2 使徒
邪悪なる樹、クリファティアの種を掴んだ瞬間、視界が少しだけ開けた。
相変わらず世界は暗いままだが、流司の目には新たに十一体の異形の姿が映る。
「使徒……」
呟きつつ、ちらりと足元に視線をやる。
先ほどまでそこにあった八つの種はいつの間にやら消えていた。選ばれなかった種は不要。そういうことなのだろう。
瑣末な事と思考を切り替え再び眼前の異形を見やる。
「壮観だな……」
使徒。それはWToMに登場する固有ユニットの総称。ひとつの種族につき十一体。それが九種族で合計九十九体存在する。
種の選択を終えたプレイヤーは次に提示された十一の使徒の中から、初期ユニットとして一体だけを選ぶこととなる。
例えば中庸と普遍の種、ラヴハアトを選択した際に提示される使徒は全てが人類種であるため、見た目にそこまで大きな違いはない。身長は小柄でも150センチ程度。大柄でも3メートルには満たない。
一方で邪悪なる樹が産む異形種系統の使徒は十一体すべてに一切見た目の共通点が存在しない。強いて言うなら大半がアライメント的視点で観察した際に普遍、中立よりも混沌、悪の方面に振れているように見える程度。
山の様な巨躯を持つもの。節足動物の様な脚を蠢かすもの。星の息吹を内包したものに、決まった形を持たぬもの。本当に様々だ。
「宇宙鴉ケトゥケトゥ」
「障王ファニークラウン」
「水底の姫ソア」
「裂け目の蜘蛛ラクナク」
「亡骸拾いオプラーニァ」
「忌人」
「疽竜パラトパララ」
「星喰らいモラキ」
「災獣ガァズィ」
「輝けるンドゥ・カ」
ひとつひとつの名を呼び上げる。いずれもトップクラスの実力を誇る強力なユニット。流司が愛し、もっとも信頼を置く終末の権化たち。しかしそれらから視線を切って彼が駆け寄ったのはひとつの小さな白い影だった。
「不具の仔、ユガ」
一見すると人間にしか見えない、肌も体毛もその一切が純白で塗り潰された子供。
その頬をそっと右手の平で撫ぜる。柔らかく、それでいて刺すように冷たいその肌の感触を楽しんでいると、真っ白な目蓋と睫毛の奥から血色の瞳が覗いた。
ソレは一瞬だけきょとんとした表情を見せた後に、天使めいた笑みを湛えながらクツクツと喉を鳴らした。
「ボクを選ぶんだね。おかしな主。ボクがどういうモノなのかは知っているハズなのに」
流司はこの言葉に聞き覚えがあった。WToMにおいて初期ユニットとして彼女を選んだ際に必ず述べる口上だ。彼にとっては幾度も、それこそ暗記するほどに聞いてきた台詞である。だと言うのに、眼前で実物が口にするだけでこんなにも込み上げてくるものがあるのかと、目頭と喉の奥に甘い痺れを感じながら続く言葉に耳を傾けた。
「ボクは畜生にも劣る不具の仔、ユガ。眼は見えず、翼はなく、知恵もなく、力もない。ゆえに天より追い堕とされた醜悪なる穢れた仔。九十九の使徒の中でも最弱の劣等にして悪辣なる異形」
そこまで述べてから言葉を切り、自らの頬に添えられていた流司の手を小さな両掌で包んだ。その手も頬と同様に、凍てつくような冷たさを孕んでいる。
「それでも構わないと言うのなら、微力なボクの全力を捧げよう。愚かで愛しいボクの主」
その瞬間、暗闇の世界に亀裂が走った。それは見る見るうちに大きくなり、ついに流司とユガの身体は外界へと投げ出される。視界に広がるのは一面の星空。そして惑星に寄り添う丸い月。
「そういえばまだ問うていなかったね。邪悪なる異形の樹の化身、混沌にして虚無なる王。主の名前を聞かせておくれ」
問いの応えは一言だけ。すなわち「イグルシ」と。彼はあえて人としての名を避けた。
それはひとえに彼女に相対するには、一角の人間としてではなく幾度にもわたり世界を蝕んだ邪なる者として在りたいという切なる願いから。
「イグルシ、イグルシ、イグルシ……」
その想いを汲んだかのように、深く深く刻み込むように、ユガはその名をゆっくりと何度も呟いた。
「覚えたよ、蒙昧なるボクの偉大なる主、イグルシ。たったひとつのものごとを覚えることも難しいボクだけれど、きっとその名は忘れないだろう。世界を終わらせるその時まで」
そう言うとユガは握ったイグルシの手を優しくそっと己の口元へと引き寄せた。
「名残惜しいけれどもう行かなきゃ。ボクはまた少し眠るよ。次に会うのはその種が芽吹いた時だ。それまでほんの少しのお別れだよ。おやすみ愛しいボクの主」
そう言うと彼女の体は赤黒い闇と化し、イグルシの握った邪悪なる樹の種へと還っていった。
イグルシの肉体はその後も自由落下を続け、やがて地表が近付くにつれ自然に重力の縛鎖より解き放たれる。そうしてついに地面から一メートル程の高さで完全に静止した。
数秒その状態でぼんやりとしていただろうか。また全身に重力がかかり、とすっ、と。異形の主は大地に降り立った。
暗い、暗い、森の中。折り重なる木々を避けた月光だけが静かに大地を照らす。
その場に邪悪なる樹の種を翳すと、それは自然に掌より離れ、地中へと潜っていった。
放っておけばこの大食らいは勝手に周囲の植物の根や地中の生物や、それから土やら水分やらを侵食し、やがて芽を出すだろう。
それまでは特にする事もない。イグルシはついついいつもの癖で、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出そうとした。
そして気付いた。自らの異変に。
ポケットがない。ズボンもない。それどころか手に輪郭が存在しない。ぼんやりとした星明かりの中でさえはっきりと見える、墨汁を溢したように黒い腕。そこに黒い靄が纏わりついて、具体的な指の本数も視認できないのだ。
一糸纏わぬ純黒。それは正しく異形の主、邪樹の化身の特徴そのままの外見であった。
ふと手頃な位置に生えていた樹木の幹に触れれば、木は触れた部分からぱきりぱきりと白く枯死していった。
そうしてようやくイグルシは『ああ、自分は邪樹の化身になったんだな』と、強く理解した。
そこには慟哭も感慨もなかった。ただ当然の帰結であるという納得だけを抱き――
――眠たいな。
ふとそう呟いた。
邪悪なる樹が発芽の為に力を使っているからだろうか。全身を倦怠感が覆う。
抗い難い睡魔に襲われた彼は、膝を抱えて宙に浮き、そのまま眠りに落ちた。
そうして束の間の夢を見る。何かを求め、地中より手を伸ばす夢。すべてを塗り潰そうと、必死に踠き抗う夢。
その寝息のひとつ、種の胎動のひとつにより、少しずつ大気と大地は穢されてゆく。
彼等は世界を蝕み喰らう者。それが静かに天より溢れ落ちたことを、今はまだ誰も知らない。