第17話 日本で始めること
春先の暖かい日の午後、俺は井田会長の会長室を訪れていた。
「昨日はずい分楽しんだようですね」
井田会長は開口一番に言った。
「楽しんだ、というほどではないです」
「そうですか、昨日のハオ殿とはえらい違いだ、何があったんです?」
俺は昨晩のことを言うべきかどうか迷っていた。そこら辺の棒状鬼を片端から斬り捨てたと聞けば、幽霊系の魔物といえども、不要の殺生だ。リダリ隊長はいい顔をしないだろう。
「もしかして、ナニですか? さすがハオ殿、手が早い、まさか卒業したとか…」
リダリ隊長は、ナニの語調を強めて言った。
「まだ、マビルです」
――これは言いたくなかった。
井田会長は少し困った顔をした。そんな答えは要らないよというような顔だ。
「あれ、マビルって、イダフ語で言いましたか」
俺と会長は日本語で話しているが、マビルはイダフ語だ。
「日本語に当てはまる言葉が無ければ、自動翻訳もそのまま発音するしかありません。私は貴族の言葉には疎いので」
「ああ…」
リダリ隊長は平民の出である。普通なら平民中心の師団に入るところを、その能力を買われて、半ば無理やり、貴族中心の銀の羽衣師団に入らされたという。そこで隊長を務めていれば、貴族との軋轢もあっただろう。嫌なことを思い出させたかもしれない。
「日本語で一番近い概念は、童貞、ですかね」
――それは違う気がする
しかし、俺が日本語のことで井田会長と議論して勝てるわけもない。適当に相槌だけ返しておくしかなかった。
「俺は剣士なので、剣を振りました」
「ほっほう、さすが蓮華流の代王だ」
「さて、これからどうします?」
井田会長は小刻みに身体を揺らした。このソファは高いわりに尻の収まりが悪い、と文句を言っている。
「まだ、決めていません」
正直に答えるしかない。
「ほっほう、別に今後の話をしているわけではありません、とりあえずの話です」
「とりあえず…」
「ええそうです」
井田会長によると、次の3段階で行くのが良いという。
1.日本を体験する
2.その体験で日本を評価する
3.その評価で日本との関係を決める
「それを踏まえて、これからどうします?」
一通りの説明の後、改めて質問が飛んできた。
「日本で剣術は盛んですか」
俺は剣士だから、日本の剣術を体験しよう。
「日本には剣道というスポーツがありますが、真剣を使うことはありません。蓮華流剣は宝の持ち腐れになるでしょう。逆にストレスが溜まるでしょうな」
井田会長が消極的な表情で教えてくれた。
俺が日本を体験するのに剣術は向かないようだ。
「では、魔族とか魔物はいませんか」
魔族や魔物を狩ることで日本を体験するのはどうだろう。
「一時に増えた時期がありましたが、大体討ち果たしました」
「魔法はどうでしょう」
日本の魔法士と交流できれば、いろいろ楽しいかも知れない。
「日本に我々のいう魔法士はいません。だから、日本人に魔法が使えることを知られたら大変ですよ」
――否定されてばかりだ
俺は次の考えが浮かばなかった。考えてみれば、俺は貴族で剣士。他のことは知らないし、できないし、やったことがない。
「視点を変えましょう」
井田会長は、リダリ隊長の口調になっていた。
「まずは仕事をしてみませんか?」
「仕事…ですか」
「ええ、今、ウチの会社に欠員が一人出ています。ハオ殿にとってはつまらない仕事かも知れませんが、肩慣らしだと思ってやってみませんか」
「仕事って工場の、ですよね」
「ええ、ええ、そうですよ。そうです」
剣士以外の仕事など初めてだ。
「他の社員と接点が少ない部署で、つまらないかも知れませんが、今のハオ殿にはちょうどいいでしょう」
確かに多数の日本人の中に放り込まれるのは腰が引ける。
仕事の給料自体は安いが、その分、衣食住の生活面は補助するという。
それを考えると「はい」の返事しかなかった。
「それでは。こちらの準備もありますので、来月でいいですね」
「来月、というのは、西暦で、ですね」
「ええ、そうです」
「あと、ハオウガ=マイダフの名前で仕事をさせるわけにはいきません。次回、名前と設定を考えておきますが、ハオ殿も少しは考えておいてください」
今日の話はここまでだった。
出張があると言うので、次回に会うのは三日後になる。
そのときには、俺の日本名が決まる。
夕方、ビジネスホテルの部屋に戻ると、ダンボール箱が三箱届いていた。
中には衣類と本、文房具、パーソナルコンピューター、スマートフォンが入っていた。これで次に会うまでに、道具は使いこなせるようになっておけ、ということだろう。
俺は日本人の国にいる。否応無く日本人の世界に入る。
知っておくべきことは、知っておくべきだ。部屋にあるテレビの付けっぱなしにしておく、なんとなくでも、日本語を耳にしていれば、自動翻訳が言葉を覚えてくれるはずだ。
パーソナルコンピューターが制御体の前世紀版だと気づいてからは、扱いの要領がわかってきた。いちいち鍵盤で指示をしなくては何もできないというのには驚いたが、こういった割り切りもいるのかもしれない。
スマートフォンは時間がかかった、
言語選択に。
日本語が初期表示されていたが、何度もスクロールしてイダフ語を探した。
イダフ語はなかった。
その代わりに日本語を選択して、俺はスマートフォンの設定を続けた。