第34話 マンション奥欧
日本には短い雨季がある。名前を梅雨という。
どうして雨季に梅という文字をあてるのか、多分、日本人が桜や梅、松、竹とかが大好きだからだろう。俺は窓の外に振る雨を見ながら、そんなことを考えていた。
俺はマンション奥欧というところに引っ越しをした。
マンション奥欧は古い建物を全面改修したものだ。俺は意匠のことはわからないが、洒脱な建物だと思う。
五十川先輩がもっといい所に住めると喜んでいたのもよくわかる。
あのあと、俺は仕事を辞めさせてもらった。井田会長も俺が辞めることは折り込み済だったようだ。
五十川先輩とは友達だったわけではない。あくまで職場の先輩と後輩の関係だ。付き合いもそれほど深くはなかった。
それなら、なぜ、俺はこんなに沈んだ気持ちになっているんだろう。
リダリ隊に異動するまでは、仲間の死はめずらしいことでもなかった。それに、皆死ぬことは覚悟の上で軍に入隊したのだ。悼む気持ちはあっても、それをいつまでも引きずることはなかった。
戦や病以外で人が死ぬことなど、イダフではありえない出来事だ。
イダフでも事故は起こるものだし、死傷者も出るのだが、それは、大抵、はじめての事例といえる事故でのことだ。
イダフでは事故は決して再発しない。それが当たり前のことだった。
似たような事故で人が死ぬ。そんな馬鹿なことが日本では何度も起こる。リダリ隊長が興した会社ですら事故が起こった。
もし、前日に俺がコンテナ#5650を軽々と受け止めていなかったら、死ななかったかもしれない。
そうはいっても、もう余命がなかったのだから、別の理由で死んでいたかもしれない。
色々な意味でも、俺があそこで仕事を続けるのは無理だった。
その一方で、俺は五十川 護に成りすます準備を進めている。
彼の死を利用していることに罪悪感はある。それでも必要不可欠なものは手に入れなくてはならない。
先週は原付免許を取得した。
もちろん試験を受けた上での結果だ。二度目での合格なので、あまり誇れるものではないが、日本社会で初めて何かを成し遂げた気がした。ささやかな勲章だ。
日本の交通標識は、イダフに似ているものもあれば、何でこれがそういう意味になるのかと、首をかしげるものもあった。
日本では人と自動車が同じ道を走り、毎日事故を起こしているらしい。イダフ城門内では考えられない低水準な交通事情によるものだろう。
俺の日本評はともかく、顔写真付きの身分証明書を手に入れた。これで日本における行動が楽になる。コンビニエンスストアでメンバーズカードを作ることも可能になった。
井田会長(リダリ隊長)が、これから俺に何をさせたいのかはわからない。しかし、こうやって働きもせず、日本では中の上に入るような家にただで住んでいるのだ。
そのうち、何かしなくてはならないだろう。
今まで住んでいた倉庫は秘密基地扱いになる。俺はあそこに住み続けても構わなかったが、あの倉庫にはイダフの技術を使っているものが多すぎる。
あまり、あそこに人が出入りするのはよろしくないだろう。魔族たちもやって来たし。
不意に携帯電話がなった。
「もしもし、近村です」
「あ、はい、おつかれさまです、五十川です」
五十川を名乗るのにも少し慣れた。
「何か変わったことはありますか?」
「いえ、特にありません」
「そうですか、ポストは見ておいてね」
「はい」
俺がここに入居してから、週に一度は1階にある郵便受けを見るように言われていた。
最近の連絡は近村氏から来るようになった。最近。井田会長は体調が思わしくなく、出社も週に1度くらいだという。そのため、俺の面倒は近村氏が見るのだそうだ。
近村氏が今の社長であり、井田会長と長い付き合いであることは知っている。
しかし、どれだけイダフの事情を知っているのか、どこまで喋っていいのかわからない。近村氏は俺のドロガを見せてもいるが、俺たちの細かい事情をどこまで教えていいのか、俺は井田会長と話し合ってはいない。とにかく注意が必要だ。
郵便受けには、週に1度1枚の紙が入っていた。それには、一週間分の暦が印刷されており、それには、曜日ごとに、3桁の数字が手書きで書かれていた。
日本の暦もイダフと同じく一週間は7日だ。曜日の名前は異なるが7日だ。一年の長さも365日だ。
但し、月毎の日数はイダフと日本は微妙に異なっている。
今週入っていた紙には、
日曜から火曜には302、
水曜には701、
木曜は505、
金曜にはまた701、
土曜は505
と書かれていた。
大抵、1つの曜日に書かれているのは1つの数字だが、同じ日に数字が二つ書かれていることもあれば、数字が書かれていない日もあった。
そんな紙のことはどうでもいい。
少し深刻になりつつある問題があった。
――貨幣、金だ。
俺は最初に井田会長からもらった金と倉庫で働いていたときの金があったが、それが四分の一にまで減っていた。
入居から一ヶ月ほど経ったが、食料供給器を持ってこられなかったことが、俺にとって苦しいこととなった。
食費がかかるのである。
俺に言わせると、日本の食物はどれもこれも薄い。
油や塩分、炭水化物は無駄に多いが、魔法に必要な栄養素・カロインが少なすぎる。
もし、イダフ人が日本人と同じ食事をしたら、一週間で魔法が使えなくなるだろう。
食料供給器による携帯食一本に含まれるカロインを、日本人の食事で摂取してみたら、一回の食事に一万六千円かかった。
まだ日本の物価や相場に疎いが、おそらく高いのだろう。
仕方ないので前の家に戻って、食料供給機を動かし携帯食を持って帰った。これを2週間に1回はやらなくてはならない。
一度、井田会長と電話で話す機会があったので、カロイン不足をどうしているのか尋ねたら、日本人の普通の食事でも十分なカロインは摂取できるそうだ。
ここにも、そういう仕組みがあるので、使って欲しいという。
少し言葉があやしかった。寝起きだったのだろうか、それともそれほど体調が悪いのだろうか。一度お見舞いに行かなくてはならない。
食料供給機は、飛行艦ン・メノトリーの個人居住室に組み込まれている。食料供給機だけを持ってくるのは無理だった。
個人居住室も寝心地は悪くないが、やはり、本格的な寝具の方が心地いい。
それに、飛行艦ン・メノトリーの個人居住室をここに移動させるのは不可能なことだった。
どうやって飛行艦ン・メノトリーから、あそこに持って来れたのか、また聞かなくては。
俺は一階に降りて郵便受けをみる。また、例の暦が入っていた。
手に取って上がろうとすると、声がした。
「あの、七階に越してきた方ですか」
振り返ると一人の女性がいた。
戦闘力はほとんど無い、一般平民だ。
年齢は20代半ばだろう。
おそるおそる話しかけたという様子だ。俺を危険人物とでも思ったのだろうか。
「はい」
俺は愛想よく返事をした。俺の対応に、女性は安心した様子だった。
「私、505の三矢島です」
「705の五十川です、よろしく」
これが、三矢島 一美との初めての会話だった。




