第15話 消えた王国と消えた恋人
――なんで、イダフ語で話してはだめなんだ
俺は自動翻訳を起動させたものの、イダフ語で話すことを止められた理由がわからなかった。
井田会長(リダリ隊長)と俺は自動車の後部座席に座る。
運転手は80歳の井田会長と16歳の俺の関係を探るような素振りを見せたが、運転に集中して下さいね、という会長の一言で気にするのをやめたようだ。
「ほっほう、ところで辞書を同期してよいですかな」
リダリ隊長がそういいながら、俺のこめかみに手を伸ばした。
「辞書?」
「はい、ここ8年で日本語の言葉も増えましたし、ねっ」
井田会長は右手の薬指を俺のこめかみにあてた。乾いた固い指が強めに押しつけられる。
途端に何かが入り込んできた。俺の頭の中の種と、井田会長の頭の中の種が、日本語の情報を交換しているのが感覚的にわかる。井田会長は面白がって、指をグリグリと押し付け続けたが、それも1分とかからなかった。
終わると井田会長はあっさりと指を離した。
「これでだいぶ、日本語も一段とうまくなりますよ」
うまくなった気はしなかったが、リダリ隊長がいうのなら信じよう。
井田会長に連れてこられたのは日本料理店だった。
うやうやしく店員が出迎え、井田会長と俺は個室に案内された。俺は井田会長の後を歩いているが、会長の足取りはやや危なっかしい。そのうち介助無しでは歩けなくなるだろう。
「雅を2つ」
井田会長は座ると、すぐに注文を言った。
「はい、雅をお二つと、お飲み物はどうされますか」
「ビールとコーラを1つずつ」
店員がわかりましたと下がると話が始まった。個室でも井田会長は日本語だった。
「ハオ殿、この日本では20歳過ぎないと、アルコールはだめなんです」
「飲酒が法律で禁止されているのですね」
辞書を更新したせいか、アルコールが酒だと反射的に理解していた。
「はい、私だけ飲んで申し訳ありませんが」
ほっほう、と井田会長は笑った。
店員が入ってきて先付を出した。
「ところで井田会長、日本では何をしているんですか」
先付のおこわを口にしながら、俺は尋ねた。
「会社を経営していました。さっきの工場がそうです。機械部品を作っております」
俺は過去形の言い回しに気が留った。
「していました、とは」
「経営は近村――最初にハオ殿を連れてきた男ですが、近村が今は社長をやってます。彼は切れる男でしてね、同じものでも倍の金額で売る才能があるんです。うちの会社もずい分業績がアップしました」
ほっほう、と井田会長は笑うと、ビールをうまそうに飲んだ。
俺は気になっている質問をぶつけてみた。
「ところで、今、イダフ王国はどうなっているんですか」
井田会長の笑みが消え、顔が変わった。リダリ隊長の顔だ。
「聞きたいのかね」
「聞くと問題でもありますか」
俺は聞き返す。
「うすうす気づいていると思うが、いいのかね」
リダリ隊長の念押しに俺は頷いた。
「イダフ王国はもう存在しない」
予想していた答え――できれば、聞きたくなかった答えだった。
リダリ隊長が目覚めたとき、ン・メノトリーは京都の地中に埋まっていた。艦内の工作機器を使って、まるまる1年かけて階段を作り地上に出たら、そこは異世界、日本だった。
世界がすっかり変わったとリダリ隊長が理解するのに時間はかからなかった。世界地図も大きく変わっており、イダフ大陸自体が無くなっていた。最初は信じられなくて、ン・メノトリーの探索機を地球の衛星軌道に打ち上げて、地球を調べてみたが、今の地図が正しいことを確認できただけだった。
それでもどこかに末裔が生き残っていないかと、これはと思う国に足を運んだが、イダフ語を使う国は存在しておらず、イダフ王国は存在していないと結論付けるまでに、3年を要した。
「それでイダフを捜すのはあきらめたんですか」
「ああ、無いものは無いからな」
リダリは続けて言った。
「この世界はイダフより遅れている。例えば、我々の脳に着床する種、こういう植物機械について、この世界にはその概念すらない。とにかく、鉄と電気、石油に依存しきった世界だ。前イダフ暦の世界に近い」
リダリはビールを飲み干した。ふぅとため息をつくと、井田会長の顔に戻った。
「9000年の間に世界は一度滅びたのでしょう、そして、ゼロから世界が再度構築されたと考えています。私たちから見れば、後退した世界ですがね」
「でも、隊長は全世界をくまなく探したわけではないでしょう」
俺はリダリが全世界を完全に調べきったわけではないことを指摘した。
ほっほう、とリダリはいなすように笑った。
おもわず隊長をにらみつけた。
「失礼、昔、ママナーナ嬢が同じことをいったので」
――ママナーナ!
重力光線銃を抱えた長い髪の美人が脳裏に浮かんだ。
「マっ、ママナーナも目覚めたんですか」
リダリは知らなかったのかい、という表情を向け、お造りの中トロを口に運んだ。俺も真似して食べてみる。
「ええ、目覚めましたよ、私が目覚めてから3年後です。私はン・メノトリーに戻っていたので、今と同じような話をしました」
「今、ママナーナはどこに」
「最近会ってないんです。氷柱に戻ってはいませんでしたか」
「いえ、空でした」
「つまり、氷柱にいるのはハコネ嬢だけということですね、様子はどうでした?」
リダリは浮かない顔をした。
「中は見てませんが、出している魔法の感じがハコネでした」
ハコネのことはいい、俺はママナーナのことが知りたいのだ。
「それで、ママナーナはどこにいるんですか」
「……ママナーナ、ママナーナとしつこいですね、君は」
俺は苛立ったが、隊長の指摘ももっともだ。
気まずい空気になった。
しばらく無言で中トロを口に運ぶ、うまい。ほっほう、とリダリは笑った。
「仕方ない、ハオ殿にとっては一昨日のことですからね。ママナーナ嬢は東京に住んでいます」
――東京
明日行ってみよう。
「明日は急ですね、ママナーナ嬢とはたまに連絡を取りますが、ここしばらく疎遠なんです」
隊長と疎遠というのが、どういう意味かわからなかったが、まあいい、
「できれば話したいので、連絡つきませんか」
「携帯番号は知らないんです。家の電話はわかるので明日連絡します」
すぐに話したいのに、出し惜しみする。隊長はこういうところがあった。
「ハオ殿、どうせわかることなので今のうちに言っておきます」
リダリが少し固い表情を作る。連絡先を教えてくれるなら、空で覚えてみせましょう。
「ママナーナ嬢は日本人男性と結婚して、二人の娘がいます」
――ママナーナが他の男と結婚した
イダフ王国が存在しないことよりも強い衝撃を俺は受けていた。