詐欺師のナマエ、愛の言葉 4
高校に入学した日、新入生代表として壇上に上がった彼を見た時、文字通り血の気が引いた。周りの音が消え、彼の声だけしか耳に入らず、ただ呆然と目を見開いてその姿を見る。
数年ぶりに会った彼は、背ものび声も変わり、……けれども、自分の知っている彼そのままだった。
壇上を下りた彼が、自分の前を通る。
視線に気付いたのか、或いは何かに呼ばれたのか。ふと彼もこちらを見て、そして眼を見開く。それで十分だった。大仕事を終えて上気していたはずの彼の顔色もまた、一気に引いていた。
クラスに入り、新しいクラスメイトたちとの会話もそこそこに、解散後、人気のない場所を求めて歩き回った。入学早々の雨で、雨宿りをしているのかどこにもまばらに人がいる。どこか。どこかに───
ふとその時思いついた。図書室。そこの、一番目立たない場所ならば。
入学したててでろくに校舎も分かっていない。それは彼も同じはず。ならばポピュラーで尚且つ人が少ない場所を選ぶんじゃないだろうか。
はじめて図書室に足を踏み入れ、導かれるようにその広い空間の隅を目指す。一番端の、背の高い本段の間にぽつんと、彼はいた。
「コウくん」
数年ぶりに呼びかけた自分の声は酷く強張っていた。拒絶されたら。冷たくあしらわれたら。もう二度と近付くなと言われたら。震える声で絞り出した勇気は、はっとしたように振り返った彼に受け止められた。
「ミユキ」
それで十分だった。一瞬で胸がいっぱいになる。音もなく駆け寄り、両手を広げて抱き付く。力強く抱きしめ返され、胸に顔を押し付けるようにして声もなく泣いた。
そこには性愛も、あるいは友情もなかった。ただただ愛おしく、ようやく取り戻した半身を抱きしめて、やっとひとりに戻れたような気がしていた。
「コウくん、コウくん、コウくんっ……ごめんね、ひとりにしてごめんね。元気だった?」
「違う、ミユキが悪いんじゃない。俺が、俺が無用心だったから。ごめん、痛かったよな、あんなに血が出て、ごめん、本当にごめん」
「違う、コウくんが悪いんじゃない。違うの。それに、ひとりにさせたかったんじゃないの。護りたかった……コウくんのこと、護りたかったの。お願い、信じて」
「分かってた。識ってた。ありがとう。ごめん、ずっと助けられてた。ありがとう」
それから身を離して、それでも手だけは繋いだまま、小声の早口でお互いの今までを語り合った。周りを気にして、誰もこちらに来ないことを確認しながら、声を殺して。
「お母さんは再婚したの。DNA的には日本人だけど生まれも育ちもアメリカなひとと」
「流石幸絵さん、なんだかちょっとおもしろい感じのことをする」
「おもしろいってなによ……弟も出来たんだよ。父さんの連れ子の。金色の髪と青い目がすっごくきれいなの」
「ミユキがお姉ちゃん? ちゃんと出来てるの?」
「出来てるっ。……はずっ」
ふは、と彼が笑った。……笑い方も、変わっていなかった。
「ミユキ。……今、幸せ?」
「うん。……ねえ、」
コウくんは?
とは。
訊けなかった。───彼の切なそうな、けれど満足げな笑顔を見たら。
「そっか。……よかった。それだけが心配だったから」
「……うん」
「だからさ。今度は、今度こそ、俺にミユキを護らせて?」
「え?」
何を護ることがあるのか───瞬いた視線の先で、彼が言う。
「俺の母親が、この学校の保護者の会の会長だ」
「っ、」
「結構な額の寄付をしてる。それで学校に入り込んで、俺がどうしてるかとかの情報を手に入れやすくしてる。校長も担任も全員母さんと個人的に挨拶をしてる」
「……なんで……なんでそんな、監視みたいなこと」
「ずっとそうだよ。友好関係、成績、授業態度、日常生活……全部だ」
俺は禄にあのひとと喋ったこともないけどね、と、温度なく彼は言った。
「あのひとは、『次期当主』としての俺を管理したいんだよ。ニノという家が総てなんだ。俺はその次期でしかない……『コウ』はどうでもいいんだ」
「そんなの、」
かっ、と頭に血が上った。ぎゅうっと彼の手を握りしめる。
「そんなの、わたしは、」
「うん」
「わたしはっ、」
「うん」
涙が滲む。悔しい。悔しい。敗けたくない。
それが伝わったのか、彼がわたしの頭を撫でた。
「……遠からず、ミユキがこの学校にいることがばれると思う。ミユキ、特待生だよね?」
「うん」
「すぐにばれるよ。また何かしてくるかも」
左耳の後ろ、今も残る傷跡が、じくり、と疼いた気がした。
「───それ、でも」
「家族もきっと心配する。転校させられる可能性だって。家族に迷惑かけたくないだろ?」
「っ、」
まだ出来て数年の、漸く歩幅を揃えて歩むことが普通になった、新しい家族。
父親の収入は安定していて、学費は気にするなと言ってくれている。けれどかからないにこしたことはない。学費免除の違う高校に、今から入れるはずがない。
「だからさ、俺に任せて」
「……コウくん」
「俺とミユキは一緒にいちゃいけない。また同じことになる。自分の管理外の人間が近付いたら、きっとそうなる。───だから、先手を打つ」
「……先手?」
「俺がミユキをもう『どうでもいい存在』、むしろ『目障りな存在』として扱ったら? わざわざ自分が手を下すまでもなく、俺がミユキを拒絶していたら?」
「そしたら───」
そしたら。何事も起きず、家族に迷惑もかからない───?
「もしかしたら、俺がミユキを虐めることによって他の奴も便乗して虐め出すかもしれない。それは、何とかする。これ以外のことが思い付かない。申し訳ないんだけど、俺には味方がいないんだ」
「わたしがいる」
きっぱりと首を横に振り、ぎゅうっと手を握る。
「わたしがいる。ずっといた」
「……そうだね。ずっとミユキはいてくれた」
彼も手を握った。祈るようにその手を額に付け、懐かしむように微笑む。
「俺の半身」
「わたしの半身」
「もう二度と話さない」
「でも二度と離さない」
「これが最後」
「ずっと覚えてるから大丈夫」
「うん」
「うん」
額を付ける。抱きしめる。
「護ってくれてありがとう。これからは俺が護るから」
「置いていってごめんね。でもあれしか方法が思いつかなかった。大好きなの、信じて」
「識ってる。信じてる」
「わたしも識ってる。信じてる」
わたしが君のことを好きだ、ということを君は識っている。
君が識っていることをわたしは識っている。
それで十分だった。
「……俺の携帯番号」
彼が告げた数字を、何に残すことなく記憶した。同じように、自分の番号も託す。
「絶対に電話しない。けど、もし、もし全てが終わったら」
嘘を終わりにしていい時が来たら。
「そしたら、その時は」
もし、来たら。
「期待しない。でも絶望しない。だから、出来れば笑っていて。……さよなら、わたしの共犯者」
「さよなら、俺の共犯者」
さよなら。




