第13話 最初の目的地
「いくら希望に満ちていようとも、
進まなければ、目的地は遠い。
たとえ絶望の海に心が沈むとも、
歩き続けよ、
さすれば、いつか目的地にたどり着く」
―― 探検家グラング=ヤマイダフ『探検序説』より
道路の表記案内によれば、そろそろ京都府と大阪府の境界に差し掛かる。大阪に入れば、この状況が好転することを期待したい。
ここまでを振り返る。金を持たず、飲み水に困り、寝れば悪意を向けられる。
今の俺は魔物だ。しかも雑魚。
雑魚といえば、夜に現れる棒状鬼という幽霊系の魔物がいるが、少しだけそいつらの気持ちがわかった気がする。
実害こそない。しかし、ことある度に逃げてばかりだ。小さい頃に読んだ本の一節を思い出し、何とか心を保つ。その程度には、鬱憤が溜まっているのだろう。
しかし、仮にも俺は蓮華流剣の代王だ。戦闘力の無い民間人相手に、愛剣ドロガを振るうわけにもいかない。
さて、土地の境界には争いがついて回るものだ。
イダフでも、隣接する領主たちの間で、領土を巡る小競り合いはよく起こっていると、先輩の代王に聞いたことがある。表沙汰にはならないものの、裏で小規模な戦闘は発生しており、結構深刻な問題なのだそうだ。
領主――日本では知事というそうだが、京都府知事と大阪府知事の間でも、同じような小競り合いは起こしているだろう。まして、ここは女神イダフの威光が届かない土地だ。大規模な軍事衝突があってもおかしくない。
基本、そういう場所を通過するときには、誤って戦闘に巻き込まれないように行動する。
繰り返しになるがそれが基本行動だ。
しかし、俺はむしろ戦闘に巻き込まれたい気持ちになっていた。いざというとき、今まで俺は剣でなんとかしてきた。今のなんともならない状況も、ドロガを振るうことで、薙ぎ払える予感がしていた。
ここまでは日本国兵も京都府兵も見なかったが、国境ともなれば話は別だろう。
大阪府兵と京都府兵が境界線を挟んで、にらみ合いを続けている。日本は、そんな状況が当たり前の世界かもしれない。そうであれば、リダリ隊長も俺に渡す種にいちいち当たり前のことを記録していないだろう。
――そうだそうだ、記録には無いのだから、それを知らなかった俺が戦っちゃったとしても仕方ないんだ。
俺は懐に手を入れ、剣の感触を確かめた。にやけた表情をしたかも知れない。
いきなり弾丸が飛んできてもいいように、心の準備をすると、境界線を期待しながら歩いた。
少なくとも関所はあるはずだ。俺は足取りを変えることなく進む。しかし、兵士の気配はない。
――気配をここまで隠せるなら強敵かも知れない
そう思うと少し緊張が走る。不意打ちを避けるため、少し早足で歩いた。
――あれっ
気づいたら大阪府に入っていた。道路の表記や商店の看板は誤解の余地のないくらい、俺が大阪にいることを告げていた。
結局、境界線を巡る争いはもとより、関所も城壁もなかった。魔族の類もいないのだから、ずいぶんと能天気な土地だ。
魔物についてはいるにはいるようだ。
昨晩、寝る直前に棒状鬼らしい姿を見たが、俺と目が合うやいなや、あわてて逃げた。俺もそのまま眠ったくらいだから、どうってことはない存在なのだろう。
それよりは、朝、公園にいた子連れの女達の方がずっと魔物に近かった。強さはないが、向けてくる敵意には毒針に刺されるような感じがした。
もしも、イダフで複数の人間があんなむき出しの敵意を人に向ければ、魔法裁判になってもおかしくない。この国には敵意による傷害を取り締まる法律はないらしい。この国の人間が魔法を持たないからだろう。
そんな辺境の国であればこそ、魔物や魔族もおらず、城壁もいらない。
――こういう生活もいいかもな
大阪に入ったので、改めて地図の種を広げる。目の中に地図が広がる。一旦立ち止まり、リダリ隊長が示した目的地を確認する。
目的地は、大阪府大阪市旭区XXX町にある集合住宅の一室。そこに住むチカムラという人物を尋ね、名前を名乗れば、チカムラなる人物がリダリ隊長のところまで案内してくれる手筈だ。そう種に記録されている。
俺はそこから更に4時間歩いた。
大阪に入っても、道中、金の無い不便と時折人が向けてくる微かな敵意と関心は、前日とあまり変わらなかった。その都度心は挫けたが、耐性がついたのか気持ちの立ち直りも早く、足が止まることは無かった。
大阪は京都よりも工業的には発展しているようだ。一方、京都よりは雑多な印象を受けたが、人が向けてくる微かな敵意と関心の比率は少し違った。
敵意が減った分、関心が増えた感じだ。辺境の地といえども、やはり地域によって違いはあるものだ。
大阪市に入ると、違いは更に明確になった。
関心が増え、敵意は更に減った。
京都も大阪も、日本人から見た外国人の比率が多いようだ。俺みたいな外国人、つまり、イダフ人もある程度の数は住んでいそうだ。
大阪は貴族が住むにはどうかという土地柄だが、リダリ隊長も平民の出だ。大阪の水が合うのだろう。
――うん、イダフ人は辺境の地にも勢力を広げているようだ
そうこう考えながら歩くうちに、大阪市旭区XXX町にある集合住宅に着いた。10階建てくらいのビルが3棟、四角形の一辺を取り除いた形に配置されていた。
俺は最初の目的地に着いた。
日数にすれば、わずか二日間の行程だが、寝ている時間以外は全て歩いていたので、さすがに歩き疲れていた。靴が歩きやすいものであれば、もう少しは楽だっただろう。
俺は昇降機に乗ると最上階の釦を押した。
この建物は建ててから数十年は経過しているようだ。さぞかし価値のある物件なのだろう。
昇降機を下りると、遠近法で描かれた絵画のように、一直線の廊下が消失点に向かって伸びていた。そして、同じ形のドアが均等な間隔で並んでいる。他者の侵入や暗殺を防ぐ措置だろう、初見ではどの部屋に標的がいるのか、わかりにくい構造になっている。
それでも俺は通り過ぎてしまうことなく、チカムラ氏の部屋の前に来た。
念のため懐にある剣の感触を確かめながら、空いた手で扉の近くに取り付けてある黒い箱の呼び鈴を押した。
やはり、電子音が鳴った。
しばらくすると、黒い箱から男の声がした。
「どちらさん?」
「ハオ…ハオウガ=マイダフ」
俺がそう名乗ると、黒い箱から聞こえていた音声が切れた。
扉の向こうで人が動く気配がして、扉が開いた。