3 双晶の見る方角
あの双子達は、不親切にもいきなり止まっていた時間を動かしたらしい。
目の前には僕をかみ砕こうとする牙。多分横にも同じものがある。その後ろにも僕を待ち受けていて、隙も何も無い。
まさに絶体絶命で、双子達が僕に与えた力も無駄に終わると確信できるくらいだった。
あー、結局僕は他の人と同じく何かの餌になって、誰かの槍になるんだなあ、なんてぼんやりと思ってしまう。
けど、僕の目はなぜか自然とその下の、わずかな隙間に吸い込まれた。
恐怖に全身が強張っているのに、ここならいける、と確信できた。
確信できたから、そこに身を投じる。
ギリギリだった。何かに肩をひっかけた。けど、何とかすり抜けた。やっぱりここは安全だったんだ。
立ち位置が入れ替わって、今度は僕が川側を背負い、まだズキズキとする目で化け物たちを見ると……。
「ベクター種の豚? それに月長種?」
何だか僕の世界は一変していた。
奇妙な文字が目に映る。その上、傷病の有無や身体能力の高さなども空中に浮かんでいる。
右を見ても左を見ても新しい文字が浮かんで、意味不明な単語が空中に踊っていた。
「でも、考える暇がない!」
後ろから文字と化け物が追ってきて、だけど切り抜ける目途が立たない。
このまま川に飛び込むのは駄目だ。まだ腕からだらだら血が溢れてる。せめて傷を縛らないと。
何かないか、と視線だけ動かすと今度は木に巻き付く丈夫そうな蔓に目が釘付けになる。
いや、丈夫そうじゃない。目に映る情報ではそれは間違いなく頑丈だった。
これしかなかった。一先ずこの情報を信じるしかなかった。
蔓をむんずと掴んで思い切り引きちぎって、そのまま川に身を投げ出してやる。
川は目の情報通りだった。僕の身投げをすっかり受け止めるくらい深く、豚共が直ぐに遠ざかるほど早い。
右も左も分からないその流れの中で、腕の傷口を蔓で縛り上げてみる。
片手でこの固い蔓を縛るのは至難の業だけど、そんな泣き言を言っている暇はない。
僕の視界は、血が勢いよく流れてみるみる死へと近づく自分の体を見通している。
やっぱり川に入るんじゃなかった、と今更後悔するくらい血の流出が早い。
「くそっ! くそっ! ~っ!」
それでも口と手を使って思い切り締め上げると、何とか出血は少なくなってくる。
しかもこの蔓は水を吸って膨張するらしいから、止血は間違いなく出来ただろう。
「……あとは、溺れないだけか」
こんな処置でよく死なないなあ、と思ったがそれは無視しよう。
今は、片手でこの急流をやり過ごし、陸地にたどり着くことを考えないと。
そこからの記憶は、疎らだ。多分、血を失い過ぎて脳が非常事態宣言を出したんだろう。
それでもうっすらと記憶にあるのは、近くの小さな洞窟に身を埋めたことだけ。まるで現実感を伴わない逃避行だった。
それでも目を開ければ、僕がまだ生きていることを鮮明に、痛いほど理解させられる。
亡くなった腕が生えてくるはずないのに、左手が何かを訴えかけていた。
「幻肢痛?」
身じろぎもできないほど小さな洞の薄暗がりで見る傷口には、色々と恐ろしい文字が並んでいる。
感染、化膿、幻肢痛。この文字達が正しいなら、このままいくとどうなるか想像に難くない。
僕は小さな傷から足全体が腐り果てて死んだ死体を見たことがある。あのままだとあれの二の舞だ。
知識を得る眼は、そのタイムリミットを刻々と告げているように思えた。
流血の次は、感染に追われるらしい。つくづく僕はついてない。
「とにかく傷を治さないと……」
幸い、菌はまだ傷口付近に居る。それを叩けば何とかなるだろう。
「傷に効く薬草が、どこかにないのか」
「その程度の欠け、なぜ気にするのだ?」
「然り。気にすることはないぞ」
「気にするなって言ってもこのままじゃ全身腐って死ぬ……?」
何気なく返事をしてみて、自分の現状を思い出す。
