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 仮面を被ってヒトの姿にさえなれば、すぐに友達になれる。そう思っていたオニタでしたが、そもそもどうすれば友達になれるのかがわかりません。経験上、しばらくは子供たちも山へは来ないだろうし、村へ下りるべきかどうしようか、と考えていました。

 ところがどういうわけか、何日もしないうちに子供たちはまた山へと遊びに来るようになりました。はじめは、あの楽しそうな声は聞こえず、ただ、小さな足音がいくつも聞こえるだけでした。しかし、二回、三回と来るうちに、安心したのか、忘れたのか、以前のように子供たちの笑い合う声がちらほらと聞こえるようになりました。

 数日後、再び聞こえてきた声で、子供たちが山道を登ってくるのがわかりました。オニタは洞穴から出ると、足音を立てないようにそっと、声のするほうへと近づいていきました。

 子供たちはすぐに見つかりました。子供たちはいつも山道の途中まで来ると、繁みの中や木々の間を進んだり、元の場所に戻ったりしていました。オニタは近くの繁みに隠れると、そっと子供たちの様子をうかがいました。

 どうやら何かを探しているようで、草や落ち葉を手で払い除けながら行きつ戻りつしていました。皆が膝をついて足元を探しているなか、小さな女の子だけはキョロキョロと何か別のものを探しているようでした。

 オニタは仮面を被りました。

 仮面は再び形を変え、オニタの顔にひとりでに張りつきました。




「ねえ、もう日が暮れてきたよ。そろそろ帰ろうよ」

 一人がぼやき始めると、子供たちのほとんどがせきを切ったように不平を口にしました。

 一人の少年がそれを不満げに睨みつけていましたが、小さく息を吐くと、

「仕方ない。今日のところは引き上げるぞ」

 膝や靴の先に付いた泥を払いながら他の子供たちに大声で指示しました。

 子供たちが疲れ切った様子で山道へと向かうなか、小さな女の子だけがまだ木々の間でキョロキョロとしていました。

「何してんだメグ。帰るぞ」

 指示を出していた少年は女の子の背に声を掛けると、きびすを返して歩き出しました。


 木々や下草が途切れたところで、子供たちは立ち止まっていました。皆一様に目を見開いて、口をあんぐりと開けています。その表情に違和感を覚えたリーダー格の少年は、彼らの視線の先を追いました。

 そこには、一人の少年が佇んでいました。




 ――まずい。

 勇気を出して繁みから飛び出したものの、子供たちの顔を見てオニタは愕然がくぜんとしていました。

 ――どう見ても怖がられてる。

 ヒトの姿に変われたはずなのにどうして、と混乱しながらも、オニタは動けずにいました。少しでも動こうものなら、また、いつかのように、子供たちが逃げていってしまいそうな気がしていました。

 木々の間から少し遅れて、がさがさと音を立てながらひとりの少年が顔を出しました。

 他の子たちよりほんの少し背が高く、自信に満ちた眼差しで上から見下ろされ、オニタはなにか圧迫感のようなものを感じていました。いけない、何か話さなきゃ。そう思えば思うほど、言葉がのどを通らなくなっていきます。

 更に遅れてもう一人、子供が木々の間を抜けて山道へ出てきました。

「あ、メグ」

 名前を呼んだつもりはありませんでした。ただ、つい口をついて出たのが、思いのほか大きい声だったというだけでした。

 名前を呼ばれた女の子も、呼んだ当の本人も、驚いて固まってしまいました。お互いに相手の姿を確認して、しかし、メグの表情に疑問符が浮かんでいるのがわかりました。

 俯いていた顔を上げたことで、オニタの顔を覆うようにして垂れていた前髪が耳の辺りまで流れました。あらわになった顔は、恐ろしい鬼の顔ではなくヒトの――どこにでもいそうな少年の顔でした。


「知り合いか」

 メグはゆっくりと首を横に振りました。

 オニタの顔を見て子供たちは安心したのか、態度が少し横柄になっていました。何だかよくわからないものに対する態度から、顔を知らない、おそらくよそ者である子供に対するものに変わっていました。

