憐れな英雄
五大陸の北に位置するセプテントゥリオーネス大陸。
その大陸に古代時代に存在したテッラ国という小国に稀代の英雄は生まれた。
名前はグラウス・ドゥオと言い、父親は同国の王だったらしく幼い頃より武芸の修練に彼は明け暮れ10歳の頃に初陣を華々しく飾ったとされている。
同大陸でテッラ国より国力があったサルトゥス国との戦いが初陣だったらしいが、この時に彼は騎兵と魔術師を用いて大軍を打ち負かしたとされている。
俗にモンスの戦いと称される戦だが、この戦で大勝利を掴んだグラウスを時の国王は大いに喜び華々しく祝ったらしい。
だが、それは極僅かな期間だった。
彼の才能を警戒した南北大陸の国が刺客を送り国王を暗殺したのである。
もっとも刺客はグラウスを狙ったが、国王が身を挺して庇って阻止されたのだ。
とはいえ・・・・これがグラウスの人生を決定付けたとも言える。
国王が死去するとグラウスはテッラ国の民衆に押され僅か12歳で国王の座に着いたが、そこから直ぐに彼はセプテントゥリオーネス大陸統一に取り掛かった。
実父の仇討ちもしたいが、その為にも足場を固めるのが先決と彼は理解していたからだ。
そして周りもグラウスの気持ちに応えるように善戦し・・・・僅か5年で彼はセプテントゥリオーネス大陸を統一しテッラ国を一大陸の覇者になった。
ただし、そこからがグラウスには正面場だった。
セプテントゥリオーネス大陸を統一した彼の者が眼を向け、そして狙いを定めたのは実父を殺した南北大陸だった。
南北大陸は文字通りセプテントゥリオーネス大陸と、メリディエース大陸の間にある大陸で、両大陸にとっては侵略するにしても防衛にするにしても抑えておきたい大陸だった。
だがグラウスは侵略の足掛かりとは別に実父を亡き者にした彼の大陸を併合するつもりで兵を進めたとされている。
もちろん南北大陸は受けて立つ為に直ぐ軍をグラウス大王が上陸した場所に刺し向けたが、グラウスは物ともせず進軍を続けた。
そしてテッラ国歴305年7月8日に南北大陸の北部で「ヴァースティタース(荒野)の会戦」で彼は大王と呼ばれる劇的な勝利をした。
父の仇は討てなかったが、それとは別に後世の歴史家達はグラウスの編み出した「3兵種戦術」と陣地選びの重要性を開花させたと称している。
現にグラウス大王はヴァースティタースの会戦以後は敵軍より先に陣地を探し出し、そこに敵軍を誘き寄せるなどの戦法を取るようになった。
テッラ国歴309年8月12日。
グラウス大王は南北大陸を併合し実父の仇を見事に取った。
この時点で歴史家達は「真の意味で大王になった」と称しているが、実父の仇を討ったグラウスは更に進軍を続けた。
俗に「北方遠征」と称される10年にも及ぶ大遠征で、この大遠征を歴史家達は「まさに英雄」と最大の賛美を送っているが・・・・その英雄にも欠点があったと指摘している。
それは余りにも彼自身が才能に恵まれていた点と歴史家達は挙げている。
確かに彼の人生を見ると必ず先陣に立ち、兵士達の士気を鼓舞し続けているが・・・・それによって部下の将軍達が仕事を半ば放棄している点が多々見られた。
現にグラウス大王に代わって将軍達が指揮を執ると防戦に入る点が多く見られている。
そして身内に対する接し方が問題と歴史家達は言い、その例として腹違いの義兄に対する接し方を挙げている。
グラウス大王の腹違いの義兄は用兵家としてはグラウス大王の足下にも及ばないが政治能力に関しては大王より一枚上手だったらしい。
その証拠に彼は大王に任された南北大陸の統治を南部では着実に成功させている。
だが北部では抵抗が激しく、そこをグラウス大王は見て義兄を糾弾した上で自分が指揮する軍を用いて徹底的に弾圧した。
挙句の果てに義兄を公の場で罵ったらしく・・・・義兄は恥を受け入れられず自死した。
これを義兄の妻は嘆き、そしてグラウス大王を憎悪し以後は敵対関係を取ったとされており歴史家達は「身内に対する接し方を誤った」と指摘している。
同時に義兄を死に追いやった辺りからグラウス大王の華々しい人生に影が落ち始めた。
それは皮肉な事に大王とは別に「戦争芸術家」の異名を頂戴した「モンターナ(高地)の会戦」から出始めていた。
このモンターナの戦いはテッラ国歴310年9月25日にメリディエース大陸の内陸部で起こった戦で、グラウス大王の采配振りが遺憾なく発揮された会戦とされている。
