を折り、その額に触れる。
――侵食。
「ぎぁあああああがががががががががが、か!! ぁぁぁぁあああああああ!!!!」
イグルシが一言呟いた瞬間、男は目を見開いてけたたましい叫び声を上げた。思わずイグルシの肩が跳ねる。
――びっくりした。これ、そんな大声出るんだ。
ゲーム内では発生しなかった挙動に思わず困惑する。
今イグルシが行使したのは、異形の主としての能力のひとつ。侵食の応用、侵食洗脳である。
成功すれば対象にイグルシの命じた簡単な行動を取らせることが可能となるのだが、相手の知力の値で抵抗されてしまうため本来であれば人類種などにはまず効かない。だが彼等は皆、泡の影響で知力がほぼゼロに近い状態になっているため、ほぼ確実に侵食洗脳が成功するのである。
とはいえ今のイグルシにこの村民全員を侵食するほどの余力はないため、狙うのは筋力のありそうな男性だけだ。
――男の人をひとり操れば一緒に女子供やお年寄りをふたりは抱えて運べる。この村は若い男の人が多くて助かった。
必要な人数分侵食し終えたら、あとはその侵食した人間を用いて邪悪なる樹まですべての村民を運搬させるだけである。
――大型の家畜も一緒に連れて行こう。鶏なんかは、もったいないけど放置かな。
そう独り言つと村の中で見つけた牽引用の縄で村人達を山羊や豚等と一緒くたに縛りあげ、それらを率いて再び闇の中へと消えていった。