 見たことない顔だな。村の人間じゃないな。となり村のやつかな。子供たちは口々に言いました。

「や、山」

 オニタが言葉を発した途端、子供たちが押し黙りました。やはりまだ警戒しているのだろう、とオニタは思いました。

「ぼ、僕は、山に棲んでいる」

 その言葉に子供たちの間にざわめきが走りました。それでも、なんとなくもう怖がられたりしないだろうという自信めいたものが、オニタの中にはありました。

 ――水面に顔を映して確かめたりもしたんだ。どこからどう見てもヒトの子供だった。大丈夫。大丈夫。

 いま、山に棲んでる、って。着ている服もなんだかボロボロだし。でも、見た感じ俺たちとあんまり変わらないよ。

「うるせえっ」

 リーダー格の少年の大声で他の子たちの声はかき消されました。皆、口をつぐんでリーダーの言葉を待ちます。

「要するに、なんでかはわからないが、山に棲んでいたのはこいつで、馬鹿な大人たちが山の中で見たこいつを、鬼だとか化け物だとか言って怖がってたって、そういうことだろ。馬鹿馬鹿しい。ていうか、なんで山になんか棲んでいるんだ」

「ぼ、僕は、ここで生まれたんだ。だから、そのまま、こ、ここに棲んでた」

「……そうか。そいつは、悪かった」

 なにが、悪かった、なのかオニタにはわかりませんでしが、実のところ、リーダーの少年をはじめ、子供たちはみなオニタは親に捨てられたのだと思ったのでした。

「な、何か探しているの?」

「……実は」

 聞くところによると、どうやら以前、オニタの姿に――というよりもメグの悲鳴に驚いて逃げ出したときに、大切にしていたものを落としてしまったらしい。

「お、おいしいもの?」

「馬鹿。食い物じゃねえよ。父上からもらったんだ」

 曾祖父の代から受け継いできた懐中時計で、つい先日、十四歳になった誕生日に父親から贈られたものなのだと少年は言いました。

「それは、そんなに大事なもの?」

 それが何の含みもない、あまりにも無邪気な疑問だったため、リーダーの少年は怒るのも忘れてしまいました。

「当たり前だ。おれの命よりも大事なものだ」

 オニタはふうん、とだけ言うと、辺りを見回しました。

「こ、この辺りで落としたのは間違いない?」

「ああ」

「さ、探すの手伝おうか?」

 リーダーの少年は口の端で笑いました。

「そりゃあ、助かる。こっちはネコの手でも借りたいぐらいだ。でも、今日はもう遅いから帰るところなんだ。明日また来るから、そのときに――」

「あ、じゃあ、それまでは僕ひとりで探しておくね」

「馬鹿だな、お前。日が沈んだら暗くて探し物どころじゃないだろ」


 夜の闇の中、鬼の姿に戻ったオニタはいとも簡単に懐中時計を見つけることができました。規則的な時計の針の音は、山の中においてとても不自然な音だったので聞き分けるのは容易でした。

 翌朝。朝早く山道を登ってきた子供たちの目の前に、オニタは拾った懐中時計を差し出しました。もちろん、仮面を被ってヒトの姿になるのは忘れません。リーダーの少年は涙を流して感謝しました。

 それからというもの、子供たちはまた頻繁に山に入るようになり、オニタはそのたびにヒトの姿で会いに行きました。子供たちは次第にオニタを受け入れ、一緒になって遊ぶようになりました。オニタはヒトの子供たちとは少し感覚がズレたところがありましたが、子供たちはあまり気にせず、少しとろい奴、変わった奴ぐらいにしか思っていませんでした。

 メグだけは、少し違いました。

 メグはいつもオニタから少し距離を取って、不思議なものでも見るような目で見ていました。オニタが子供たちに名前を教えてからはより一層いぶかしげにこちらを見てくるのでした。




 数週間後、リーダーの少年に連れられて、オニタはふもとの村に来ていました。少年はメグの兄で、オニタにもそう説明していましたが、オニタが兄弟というものを知るのはもう少し後のことです。

 子供たちは村の中を案内してくれました。そのどれもが、オニタには新鮮に感じられました。すれ違うヒトの多さも、大人たちが汗を流して働く姿も。お店の中から漂ってくる香りによだれが口の中に溢れました。

 仮面を被っているとき、変化するのは姿だけではありませんでした。暗いところではヒトと同じように目が見えなくなり、聴覚も嗅覚も格段に落ちました。石は食べれないし、そもそも食べたいと思わなくなり、代わりにヒトの食べるようなものがおいしそうに思えました。

