#6
「起きろ!」
耳元で叫ぶ声に続いて頬を張られ、マリはゆっくりと眼を開けた。
眩しくて何も見えずに、ただ涙が出る。足元をさらう波と、身体を包むように受け止める砂の感触で、どうやら浜に横たわっていることは判った。
眼が慣れてくると、赤い髪の若者が彼女を見下ろしていた。
「気が付いたか。」
マリは身体を起こそうとしたがうまく力が入らない。若者が背中に腕を回して、抱きかかえるようにして起こしてやった。
「よかった、わたし帰ってこられたんだ。」
ほっと息を吐くと、悪魔は口を歪めて笑った。
「悪魔に命を助けられるとはな。相応の覚悟はできているだろうな?」
マリは少し身体を離して、少年を真っ向から見据えた。その眼にはふたたび強い光が宿り、口元は自信に満ちた笑みを浮かべている。
実際には不安になりそうだったのを、気取られないように必死だったのだが。
「先に助けたのは私のほうだ。死に掛けていたお前を海に戻して助けてあげた。」
悪魔は眉を寄せ、額の中央に薄く皺が寄る。
「それじゃあ仕方ない、お互いに助けたのだから五分の契約としてやろう。お前に力を貸してやるが、死んだらその魂はおれのものだ。」
マリは鼻で笑った。
「お前は私と勝負して負けた。もう忘れたのか?
それに私はお前を助けたせいで死に掛けたんだ。むしろ、恩を忘れたお前が私を殺そうとしたと言っても良い。これは理に反している。」
彼女は喋るうちに元気を取り戻し、ひとりで立ち上がった。そして膝をついたままの悪魔をなるべく冷たい眼で見下ろし、こう続けた。
「お前、陸の上で『ご主人様』と口にしていたが、そのご主人様はお前を助けには来なかった。
見放された哀れなお前を救ってやったのは私だ。私を主人としても間違いは無いのでは?」
悪魔というのは見た目の割りに随分と齢を重ねていて狡賢い者が多いのだが、かれに限ってはまだまだ若く、経験が浅いようだった。
悪魔との交渉は裏をかいて揺さぶったほうの勝ちだ。目の前の悪魔はやり込められ、すっかり小さくなっている。
目が潤んでいるのは濡れそぼっているせいではないようで、しきりに瞬きを繰り返している。
(なんだか、捨てられた子犬を見てるみたい。)
そんな事を思った自分に戸惑いを覚えつつ、改めて悪魔を眺める。
この学校では悪魔と契約している人間はいない。悪魔について学ぶ講義は来年あるが、あくまで基本知識とや対策といった範囲の講義になる。
悪魔を召喚したり使役するような方法は現在では禁じられており、一部の研究者が知るのみだ。
(契約したら、きっと大きな力になる。)
何よりも魔女の本能で、いや彼女の魔力そのものがこの悪魔を欲していたのだが、その自覚は彼女にはなかった。
マリは膝をついている少年の額に手のひらを当てた。
「おーい、君!そいつは悪魔だ、離れなさい!」
浜の向こうから悪魔祓いが駆け寄ってくる。今日は遠くから誰かが呼んでいることが多いなどと思い、マリの口の端に笑みが浮かぶ。
彼女ははっきりと悪魔の眼を見て、契約の呪文を唱えた。
一瞬の閃光に悪魔は目を覆う。
そして彼女が手を離すと、少年の額にはしっかりと紋様が刻まれていた。
「遅かったか…なんてことを…」
悪魔祓いたちは立ち止まり、遠巻きに彼女と悪魔を見ている。
マリの使った契約の魔法は魔人のものだ。悪魔との契約は原則として禁じられているが、魔人の魔法は人間のルールで禁止できない。
ここに抜け穴があるとマリは考えているが、許されなかった場合にどうなるのかは想像もつかない。
自分のしたことに対する戦慄を気づかないふりで押し殺し、マリは悪魔に向き直った。
「低級の使い魔以外は申告しないとならないんだ。着いて来て。」
マリはそう告げると、立ち尽くしている悪魔祓いのほうへ歩き出した。
* * *
マリは契約したばかりの悪魔を従えて浜から伸びる緩い坂を上っていた。
浜へ向かっていた悪魔祓いは、彼女が悪魔と契約したのを知るや大変驚いた顔をして、その後は何やら怪訝な様子で彼女の様子を伺っている。
学校へ戻るまでの道中、彼女は現在の状況について次のように聞いた。
風使いのチームにはもう3名いて、彼らも悪魔の足止めのために負傷していたが、無事であること。
ほかにも悪魔や悪い魔法使いが入り込んでいたが、それらは悪魔祓いや高等魔法に長けた魔法使いにより撃退されたこと。
悪魔に魅入られて去ってしまった学生がいること。
そして最後の悪魔をマリが支配下に置いたため、状況はいったん収束したこと。
悪魔の召喚は研究目的以外では厳禁、契約も許可が無ければ違反となるため、彼女は処罰されると思われること。
そういった事情を聞きながら、マリは悪魔と戦っていた風使いや、シャンファら数名の学生のことも尋ねた。
風使いは怪我はしているものの命に別状は無く、シャンファらは怪我もないとのことだった。
しかし今回の件はそれぞれに暗い影を落としている様子だった。
* * *
悪魔はマリの少し後ろをゆっくりと歩いている。
時々悪魔祓いが恐る恐る振り返るのを睨めつけながら、疼くらしい額に手をやる。指に触れる髪からは水が滴り、濡れたコートが重そうだ。
マリもまたずぶ濡れのままだった。軽くスカートを絞ったくらいで、衣服は身体にへばりついているし、肩くらいまでになった髪も首筋や額に纏わりついている。靴は見つからず、裸足のままだ。
彼女は酷く疲れていた。
魔法を沢山使ったし、魔人の魔法は人間にはかなり負荷の大きいものだ。走ったり泳いだりで身体にも負担がかかっている。
そして何より、海の深い暗いところで感じた諦めの感情と、悪魔を支配した征服感とが、彼女の心のなかで静かな絶望とおおきな興奮との渦になっていた。
草原を通り抜ける長い道のりはのどかで、小鳥の囀りやそよ風に葉が擦れる音が聞こえ、空は晴れて高く、カラフルな蝶や鉢が蜜を求めて咲き乱れる花の周りを飛び交っている。
それでも悪魔の踏みしめた地面だけは黒く焦げ付いてしまうのだった。
暫くして彼女らは学校の近くまで来た。
寄宿舎の入り口よりずっと手前に、教官たちと、悪魔祓いや上級の魔法使いたちが並んでいる。
入り口の辺りにはマリの同級生たちが人だかりを作っており、その最前にシャンファが居た。
(――ポーラはどうしたんだろう。)
彼女はどうやらその人だかりにも居ない様子だった。
「おかえりなさい、マリ。」
「戻りました。」
教官の一人が声をかけた。マリの担任である熟練の魔法使いだ。
返事を返しながら、彼女は教官のこわばった表情に心の中でため息をついていた。