ここには誰もいるはずがない。そもそも誰かが入るほど広い洞窟じゃない。
パッと振り返ってみても、誰もいない。左右を見ても、影はない。
どこを向こうと壁ばかりで、なのにあの聞き覚えのある声がする。
なんておぞましい体験だ。恐怖以外の何物でもない。まさか呪われたとでもいうのだろうか。
「それは違うぞ」
「聞いてなかったのか?」
「「私達が君の目になったのだ」」
「……まさか」
と思わず口をついたけど、現状と彼女達の言葉が示すことはただ一つだった。
最後の希望、ただの比喩であるという可能性を確かめる為に、目を触る。
普通だったなら激痛なはずのその行為だけど、なぜか固い感触が返ってくるだけだった。
それはまるで結晶を荒く削った様な感触で、それが瞼の中にしっかり食い込んでいた。
「どうだ? 中々イカすだぞ。ちゃんと虹彩もデザインしたからお洒落な義眼っぽいのだ」
「違うぞ妹よ。こういう時はハイカラというんだ。それに黒目の部分はちゃんと動くから義眼とは言えない」
やっぱり、あの妖精が俺の眼になっている。そしてそれが話しかけている。
「どっちも古臭いよ」
呆然としつつも突っ込むと、楽しそうな笑い声がどこからかする。
「それはそうだ」
「私達はさび付いた存在だからな」
「「それにしても、ずいぶんと冷静だな。もっと狂乱すると思ったぞ」」
片手もがれて血を失って、狂う体力も乱れる余裕もない。現状で騒げる奴なんて、さっさと死んでいく奴だけだ。
それに、随分と残念そうな声じゃないか。こいつらの本意から逸れることが出来るだけでも、冷静でいる価値はある。
「おやおや、随分と嫌われているぞ。妹よ」
「いやいや、お前が何かしたからだろう。妹よ」
「「いやだから姉は私だって」」
「勝手に心を読むからだっ」
なんて早速突っ込むと、一気に体力が削れた気がした。
思わず洞穴の壁に突っ伏してしまう。直に力尽きて死にそうな予感がする。
いや、何というか、もう死んでる。死に体だ。化け物に寄生されるなんて死んだも同然だ。
もういいや。この恐ろしくも馬鹿なこいつらのことは無視してさっさと薬草を探しに行こう。
たとえ死に体でも、長く生きるのが生物の本能だし。
狭い洞穴を身をよじって出ると、見覚えのない森が広がっている。きっと意識が朦朧としすぎたせいで、記憶に残っていないんだろう。
それにしても、文字ばかりで鬱陶しい世界だ。無駄な知識ばかりが頭に入って頭が痛くなる。
「……やっぱり化け物の力は人には馴染まないな」
「化け物とは失礼だな」
「それのおかげで生き残っているというのに」
「?」
なんか勝手に恩を着せられたらしい。恩着せがましいとはこのことか。
なんて思った瞬間、後ろから妖精の姿が出てくる。
頬を膨らませて、随分とご立腹の様だ。
「恩着せがましいとはなんだ。我らが目のおかげで活路を見出し」
「底上げされた身体能力と治癒力で生き残っている」
「「命を救ったといって過言ではあるまい」」
「……実感ないんだけど」
そもそもこいつらがでしゃばった覚えはない。
が、自信があるようで、双子は僕の目の前をチラチラ飛びながら自慢げに語り出す。
「頑丈な筈の蔓を容易くちぎり取っただろう。身体能力が上がった証拠だ」
「あんな傷で川に突っ込めば失血死は免れない。少なくとも傷口は致命的な状況を脱していたといえる」
「「嘘だと思うならそこらの石を軽く投げてみればいい」」
なんというか、胡散臭い。そもそも僕は情報を得る目を求めたのであって、そんな効果なんて知ったことではないのに。
でも、そんな風に言われたから、一先ず物を投げる為に辺りの枝を折ってみる。
足元にある石にしなかったのは流石に天邪鬼すぎたと思ったけど、別にいいだろう。
要は力を試せればいいだけだ。
ものを投げるのは、生き残るために散々やってきたから慣れていた。
