第87話 騒がしい夜
[廊下で立ち話もなんですから、中に入ってもよろしいかしら]
少し発音に違和感があるが、疑いようのないイダフ語だ。
「ああ、構わない」
俺は日本語のままだった。とっさにイダフ語が出てこなかった。
俺と蒼はリビングで向かい合って座る。
今まで日本人でイダフ語を使えたのは、魔族覚醒した日本人だけだ。つまり、蒼もその可能性が高い。
「やっぱり、日本語で話してよろしいかしら?」
「うん、それがいい」
正体不明の日本人にイダフ語を使われるのは不愉快だ。
「種っていうんですよね、これ。こんなの頭にいれて平気やなんて、イダフ人は特別なんやね。言葉がわかるのは便利やけど、ちょっと頭重いわあ」
種のことまで知っていた。しかも、それを使っているとなると。どこで手に入れたかだ。
――力づくで吐かせるか
「いったい、君は誰だ」
「また、おんなじ質問。言うてもいいけど、信じないから嫌や。あんた、日本のマスコミみたいに欲しい答えしか信じないタイプやろ」
「日本人なんかと一緒にするな」
つい、口が滑ってしまった。
「それが本音ですかあ、やな奴」
「そうだ本音だ。俺はこんな後退世界など嫌でたまらないんだ」
こうなれば、こいつにどう思われても構うものか、好きなだけ毒を吐いてやる。
「そんなに帰りたいのなら、お励みなさいな」
「ママナーナも同じようなことを言っていたが、そんなのは無理筋というものだ」
「無理ではありません。いや、無理ではありませんでした」
蒼の態度は自信に満ちていた。
「君は誰だ?」
「また、おんなじ質問、まあいいけど」
蒼はうんざりした様子だ。
「妾はその質問には答えられませんけど、明日、病院で続きはお話しましょ」
「病院?」
「そろそろ、呼ばれる頃やし、ほな明日」
そういうと蒼は忽然と消えた。濃霧の魔法ではない。
玄関に行くと、蒼の靴も消えていた。
明日、病院で?
エンジェルスタッフのいる病院のことが頭に浮かんだ。
そこに行け、ということか。確かに見舞いに行ってもいい頃合いだ。
寝室で物音がする。
――誰だ?
ドアを開けたら呆けた様子で、七条だなえがベッドに座っていた。
Tシャツを胸元に当てている。
そういえば、そうだった。
だなえは俺の目の前で大して隠す様子もなくTシャツを着た。
「何があったか覚えてる?」
「ははっ、なんとなく」
彼女は力なく笑った。
「何をしたか覚えてる?」
だなえは頭を掻いた。
「なんとなく覚えています。あの後、五十川さんとわたしってどうかなりました?」
「そういう関係にはなってない。見て揉んで吸ったくらいだ」
「えっ」
Tシャツの上から胸を隠すようにかばうと、険しい視線を俺に向ける。
おいおい、どうかなったかって聞いたくせに何か反応が違うんじゃないか?
「いきなり、やって来て殴って押し倒したのは、そっちだろう」
俺も反論はしておく。
「帰ります。お邪魔しました」
それだけ言うと、だなえは憮然として帰っていった。
隣室・704号室の扉から虚ろな開閉音が響いた。
ようやく騒がしい夜が終わった。
そう思って横になろうとしたら、再び呼び鈴が鳴った。
だなえがなんか忘れ物でもしたかと思いながら、ドアを開けた。
「夜分、すみません。ちょっといいですか?」
一美が申し訳なさそうに立っていた。
ラスボスだ。
俺は少し迷ったが一美を部屋に上げた。食事を作るときには普通に部屋に出入りしているのだ、時間が遅いからと断る理由はない。
「どうしたの?」
「あ、あの、ちょっと台所片付けで気になったので」
頬に赤みが差している。
「さっき見たけど、特におかしなところはなかったよ」
「あっ、あと冷蔵庫の中とか食材どうだったかな、と思って」
そういって、一美はキッチンに向かった。俺は台所を一美にまかせ、ソファに座ってテレビをつけた。さっき、蒼がみていた特別番組が終わろうとしていた。
多分、ここに来た理由はだなえと同じだろう。
媚薬の影響にちがいない。
どうするべきか、俺は一美のことは好きだ。
ママナーナや美歩ともいろいろあったが、やはり、一美は特別である。
将来的にどうなるかは別として、俺は一美には誠実でなくてはいけない。
だからこそ、今はピンチなのだ。
まだまだ、夜は騒がしい。




