幕間
シャンファは必死で走っていた。
マリが悪魔に捕まってしまうのが遠くに見えている。
恐怖で押し潰されそうになりながらも必死で走っているのに、どんなに速く脚を動かしてもなかなか近づかない。
息が荒くなっていて呪文を唱えられそうにもなかった。
絶望的な気持ちになったシャンファの見つめる先で、マリの髪が伸びていった。そして彼女は火を吐いた。
灼かれた悪魔は先ほどまでと一転して逃げていく。
悪魔も、追いかけるマリも速すぎて遠ざかるばかりだった。
「はあっ...は......っ。大...丈夫ですか?」
シャンファは風使いのところまで来ると、大きく呼吸を繰り返す胸を抑えながら声をかけた。全力疾走から急に止まったのでめまいがする。
彼女が風使いの隣に膝をついてすぐに、他の学生たちも風使いの傍に集まってきた。シャンファ以外には男子学生が2人と、女子学生が1人、風使いを囲むように屈みこんでいる。
「大丈夫...ただ、足が動かないんだ」
足が痛むのだろう、風使いは蒼白な顔に脂汗を浮かべて苦しそうな声を絞り出した。どうも脚の骨が折れているのと、あちこちに怪我をしてはいるが、命に別状はなさそうだ。
男子学生が近くの立木からひと枝折り、誰かの持っていたハンカチで添え木をすると、彼らは身を起こそうとした。
「痛っ......」
「医務室へ行けば手当が受けられる。とにかく危険だから、校舎の中に入らないと。」
風使いは顔をしかめたが、頷くと男子学生に半ば担がれるようにして立ち上がった。
男子学生たちが左右から支え、彼らは歩き出した。もう一人の女子学生は風使いの杖を拾ってそれに続く。
シャンファは悪魔とマリが走って行った方を見た。
南には浜があるが、草原にはところどころ木立があるので浜辺まではとても見えない。その木々の間にも、黒い炎も、同級生の姿も見つからない。
「マリ......心配だけど、今は彼を助けなきゃ。」
そう呟くと、シャンファは校舎の方に向き直った。数メートル先を学生たちが歩いている。
シャンファは数歩小走りに彼らの後ろにつくと校舎に向かって歩き出したが、時々振り返っては友人の姿を、あるいは悪魔の気配を探していた。
校舎の近くまで来ると、校医と用務員がちょうど彼らのところへ向かってきていた。他の教員や学生も数名出てきて彼らを校舎へ連れて行く。
ふと、シャンファは食堂のほうを見た。
ポーラが佇んでいる。それも一人ぽつんと、窓の外に。
(あんなに怖がっていたのに、どうして外へ?)
みんなは戻ってきた風使いたちの方へ集まっており、誰もポーラには気づいていないようだ。
怪訝に思ってシャンファの足が止まった。
「ポーラ?」
呼びかけたが、少し遠くて聞こえていないようだった。
シャンファに背を向けるようにゆっくりと歩いていくポーラの向こうに、黒いフードで顔を覆った人物が立っている。
なんとも嫌な予感がして、シャンファは皆から離れ、ポーラの方へ近づいて行った。
* * *
「あなたが呼んだのでしょう?」
シャンファたちが出て行った後のこと。
どこからともなく聞こえた声に、ポーラはうつむいていた顔を上げた。
彼女以外にも窓の周りには沢山の学生が居て、マリが悪魔を撃退した様子に湧き上がっている。その喧騒の中で、声はやけにはっきりと聞こえた。
窓の外を見回すと、少し離れたところに黒いフードの人物が立っている。
深くかぶったフードの陰で顔が見えないのに、その人が笑ったのがポーラには判った。
「こっちへ出ておいでよ。」
ポーラは恐怖に慄いていたのだが、何故かその声に抗えずに窓から外に出た。足が勝手に動いて、その人物のほうへと歩いていってしまう。
「どうして…失敗したはずなのに……。」
彼女の青い唇からか細い声が漏れる。フードの人物はまた笑った。
「そう、術式は失敗していた。だから悪魔は呼べなかった。けどね、この地で邪な感情により黒い魔法が使われたことが、私にはすぐに判った。」
「ポーラ?」
遠くでシャンファが読んでいるのに、振り返ることができない。
「お友達は君の事がとても好きなんだね。そして君も友達が好きだ。でも憎い。嫉妬している。」
「やめて!」
ポーラの叫びが空しく響いた。彼女は歩みを止めることも耳を塞ぐこともできず、泣き出しそうな表情で震えている。
「自分には無い、特別な力を持っているマリ。それを妬まずにいられる明るいシャンファ。どちらも君には眩しかった、そうだろう?
ご覧、友達が駆けてきているよ。」
振り返ることができなかったのに、今度は体が勝手に振り返ってしまう。
いつの間にかシャンファが走ってきている。他のひとはポーラにも黒いフードの人物にも気づいていない様子だ。
「ポーラ、その人から離れて!」
その呼びかけに返事をすることもできずに、彼女の体は再びフードの人物の方へ吸い寄せられて行く。
「シャンファはなんて優しいんだろう。それにマリ、彼女は君がやっと手なづけた使い魔まで虜にしてしまった。」
「何故、名前を知ってるの.......」
か細い声でポーラが尋ねるが、その問いには答えずに言葉が続けられる。
「君の家は魔法使いを数世代に一人は輩出してきた旧家だ。そこで君は当代の魔法使いとして期待を一身に浴びながら育ち、この学校へ来た。殆どの同級生よりも君は才能がある。
でもさ、残念だけど比べ物にならない、超えられない壁の向こうに彼女は居る。それを認めたくなかったんだね。」
「私はただ−−」
「ポーラ!」
シャンファがポーラの腕を掴んだ。しかしポーラは相変わらずゆっくりと歩みを進める。
「そうよ、私は一番になりたかった。あの子は契約の魔法を教えてくれなかったけど、私は調べたわ。そして悪魔と契約すれば魔人よりもずっと強い力が手に入ると思ったの。」
「ポーラ、しっかりして!寄宿舎へ戻ろう!」
「離して!」
ポーラの声には魔術が込められていたので、シャンファは突き飛ばされたように尻餅をついた。
「私と一緒においで。君に相応しい力を与え、どんな魔法も使えるように教えてあげよう。」
「ポーラ!私たち今日はずっと一緒に居たじゃない!あなたは北の森へなんて行ってないでしょう?」
既にポーラはこのフードの人物に魅入られていた。
いつもクールな顔は苦悶に歪み、瞳孔の開いた目はまっすぐにフードに隠された闇を見つめ、唇は少し笑っているようにも見える。
浅く短い呼吸を繰り返しているが、震えは止まっていた。
止めようと縋りつくシャンファを再び突き飛ばして、彼女は言った。
「私、昨夜貴方たちが寝てる間に抜け出して森へ行ったの。絶対に起きないように、昨夜のお茶に睡眠薬を混ぜておいたのよ。気づかなかったでしょう?」
「そんな……。」
彼女は黒いフードの中が覗けそうな距離まで近づいた。そして黒いマントの間から差し出された手を取る。
「行かないで!」
シャンファの叫びは、姿を消した彼らには届かなかった。