「そろそろいいだろう」

 少年が例の懐中時計で時間を確かめながら言いました。

「な、何が?」

「実は両親に言って、食事も用意してもらっているんだ。新しくできた友達のことを話したら会ってみたいって言うもんだから、さ。来るだろう?」

 オニタに断る理由はありませんでした。何より少年の口から出た”友達”という言葉に有頂天になっていたのでした。


 メグと少年の家は、村の中で一番大きい建物でした。建物自体、間近で見たのは生まれてはじめてで、オニタは村のどの建物を見ても驚き、感動していましたが、その日見たどの建物より大きく豪奢ごうしゃなメグたちの家に圧倒されていると、少年はそれを感じ取ったのか、

「父上は、田舎とはいえ、この辺り一帯の領主だからな。あまりみすぼらしい館には住めねえさ」

 無意識のようでしたが、そう言った少年の顎は微かに上向き、普段よりも胸を張っていました。


 屋敷の中はずっと洞穴で暮らしてきたオニタにはとても広く、また明るく感じられました。木の板でできた床や白い壁は飾り気がないにも関わらず、とても美しく見えました。

 広間に通されると、メグの兄に言われるがまま席に着きました。メグの兄、メグが横に並んで座ります。大人の男性と女性が後から入ってきたかと思うと、向かい側の席に着きました。

 二人は人の良さそうな笑顔を浮かべてオニタを眺めました。

「君がオニタくんかね」

 男性は笑顔を崩さず、低くしわがれた声で尋ねました。オニタは次々に運ばれてくる料理に目を奪われていましたが、少年に脇をつつかれ何か問われているのだと気がつき、うんとだけ答えました。

「なんでも生まれてからずっと山に棲んでいたとか……本当かね」

「う、うん」

 オニタの目は、料理と男性の間を忙しなく行き来していました。男性は仕方ないといった様子で、手振りだけで「どうぞ」と促しました。

 物凄い勢いで料理を口に運ぶオニタに、しばらくは皆呆気にとられていましたが、オニタが一皿目を食べ終わる頃、ようやく母親のほうが口を開きました。

「まあ、いい食べっぷり。私たちも頂きましょうか」

 ほほほ、と上品に笑うとオニタ以外の四人は神に祈りを捧げて食事を始めました。


「実は村はずれに空き家があってね……」

 食事を終え、紅茶を片手にメグの父が話し始めました。

「そこを君に使ってもらおうかと思っているんだ。なに、家賃のことなど気にしなくていい。大人になってから働いて少しずつ返してくれればいいんだ」

 その頃のオニタにはメグの父の言っていることはよくわかりませんでしたが、とにかく村に住まわせてもらえるのが嬉しくて、「ありがとう」とお礼だけ言いました。




 すでに外は暗くなっていたため、その日は館内に泊めてもらえることになりました。

 初めてのことばかりで嬉しくなっていたオニタは中々寝付けず、月でも見ようとホールに下りました。

 誰もいないと思い、仮面を外したオニタでしたが、視界の端にメグの姿を見つけ、慌てて仮面を被り直しました。

 ヒトの目で見ると、暗闇の中で白いドレスを着た小さな女の子の姿だけが、窓から差し込む月の光に照らされて、ぼんやりと輝いて見えました。

 メグはこちらの存在に気がついたのか、素早く振り返りました。小さく声を上げて、しばらくじっと動かず、ただ目だけを大きく見開いてオニタを見ていました。あるいは、暗くてよく見えていなかったかもしれませんが。

 オニタが少しずつそちらに近づくと、メグも同じようにオニタに近づきました。

「こ、こんなところで、な、なにしてるの?」

 先に口を開いたのはオニタのほうでした。メグはというと、月に微かに照らされたオニタの姿をじっと穴が開くほど見ていました。

「……あなた、本当にオニタなの?」

「へ?」

 オニタにはメグの質問の意味がよくわかりませんでした。確かに、ヒトの姿に変わってはいますが、自分がオニタであることに違いありません。それに、メグはオニタの鬼の子としての本当の姿を知らないはずでした。

「私、山の中でオニタって子に会ったことあるけど、あなたじゃなかった気がする」

 これには完全に意表を突かれました。こんなことを言われるとはオニタは夢にも思いませんでした。

「ぼ、僕はオニタだよ。それは間違いない」

「じゃあ、あの日私と会ったオニタは? あなたとは別のオニタ?」

 少しだけこちらを見上げるメグのガラス玉のような瞳に、平凡な少年の顔が映っていました。

「そ、そうだけど、そうじゃない……かな」

「どういう意味?」

 意味と言うほどの意味はありませんでした。ただ、オニタはメグの問いに対して、そうだ、とも、違う、とも答えられなかったのです。

「そ、そうだ。木苺。君に渡した木苺の香りは、覚えてる」

 オニタはそれだけ言うと、そそくさと寝床へと帰っていきました。




 村はずれの家は、小さいながらも立派な家でした。少なくともオニタはそう思いました。

 オニタの見た目は大体十歳前後だった為、二年間は言葉や文字の習得に費やし、次の二年で乗馬や剣や槍の訓練をすることになりました。それが働く、ということになるのだと聞かされました。メグの父が小さく、息子の恩人を農民にするわけにもいかんしな、と呟くのがオニタには聞こえていました。

