三
オニタが決めあぐねている間にも、時は過ぎ、世の中は動いていきます。丁度その頃、国を挙げての大きな戦争が起きていました。
オニタたちの住む村はとても小さな領地で、城壁ももたない謂わば飛び地のようなものでした。その為、狙われる心配などほとんどないと思われていました。
ところが、比較的近くの国で戦いが始まったという知らせが届いてから程なく、武装した一団が村へと踏み込んできたのです。
誰かが扉を叩く音がして、オニタは飛び上がりました。仮面を壊そうか、壊すまいか、悩んでいる最中でした。
扉に掛けた閂を外すと、勢いよく扉が開かれました。転がるようにして、部屋の中へと入ってきたのは、メグでした。
「ど、どうしたの」
肩で息をしながら、オニタの足にすがりつくメグの身体を起こそうと、手を伸ばしかけて、外の様子がおかしいことに気がつきました。
家々には火が放たれ、逃げ惑う人々。その中の一人に武装した男が刃を振り下ろすのを見ました。
「なんだよ、あれ」
「傭兵よ」
金銭で雇われ、領主の代わりに戦争をする傭兵たち。国の為ではなく、お金の為に戦う彼らは、しばしば戦いのついでに近隣の村々を襲い、略奪行為を行いました。
「お父様たちは遠征されていて、いま村で戦えるのはお兄様たちだけなの。けれど……」
オニタにはメグの言おうとしていることがなんとなくわかりました。
メグの兄やその仲間たちは鍛錬はしているものの、貴族の嗜み程度で、実戦経験もありません。対して、相手は数々の戦場をくぐり抜けた傭兵たち。勝負は目に見えています。
「オニタ。お願い、みんなを助けて」
初めて会ったときと変わらない、あのきれいなガラス玉のような瞳がオニタを見上げていました。
「……僕は」
オニタは迷いました。一度はヒトをやめる決意をしたのです。彼らを助ける理由が思い当たりませんでした。ましてや、襲ってきた相手もヒトなのです。けれど、メグやメグの兄たち、村の人たちが死んでしまうかもしれないと思うと、胸が裂けそうなほど苦しくなりました。
「お願い、オニタ。あなたなら――」
メグは何か言いかけて、口を噤みました。しばらく黙って、息を整えるとすっくと立ち上がりました。
「ごめんなさい。あなたは私たちのことが嫌になったのよね。だから、ここに閉じこもって絵ばかり描いていたんだ。そんなあなたをこんな戦いに巻き込もうなんて、どうかしてた」
そう言って、部屋の隅で埃をかぶっている剣を見つけると、それを引きずりながら外へと歩き出しました。初めて会ったときに比べると大きくなったとはいえ、まだ十歳になったばかりの少女に重い剣が振れるはずがありませんでした。
しかし、オニタが助けに行ったところで、いまのオニタでは、剣を満足に使いこなすことはできません。まして、近頃はろくに鍛錬もしていませんでした。
剣を引きずる小さな後ろ姿が一歩、また一歩と遠ざかっていきます。このままじゃ、このままじゃ――。
――メグが死んでしまう!
そう思った途端、身体が勝手に動いていました。
オニタは家の壁に向かって走り出すと、勢いそのままに顔面を壁にぶつけました。
ばしぃっ、と空気を切り裂くような音がして、平凡な少年の顔に亀裂が走りました。かと思うと、今度はぶつけられた壁のほうも耐え切れず崩れました。
傭兵の一人が崩れた壁の向こうを見て、震えあがりました。そこには、明らかにヒトではない何かがいたのです。
無機質のように冷たい質感の黒色の肌。背丈は十三、四歳の男子とそう変わりありませんでしたが、なにより、長い前髪の向こうに見え隠れする醜くも恐ろしい顔が、それの生物としての異常さを物語っていました。
一瞬の出来事でした。
まるで、全速力で走ってきた馬に轢かれたかのように、あるいは投石器から放たれた石の直撃をくらったかのように、傭兵の身体は宙を舞いました。
オニタは村に入り込んだ傭兵たちを掴んでは投げ、弾き飛ばし、手に持った武器を叩き潰しました。
頭の中は意外に冷静でした。以前のオニタなら怒りに我を忘れていたはずでした。ですが、いまのオニタには、誰を攻撃するべきか、どれぐらい加減すれば殺さずに済むか、考えながら動くことができました。
傭兵たちは我先にと逃げ出しました。後に残ったのは、火の手と、生き残った村の人々と、恐ろしい怪物に戻ったオニタでした。
遠巻きにオニタを見つめる村の人達の視線に恐怖の色が見えました。誰も、何も言いませんでした。まるで、嵐が過ぎ去るのをじっと待っているかのように、肩を寄せ合ってオニタの動向を見ていました。
「オニタ」
声に振り返ると、少女がこちらに向かって駆けてくるところでした。メグはもう剣を引きずってはいませんでした。
なんの躊躇いもなくオニタの傍に駆け寄ると、その腕にしがみついて嗚咽を漏らしました。
繰り返し、繰り返しお礼を言うメグの姿に村人たちは信じられないものを見るような視線を送りました。
「め、メグっ。その化け物から離れろっ」
メグの兄の声が人々の中から聞こえました。
「どうしてそんなこと言うの。オニタは村を救ってくれたんだよっ」
メグの言葉に誰も耳を貸しません。その強い眼差しに誰もが目を逸らしました。
「……どうして」
メグの肩になめらかな石のような手が掛かりました。
「いいんだ。みんなに好かれようとは思っていない。それに僕だって、村の人みんなが好きかと言われれば、けっしてそうじゃない。ただ、みんなが死んじゃうかもしれないと思うと、それだけは絶対に嫌だった、それだけなんだ」
「そんな……」
オニタはメグの肩から手を離しました。メグは慌てて振り返りました。
「どこへ行くの?」
「僕は山に帰ることにするよ」
「どうして。あの家にこれからも住めばいいじゃない。あなたが立ち去らなければならない理由なんて何一つない」
最後の方はもう泣きわめくような調子でした。オニタは努めて振り向かないようにしていました。
「僕が村に住んでいたら、村の人たちは安心できないよ。それに僕だって、いつヒトってものを憎んで、殺そうとするかわからない。僕にはそれが、多分簡単にできてしまうから、歯止めがきかなくなったら、すぐに取り返しのつかないことになる。よかったんだよ、これで」
「ありがとう、メグ」
そう言い残すと、恐ろしい鬼の姿はまばたきの間に跡形もなく消え去っていました。
山に帰ったオニタは、また洞穴に棲みつくようになりました。毎日、そこらに転がっている石を食べたり、昼寝したり、絵を描いたり、時折、訪ねてくる竜と会って話したり。ヒトだった頃の習慣で、朝起きる時間が極端に遅くなったこと以外は、元通りの毎日です。
あの日、実を採りすぎたせいか、他に原因があるのか、洞穴の近くに木苺の実はならなくなっていましたが、洞穴の入り口近くには、小さなかごに入れられた木苺の実が、毎朝置かれるようになりました。