思い切り振りかぶって背中もそらせて、一気に全身を縮めつつ投擲する。
と全力を込めてみたものの、期待しちゃいなかった。
枝は大して重くはない。大きさもさほどではない。きっとこんなものか、と八つ当たりをしたかっただけだ。
なのに、地面に向かって投擲したそれで、凄まじい地鳴りと土煙が上がった。
「……は?」
濛々と立ち上がる煙の根元を恐る恐る覗くと、そこには地面にめり込む木片が一体に散らばっている。
あの一瞬で、木は空中分解して、散弾みたく辺りに飛び散ったらしい。
ほじくり返してみると、意外と簡単に取れるけど……それでもすごい威力だ。
強力な弓か何かで脆い木を撃ったような感じがする。
呆然としているとまた目の前に妖精が現れて、胸を張る。
「どうだ。凄いだろう」
「閃石種ならもっと腕力を高められるんだがな」
「それを言うな。玻璃種はもっと違う役目があるだろう」
「さて、私達はこう見えても齢三千余年」
「その上、これだけ君を強化して命の恩人でもある」
「「敬意を払って然るべきじゃないのかな」」
確かに、これは強化というだろう。気持ち悪いくらい強くなっている。
でもそれで手放しに恩人と言えるほど僕は甘くない。
そもそもこいつらのような化け物を信じるのはあまりに危険すぎる。
「敬意っていうのは、払わせるんじゃなくて払いたいと思わせるものだろ。そもそも人と敵対してる化け物と仲良くなんてやってられないね」
二人の息の合った口撃に反撃してみると、二人の勢いはすぐに止まった。
でも僕の正論に納得したわけじゃないらしい。
二人は顔を見合わせて、コテンと首をかしげている
「うん? おかしいな」
「私達がいつ敵対したんだ?」
本当に不思議そうに言うものだから、僕も思わず聞き返してしまった。
「だってお前ら化け物だろう? あの豚と同類じゃないか?」
「「……なるほど」」
「お前は私達を化け物と称していたが、それは比喩表現ではなく分類としての呼び方だったか」
「お前はあの琥珀種まみれの豚達と高貴な私を同類として見ていたのか」
得心したような声と共に、ぐるりと僕の方へ向き直る。その顔は、誰が見ても激怒していた
そして一斉に互いを指さして見せた。
「見ろ。こいつがあの琥珀種に狂わされた生物と同じように見えるか?」
「見ろ。こいつがあの戦闘狂な破壊主義者に見えるか?」
「「一緒にするな。失礼にもほどがある!」」
ふくれっ面になった状態で、妖精は僕の前に仁王立ちをする。
と言ってもただの幻覚であり、その上豚と彼女の違いを説明しきれていない。
だからさっさと無視して突っ切ったんだけど、それでも妖精はしつこく付いてくる。
「ちょっと待て。そもそもあっちは琥珀種だ」
「話を聞け。私達は玻璃種。存在自体が違うだろう」
「あちらは大した自我も持たない、ただひたすら生物に寄生するだけの不定形鉱石。いや粒子の塊」
「私達玻璃種は単体で生きていける、高等鉱石生物だ。あんなインクルージョンまみれの結晶未満と一緒にしてくれるな」
「そんなの知るか。どっちも同じだろ」
「「違う。酒か酒のつまみか以上の違いがある」」
「泥水と腐った飯が主食な僕にはどっちも同じだよ」
さっさと話を切り上げ、目的の薬草を見つけて、それを手と膝でよく揉んで傷口に押し当てる。
意外と痛みがなくて幸いだった。この先のことを考えないといけないのだから、痛みで悶絶している時間はない。
先ず町に帰る選択肢はない。あそこは地獄だし、素材を入手できていない僕はそもそも入れない。
一日やり過ごして、帰るという手はあるにはあるが、それにも問題がある。
この見た目で、どうして人に受け入れられるだろうか、という話だ。
多分結晶に浸食されたこの体では、浮浪者の群れの中でも迫害を受けるだろう。