 オニタは村はずれの家に住み、メグたちの住む館にかよって、毎日言葉や文字の勉強をしました。メグの兄と行動を共にしていた子供たちの何人かも一緒でした。自然と彼らやメグの兄と行動を共にすることが多くなっていきました。特に、メグの兄はどこへ行くにもオニタを連れて歩くようになりました。

 メグの兄に連れられて色々なものを見るにつれ、オニタは自分がどれだけ恵まれているのかを知るようになります。ただ勉強をしているだけで、まだ働いてもいないのに、小さいながらも住む家があり、食べる物もメグの家からもらうことができました。農民や職人の家では自分より小さい子どもたちが大人に混じって働いており、彼らは一年中同じ服を着て風呂にも入らないのだと聞かされました。

 オニタはそのことで次第に負い目に感じ、メグの両親やメグの兄に遠慮して、自分から何か話すことも少なくなり、笑顔で相槌あいづちを打つばかりになっていきました。

「オニタ、最近お前よそよそしくないか。遠慮なんかするなよ。お前はどんなに探しても見つからなかったこの時計を見つけてくれた恩人なんだ。住むところや食い物ぐらい、本当だったらタダで提供してもいいぐらいなんだ。ただ父上の手前そういうわけにもいかねえから、大人になったら働いて返してくれ、って話になってるだけで」

 メグの兄はそう言いましたが、オニタには中々そうは思えませんでした。

 オニタは山に棲んでいる頃から、石や草花を砕いたりすり潰したものを使って、洞穴の壁に絵を描いていました。村に住むようになってからは、布と木材で自分で作ったキャンバスに、山で採ったりメグの父からもらったりした石を砕いて暇さえあれば絵を描いていました。教会の人に卵を混ぜるといいと教わってからは細かく砕いた石に卵を混ぜて使うようになりました。

 メグの家族から特別扱いを受けることに負い目を感じるようになってからは、メグの兄やその仲間と行動を共にすることが少しずつ減り、代わりに、家で絵を描く時間はどんどん増えていきました。贅沢ぜいたくだと思いながらも、それだけはやめられなかったのです。

 家で絵ばかり描いて自分の誘いを断るようになったのが気に入らなかったのか、メグの兄はオニタに会うたびに、家にこもってくだらない絵ばかり描いている、とオニタを馬鹿にするようになりました。

 それでもオニタは何も言い返しませんでした。ただ、絵を描くのをやめることはできませんでした。それ以上に、メグの兄やその仲間と一緒にいることもできなくなっていました。オニタにとって、彼らと一緒にいることが昔は嬉しくて仕方なかったのに、いつの間にか苦痛に変わってしまっていたのです。

 彼らが農民や職人の人たちに対して偉そうに振る舞ったり、陰で他人の悪口を言ったりするのを見るたび、嫌な気持ちになりました。何も言わずに曖昧な笑顔を浮かべながら相槌を打ったり、いつの間にか自分も同じように悪口を言っていることに気がついたときにはあまりの自己嫌悪に頭痛を覚えました。メグの兄から、ヒトから嫌われないようにしようとするうちに、自分がこれ以上ないほど醜い生き物になっていくように思えました。




 もうすぐオニタが村に来てから四年が経とうとしていました。

 ほとんど家に閉じこもって絵ばかり描くようになり、剣や槍の鍛錬の為に領主の館に出かけることもほとんどなくなっていました。描く絵も、昔洞穴で描いていたような色鮮やかなものではなく、暗い色ばかりの、見る人が恐怖を覚えるような、そんな絵ばかりでした。

 メグの兄も、友達になったはずだったその仲間たちも、オニタとは目も合わせなくなりました。ただ、なぜかメグだけは時折家まで訪ねてきて、食べ物を置いていきました。メグは、領主の館に泊めてもらったあの晩から、もう距離を取って遠くからオニタの様子を見たり、不思議なものでも見るような目をすることはなくなっていました。

