昔のジブン
私…いや、"俺"がまだ幼かった頃から母さんは仕事ばかりで、家に帰ってきたと思ってもすぐに別の仕事へと出かけていってしまっていた。
それでも昔の"俺"は一瞬でも母さんと会えるのが楽しみだった。
母さんが帰るその時までずっとワクワクしながら待っていたものだ。
いざ母さんが帰ってくると、それまで話したかった事や見せたかったものなどが溢れていたのに、
そのどれも伝える事は出来なかった。
ただただ、"少しでも一緒に居たい"という思いが強く、母さんが帰るなり足元に抱きついて、支度に忙しい母さんを困らせた。
いつも"もっと一緒に居たい、もっと話したい"って伝えようとしても、母の一方的な会話で終わる日々。
『それじゃぁお留守番よろしくね。ちゃんとお風呂入って歯磨きしてから寝るのよ。火と電気を消すのだけは絶対忘れないでね!』
「え…うん。」
母の背中を悲しい視線が追う…
唯一愛を求められる存在だったのが母さんだった。
そして、何故かあの頃の"ジブン"が、天堂さんと重なって見えた。
気がつくと私は部屋の中に戻っていた。
胸に温かい感触がある。
あぁ…戻って来てくれたんだ…
何故か自分が安心している。
これは自分のエゴかも知れない。
だけど今はこうしていたい。
幼い頃の自分が手に入れられなかったモノを手に入れられそうな気がする…
気がつくと胸の中の天堂さんが声を出して泣きじゃくっていた。
天堂さんは"ただ愛されたい"だけだったんだ。
林間学校での出来事は決して許せることではないけれど、たった1つの愛を奪われそうになって、必死だったんだね…
本人に聞いたわけではないが確信した。
今日ここに来て良かったな。
私は心からそう思えた。
それからどうなったかというと、
天堂さんが急に私から離れて、恥ずかしそうにお礼を言ってきた。
そして"今日は大丈夫だから"と一言いうと私を玄関まで見送ってくれたのだった。
すっかり暗くなった空には雲の隙間に月がぼんやりと浮かび上がっている。
まだ少し肌寒い風が、私の鼻へと湿った春の香りをふっと届けた。