僕の目が奇麗だったなら、最悪目玉を抜き取られて闇市に売られる可能性だってある。
全く、お先が真っ暗だ。余生をずっと化け物共が蔓延る門の外で過ごさないといけないんだから。
どうすればいい。先ずは寝床か。それとも水場か。
食料の準備もしないといけないから火の確保も必要か。
ああこうなってくると、知らない内に備えられた力が役に立ってくるかも。
「「おいお前」」
「黙って頭に収まってて。考え事をまとめてるんだから」
せめて見かけをごまかせたならもっとやり方はあるんだけど。
「黙っていいのか?」
「お前の好きな情報かもしれないぞ」
「別に知識が好きなわけじゃない。必要だから欲しがっただけだ」
でも、言われた通り情報を得る機会を無碍にするのは駄目かもしれない。
いやでも、こいつは僕を騙すかもしれないし、もしかしたら言葉だけで人を操るかもしれない。
いやいや、だとすると今こうして脳内に話しかけられている時点で終わりか。
いやいやいや、だとしてもわざわざ情報を植え付ける機会を与えるのも考えものだし……。
「いかんな。思考が空回りしている」
「土壇場ではいい判断だったんだが、こういう場面には弱いと見た」
「仕方ない。さっさとこの情報を叩きこもう」
「これだから知見の低いものは見ていて面白いのだ」
悩んでいると不意に視界いっぱいに双子の顔が映る。
随分と愉快そうで、こっちが不快になるくらいの笑みだ。
「「おい、お前。結晶と融合した人なんてこの世界にはザラにいるんだが」」
結晶と融合した、人。
「……それは化け物になった人間が居るってことか? それだったら何度も見た」
「違う。生き残るために自ら結晶を摂取した奴らが居るのだ」
「生き残り、安定した生活を得る為に摂取した奴らが居るのだ」
「「全く愉快なことに、奴らはそういう進化を選んで、見事成し遂げたのだよ」」
ああ、この笑い方は不快じゃない。不気味な笑みだ。
薄いピンクの妖精が、自分達の手を取ってくるくると回り出す。
僕のことなど頭の隅に追いやって、嫌な笑みを鏡合わせに話し出す。
「全くどうしようもない連中よ。まさか敵対する力を得ようとするとは」
「然り! しかもそれで見事あれを扱いこなすのだから、本当に人間は面白い」
「然り! 人間は見ていて飽きないなあ」
「然り! 本当に状況が状況でなければさぞ発展しただろう」
「然り! あの星の彼方まで手が届いただろう」
「「全く、惜しい奴らよ」」
情報を与えると言っておきながら、彼らは昔話に花開いた。
それも随分苛烈な毒の花だ。話が理解できなくても分かる。
理解できる部分も、過分な毒が入っているけど。
「ありえない。あれだけ敵対しているのに、結晶を飲み込むだって。嘘だろ。自殺行為だ」
ついでに言えば、結晶が生えた人間は大抵殺処分だ。本当にありえない。一片も信じられない。
そんな考えを見透かしたのか、目の前の幻覚の回転がぴたりと止まる。
「やはりお前は井の中の蛙だな」
「情報が欲しいというのもうなずける」
何かを得心して、二人は一方へと視線を送る。
「蛙よ。世の中を知りたくば川の下流へと行くがいい」
「井戸の住人よ。大海を見たければ、西に行くといい」
「「きっと素敵なものを見られるぞ」」
ああ、頭が痛くなってきた。
何が痛いって信じようと信じまいと彼女達の口車に乗るしかなさそうなのが痛い。
僕はもう元の場所には帰れない。そして川の下流、西に行けば受け入れてくれる場所があるという。
そして、受け入れてくれなければ、どっちみち長生きできそうにない。
まるで、悪魔の誘いの様だった。そこにしか活路を見いだせないのも、なぜか惹かれるのも、まさにその通りだ。
「……覚えとけよ。悪魔」
「「善意で言ってやったのに、酷いな」」
そんな言葉を無視して、僕は川の流れに沿うように歩いた。
モルガナイトが言う、まだ見ぬ大海とやらを目指して。