第102話 紅の夜
「紹介するね、ハオウガさん。この子は紅、私と同じ、時の魔法士の側用人です」
蒼は何か特別な人物を紹介するように言った。
――側用人
大魔法士や大魔導と呼ばれる高いクラスの魔法士の支援をする魔法士のことだ。事実上は弟子のようなものだから、弟子と呼べば良い気がする。しかし、魔法士の世界では魔法の持つ理の前において、全ての魔法士は平等であるという考え方から、側用人と呼ぶ。
ちなみに以前戦った魔族・伝文のダプァも側用人を名乗った。
背景こと今も封じの氷柱で眠るハコネ=ヤマイダフも側用人を務めたが一ヶ月で辞めたと聞いた。あるじを魔法の技量で抜き去ったからだという。
「ハオウガ=マイダフです、よろしく」
「紅です」
軽く頭を下げた。
名前が先か、見た目が先なのか、髪を部分的に赤く染めていた。日本語ではメッシュという。ふくらみのある唇も赤い。蒼と同様、偽名だろう。
「で、今夜は何の用事で? もう媚薬を盛られるのは御免ですよ」
相変わらず蒼の真意はわからない。ただかき回すのが目的にも見える。
「魔皇帝アカムスと戦ったとき、三矢島さんが巻き添えになって、あんたが滅茶苦茶落ち込んではると聞いたから様子を見に来た。あんた、三矢島さんと超仲良かったし」
「そうか、気を遣わせて悪いな、でも大丈夫」
一美のことを聞かれて涙が出そうになったが、泣かないように気を張る。
「それより、二人とも時の魔法士の側用人というなら、時の魔法士の側にいなくていいのか?」
かろうじて涙を堪えている(つもりだ)が、彼女たちにはどう見えただろうか。
「ハオウガどのの、そばにいるために来た」
紅が赤い唇を開いた。
「よくわからないな」
「えっと、紅は言葉足らずやから」
蒼の説明によると、時の魔法士が実際に時を超えて移動する際、側用人が予め移動先の時代で「場」を準備していると、時間移動魔法を使用したときの魔力消費が少なくて済むのだそうだ。そこで移動先の時代に側用人が派遣され、時の魔法士が移動するための「場」を作るということだ。
突っ込みどころは多々あるが、要点を絞って質問する。
「それじゃあ、君はどこの時代の誰なんだ?」
「名前で検索されても困るから、本名は言えないけど、母親は日本人とイダフ人のハーフよ、私はイダフ人のクォーターというわけ」
「ということは、君の祖父はイダフ人だというのか?」
「ま、そういうこと、時代は教えられないけど、おいおい話すから。とにかく、紅がここにいることは、代表さんには了解を貰っているから大丈夫、じゃあ私は帰るね」
そういって立ち上がると、蒼は二、三歩歩いてから消えた。
玄関にあるはずの蒼の靴も消えている。
前と同じだ。
後には、俺と紅が残された。
紅はただ座っている。
「それで、紅さん、君はこの家でどうするんだ?」
「明日から、場を作る」
「場?」
「場があれは、時の魔法士さまが降りやすい」
うん、さっき聞いた。
「まあ、熱海代表から許可をもらっているなら、その場とやらを作ればいい。できることがあるなら俺も協力してもいい」
「ありがと、明日頼む」
さらに何か言いたげだが、口籠っている。
「どうした、トイレなら廊下を出て右だ」
「そうじゃない、エネルギー要る、お腹すいた」
「そういえば、夕食の途中だった。一緒に食べるかい?」
「ありがと」
紅はよく食べた。小柄な体格だが俺の倍は軽く食べた。俺も一日分を一食で取るので食べる量は多いと思うが、それ以上だった。久しぶりに誰かと二人きりで取る食事だが、あまり感慨じみたものは起こらなかった。
食べ終わると、そのまま食器を片付け始め、食器洗いまでやっていた。食後のひと時というものが無かった。
「寝る」
紅が言った。
「わかった、ゲストルームが2つ空いているから好きな方を使うといい」
「否、一緒に寝る」
「へ」
俺は間抜けな声を出していた。
「ここの料理だけではカロインが足りない。だから、一緒に寝る」
よくわからない理屈だが、好きにすればいい。ただ俺は条件をつけた。
「いびきや寝相が悪かったりしたら、出ていってもらうが、それでいいか?」
「うん、それでいい」
俺は紅に性的な魅力を全く感じていなかった。俺はベッドに入ってすぐに寝た。
微睡みの中、意識が半分残る状態のとき、誰かがこのベッドに入ってきた。リンスと石鹸の匂いがする。
多分、紅だ。
殺気や害意は感じない。それなら好きにさせておけばいいか。すると、大の字で寝る俺の左腕を枕にして、身体を寄せてきた。
体温が少し高めだ。この季節の寝間着にしては薄い、Tシャツとショーツぐらいしか着ていないようだ。
いくら性的魅力を感じていないとはいえ、薄着の女にベッドの中でこれだけ密着されれば、起こるべきことが起こるはずだが、そんなことは起こらない。蒼のときもそうだったが、俺は今日会ったばかりの女と事に至るほど無節操ではない。
俺からカロインをどうやって吸い取るのか、方法は知らない。日本の妖怪には枕を交わすと精力を吸い取る種類のもいるらしいが、そもそも枕を交わすこと自体がない。
傍らにいる紅の体温を感じると、ふと、一美のことを思い出した。
――もう、一美はいないのだ
液体が頬をつたって流れた。俺は多分今泣いているのだろう。
――泣いているのを見て引いているな
紅が俺の腕枕を外した。出て行くのだろうと思ったら、逆に軽くおおいかぶさるように紅はそっと俺を抱きしめた。浅く慎ましい抱擁だった。あまり、泣き顔を見せたくはない。俺は彼女に背中を向ける。
紅の体温で背中が温かくなる。
少し気が緩んだ。
その途端、紅は俺の寝間着のボタンに手をかけた。巧みにボタンを外していくが、袖を抜くことまではできなかった。
俺は寝たい。紅が何をしたいか知らないが、協力する動きは一切しないしたくない。
それでも首や胸がはだけて直接空気に触れた。すると、紅は俺の左の胸元に舌を這わせてきた。それでも何も感じない。ただ、くすぐったいだけだ。
紅の舌の動きは何かを探るように首元に上がってきた。この舌の軌道に覚えがあったが、何なのかは思い出せない。すると、首元で舌の動きが止まった。その場で舌が小さな円を描いていた。
この軌道は心臓から頸動脈にかかる血管と同じ、と気づいた瞬間、紅は俺の首元に噛み付いた。
その途端、針が刺さる感触に続いて、血管に何かが注ぎこまれた。毒蛇のようだった。彼女は俺の首筋に噛みつきながら鼻で呼吸をしていた。
やがて身体中に痺れがきて、俺は動けなくなった。
彼女はゆっくりと身体を離すと、俺の顔を覗き込んだ。毒の効きを確認しているようだ。俺は舌まで痺れていた。魔法も詠唱できない。俺は手も足も出なかった。
彼女が俺をどうするのか、されるがまま、されるしかなかった。彼女は再び俺の首筋に舌を這わせると、再び首筋により深く噛み付いた。
血を吸われている感覚だけがあった。
急激に血液が失われ、意識が遠のいた。