「ちゃんと食べないと、身体こわすよ」

「大丈夫だよ。いざとなったらその辺の石でも食べるから」

 寝ぼけて、つい口をついた言葉でした。メグが小さく笑いました。

「懐かしいね、それ」

 それだけ言って、メグは帰っていきました。


 しばらくして、オニタは空腹を覚えて目を覚ましました。すでに太陽は天高く上っていました。

 微かに、部屋の中を甘酸っぱい香りが漂っていることに気がつきました。メグが置いていったかごの中を見て、得心がいきました。

「木苺か」

 パンやイモ、卵に紛れて、木苺の実が少しだけ入れられていました。

 何か言い知れぬ懐かしさに、一粒つまんで口の中に放りました。

 ――そうだよ。懐かしい、っていうなら、木苺だろ。

 途端、オニタは強い衝撃を受けました。

 木苺をほおばりながらある光景を思い出していました。洞穴の中、小さな少女が木苺の実を幸せそうにほおばっています。それを見ている自分は――、自分は――。

 視界の端に入り込んだ、真っ黒に塗り潰したキャンバス。その真ん中に醜い怪物の影を見ました。

 怪物の姿は醜く、恐ろしく、強く、しかし、今のオニタには誇り高いもののように見えました。

 怪物の口が動いたような気がしました。


 ――昔のお前はそうじゃなかった――


 ――いつからそんなに弱くなった――




 ――仮面をはずせ――




 オニタは両手の指を耳と頬の間に掛けると、力一杯引っ張りました。しかし、どんなに力を入れても仮面は外れません。もう三年以上一度も外していませんでした。指先に伝わる柔らかい感触は、仮面を被っているという事実のほうが嘘なのではないかと思わせるほどです。

 ――どうしよう。外れない。これじゃあ、このままずっとヒトとして生きるしかないじゃないか。

 絶望しかけたオニタは自分の身体を支えることすらできず、くずおれ、膝をつきました。胸がむかむかして吐きそうなほどでしたが、不思議と涙は出ませんでした。

 ――あまり長時間被ったままでいると、顔から外れなくなるらしいから。気をつけて使うんだよ――

 ふいに、竜の言っていた言葉が頭の中をぎりました。

 ――竜。

 仮面をオニタにくれたのは竜でした。どうにかして仮面を外す方法があるとすれば、知っている可能性がわずかでもあるのは、やはり竜しかいないのでは、とオニタは考えました。

 ――竜に。竜に会いに行かなくちゃ。




 オニタはまだ暗いうちから村を出て、山道を登り始めました。

 いままで生きてきた時間に比べて、ヒトとして生きてきたこの四年間は良くも悪くもとても濃密なものだったようで、山の中のどこを見ても懐かしさとよそよそしさを感じました。

 山道を登る間は何の苦労もありませんでした。オニタが村に住むようになってからというもの、山の鬼は見間違いだったと結論づけられ、山の麓近くや山道の周辺にはかなりヒトの手が入り、木を切ったり、鉱物を採ったりしやすいよう整備されていました。




 オニタが見上げた先には、高く切り立った崖が空へ向かってまっすぐに伸びていました。

 竜が訪ねてくるときはいつもこの上の横穴を通って、二匹がオグルの泉と呼ぶ場所に行き、竜が空から降りてくるのを待ったものでした。

 ――きっと、来てくれる。

 竜がオニタのいない山に、その後も訪れているのかどうかわかりません。どれぐらい待てばいいかもわかりません。それでも、自分がそこで待っていれば必ず竜は来てくれる、オニタの中にはなぜだか確信めいたものがありました。

 オニタはごつごつとした岩壁に、掴みやすい、足を掛けやすい突起を探しては、一歩、また一歩と壁をよじ登っていきました。

 いまはヒトとしての身体能力しかない上に、しばらく絵ばかり描いて身体を動かしていなかったせいか、想像以上に苦しい道のりになりました。手や足が滑ったり、風に吹かれたりして、何度も落ちそうになりました。その度、壁にしがみついてなんとかその場を耐えました。半分も過ぎないうちに、もう自分の体重を支えるだけで精一杯という具合でしたが、それでもオニタは登るのをやめませんでした。