ただし、この時から一度は併合した南北大陸では抵抗運動が活発となっていた。
そしてメリディエース大陸軍の中には嘗て彼に仕えた部下と、義兄の妻も居たのがグラウス大王には心理的に辛かっただろうと言われている。
しかし大王の心情とは別に・・・・用兵家としての大王は決して間違いを犯さずにヴァースティタースの会戦と同じく・・・・自分で戦場を決めた。
同時に3兵種戦術も磨きが掛かっており、ヴァースティタースの会戦同様に数で負けていたのに彼の軍は勝利を手にしたのである。
この会戦で大王は戦争芸術家の異名を得たが歴史家達はこう指摘している。
『モンターナの会戦で大王は遠征を止めるべきだった。そうでなくても南北大陸を数年以上は掛けて直接統治するべきだった。そうすれば兵達も祖国に帰れる機会を与えられたと喜んだであろう』
実際その通りだったのはヴァースティタースの会戦を終えて戦勝祝いの宴をしていた際に起こったとされている。
大王は何時も通り部下達に労いの言葉などを掛けたが、その部下達は暗い表情で大王にこう言ったと言われている。
『大王、我々は何時になったら・・・・祖国に帰れるのですか?もう10年も・・・・我々は祖国に帰れていません。そして戦友も減っています』
一人の兵士が言うと他の兵達も続けざまに大王へ不満をぶちまけたとされているが、それを言われて大王は漸く自身の行動が如何に兵士達を苦しめたのか・・・・解ったとされている。
そして将軍の一人から南北大陸の問題以外にも祖国の問題があると言われ帰国を決意した。
テッラ国歴310年12月9日に大王は10年ぶりに祖国への地を踏んだが、民衆は石と罵倒で大王を出迎えたとされている。
理由は大王が遠征に行っている間に国政を任せた妻と生母の確執を始めとした権力闘争が原因だったとされており大王にとっては寝耳に水の事だった。
しかし王都カステッルム(城)に戻って現実を知った大王は再びセプテントゥリオーネス大陸で一から出直そうと思い・・・・妻と生母を打倒する為に戦いを決意した。
逆に妻と生母は大王を打倒する為に兵を起こしたとされており、その戦いはテッラ国歴310年1月13日に行われた。
俗に「トレデキムの会戦」と言われるグラウス大王が立った最後の戦いだが・・・・大王は、この戦いで負けた。
戦場を自分で決め、そこに両軍を呼び寄せるという手法と、3兵種戦術は健在だったから勝てる筈だったが・・・・思わぬ方角から攻撃され大王は負けたとされている。
思わぬ方角から攻撃したのは中立を宣言した国民だったが、その攻撃によって大王は生きたまま捕えられて島流しにされた。
そしてテッラ国は大王の元妻と、間男となった将軍が共同統治者となり、大王の生母は東の地にフォンス国を起こし、大王の部下だった者達は西の地にフムス国を打ち立てた。
この点を歴史家達は「この時点で既に私欲に溺れた人間と確定された」と当時を生きた人間の手記を参考に評している。
現に彼の3ヶ国は大王が死ぬまで自分達を正当継承者と言い合い小競り合いを始め・・・・20年後の2月10日に大王が死去すると同時に宣戦布告を始めたのだ。
互いに総力戦で行われた戦いは休戦を挟んで数年は続いたが・・・・結果を言えば3ヶ国揃って滅亡した。
かつてグラウス大王に併合された南北大陸と、メリディエース大陸が今こそ復讐の時と息巻いて攻め込んで3ヶ国を滅ぼしたのだ。
この一連の大動乱を醜い人間の部分を皮肉り「ストゥルトゥス(愚者または馬鹿者)の戦い」と歴史家達は称しているが言い得て妙と言う他ない。
その証拠に愚者共は互いに潰し合い、結局は3ヶ国揃ってセプテントゥリオーネス大陸統一はおろか自国を滅ぼしたのだからな。
そして3ヶ国に代わってセプテントゥリオーネス大陸の新たな覇者は・・・・グラウス大王と縁も所縁も無い南北大陸の一兵士が起こした国だった。
間の抜ける話だが、後世の歴史家はこう言っている。
『グラウス大王とは縁も所縁も無いが、それでも敢えて言うなら彼の兵士はグラウス大王の用兵術を敵側の立場で学んだ。そして自分なりに改良して物とした』
この点こそ晩年こそ憐れな人生を送ったグラウス大王が今も英雄として後世の武人から崇められている要因であると歴小説家は唱えている。
その証拠に3000年を経た今も・・・・・・・・
憐れな英雄 完