 どれぐらいの時間が経ったのか、オニタにはわかりませんでした。いつの間に登り切ったのか、気がつくと泉に続く横穴に勢いよく転がり込んでいました。

 その光景を見ると、まるで、四年前に戻ったようでした。

 泉の水は空よりも蒼く透き通り、砂は雲のように白く、その周囲には多くの草木が繁っていました。泉は何一つ変わらぬ姿のまま、そこに佇んでいました。

 オニタは泉の水でのどを潤すともう少しも動けなくなり、白い砂の上に突っ伏したまま気を失ってしまいました。


 重いものが水の中に投げ込まれるような音が間近で聞こえました。途端、全身を冷たい水の感触が覆うと同時に、呼吸が出来なくなりました。

 驚きと苦しさにオニタは目を見開き、一刻も早く水面に上がろうと上体を起こし、中空を掻きました。

「……あれ?」

 すでに息苦しさはありませんでした。頭上高くから聞き覚えのある笑い声が重く響きました。

 見上げた先には、懐かしい竜の鋭く尖った顎が陽光を反射して銀色に輝いていました。

「やあ、元気だったかい、オニタ」

 どうやら気を失っている間に竜に泉に投げ込まれたようだと、オニタはようやく理解しました。

「なにするんだよ。溺れたらどうするんだ」

 髪を伝って顔を流れる水を両手で払いながら、オニタは抗議の声を上げました。

「そんなに浅いのにどうやって溺れるんだい」

 と、竜はまるで鼻唄でも歌うような調子で答えました。

 見下ろしてみると、なるほど、足は前に放り出したままなのに、水面はオニタの腰の辺りをゆらゆらと揺れていました。

 再び竜を見上げると、竜も同じくオニタを見下ろしていました。

「少しの間見なかったが、どうだい。ヒトの子と友達にはなれたかい」

 胸のあたりがチクリと痛みました。

「友達になれた、そう思ったんだ。でも、何か違う。昔、本で読んだ友達や仲間ってこういうのじゃない。心のどこかにずっとその違和感があって、それを拭うことができなかった。彼らのことがたまらなく好きなのに、彼らのことがどうしようもなく嫌いだった。自分のことも嫌いになっていった。おかしいよな。恐ろしい鬼の自分が嫌いだったのに、その頃の自分のほうがずっとマシだった気がする」

 竜は黙って耳を傾けていましたが、オニタが言葉を切ったまま俯いていると、ゆっくりと口を開きました。

「つまり、君はヒトをやめて鬼に戻りたい、と、そういうことかい」

 どきりとしました。

「ごめん、勝手なのはわかってる。でも、僕はもうこれ以上ヒトでいられない。ヒトのまま生きていく自信がないんだ」

「いいんじゃないかな、別に」

 竜はあっさりとオニタの言葉を肯定しました。

「え?」

「ヒトであろうが、鬼であろうが、そんなことは実はどうでもいいことなのさ。オニタ、君がヒトでありたいならヒトになればいいし、鬼に戻りたいのならそうすればいい。大事なのは、オニタがオニタでいることのほうだと、私は思うよ」

「僕が僕でいる……」

 竜の言葉を確かめるようになぞりました。

「それで? ヒトの姿のまま、ここに来たってことは、あれかい。その仮面外れなくなってしまったのかい」

 ――そうだった。その為に来たんだった。

「そうなんだ。どうにかして外す方法はないだろうか」

「簡単さ」




 オニタは竜と分かれた後、村はずれの自分の家に帰っていました。

 いままでに描いた絵を山に持っていく為のつもりでしたが、運びやすいように絵を箱に詰めようと用意まではしたものの、一向に作業は進みません。

 実のところ、オニタの心にはまた迷いが生じていました。

 竜の示した仮面を外す手段というのは、これ以上ないほど単純なものでした。

 ――仮面を壊せばいい――

 長い時間着けたままにしていたせいで、外れなくなっている上に、それ自体は目に見えなくなっている仮面ですが、それでも、オニタの顔を覆っていることは間違いありません。そこで……

「硬い――例えば、壁なんかに顔を思い切り打ちつければ、問題ないはずだ」

 というのが、竜の言い分でした。

 仮面自体は脆く壊れやすい、とのことでした。普通なら壁に打ちつけた衝撃で、顔に大けがをしてしまうところですが、仮面が壊れた時点で、オニタは本来の鬼の身体になる為、壁に打ちつけたくらいではビクともしないはずでした。

 迷いの原因はそれではありません。

 竜は言いました。実はこの仮面はこの世に一つしかないのだ、と。つまり、一度壊してしまえばもう二度とヒトになることはできないというのです。


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