詐欺師と記憶 10
「みーさん。猫は三毛が至高だよね」
「マンチカンだよねユキ。あの短い手足が至高だよね」
「ばーかみーさんは推理小説が好きだから三毛猫が好きなんだよ」
「っ! ずるい! その情報あたし知らなかったこれはなし! なし、無効!」
「ごめんそれなんの勝負?」
静かな老人が帰ったあとに帰ってきた若者二人は、騒々しいのは仕方ないとはいえその内容があまりにも理解出来ず額に手をやった。さっきの緊迫した時間はなんだったのか。三毛猫もマンチカンも好きだけど確かにともりの言う通り推理小説が好きだからどちらかと言うと三毛猫派だよごめんね。でも猫ってみんなかわいいよね。犬もね。
「おかえり。今日はどうだった?」
「いつも通りだよ、学校行って、塾行って勉強して……あ、返って来た模試の判定が良かったの、でも模試によって志望校の判定がばらばらで、B判定とかC判定とか……」
楽しそうに話し出したキョウコだったが、ふと言葉を止めまじまじとこちらを見詰めた。ともりの顔も見上げ、不思議そうな表情でゆっくりと部屋の中を近い焦点距離で見回す。幽霊でも目で追っているかのような仕草だった。
「……どうしたの? 何かいる?」
「ううん、違う。……いや、いるかどうかは分からないけど。霊感ないから。そうじゃなくて……なんだか、きっと普通のことなんだろうけど、新鮮で」
大きな目が再びこちらを見詰める。歳相応の、本当にどこにでもいる女子高生。お喋りが好きで、将来のために遅くまで勉強を頑張る、努力家の女の子。
「外から戻ってきて、誰かが待っててくれて……ううん、誰かが迎えに来てくれることだって……今日どうだった? って、聞いてくれることなんて……」
何も間違っていない。この子は。
間違っていない───はずだ。
「おかえり、キョウコちゃん」
ゆっくりともう一度言う。目を合わせて微笑んだ。
「頑張ったからお腹減ってるよね。ご飯出来てるよ。食べながらお話聞かせて」
少女も、ゆっくりと微笑んだ。
「はい。……ただいま」
メインのおかずは豆腐ハンバーグ、ふろふき大根。野菜たっぷりのお味噌汁にほうれん草の白合え、お漬物にご飯。少女はうれしそうにそれを食べ、いろいろなことを語った。学校のこと、友達のこと、お弁当をみんなで食べてとても楽しくうれしかったこと、おいしかったこと、塾のこと、返って来た模試の判定のばらばらさに安心していいのか悪いのか分からなかったこと。
それはきっと、とても〝普通″の話のはずだった。そうでないのは───今までそうでなかったことが、悲しくなるくらいの。
「あのね、ユキ。……カブラギもっ。本当、ありがとう。あのね……すごく、すっごくうれしいの」
顔を伏せたり上げたり、脚を軽くぱたぱたとさせたりと急がしそうなキョウコが、少し照れ臭そうに言う。
「あたし、今人生で一番幸せ」
───無邪気な、笑顔。
「……そっか」
胸が痛い。
「───それなら、うれしい」
心臓が張り裂けそうだ。
にっこり笑う自分を、青年がじっと見つめていた。
キョウコをお風呂にやり、台所の後片付けも終えお茶を淹れてソファーに座った。うーん、とのびをする。
「ともり、今日お迎えありがとねー」
「いーえ。まあどれだけくそ生意気なガキでもうちの子だからね。そのくらいは権利ってもんだよ」
「義務じゃなくて権利?」
「昔みーさんも同じこと言ってくれたでしょ」
「……そうだね」
数年前のことを思う。ぼろぼろになったかつての少年に言ったのだ。家族を心配するのは身内の権利だと。あなたを大切にするという権利を、私はもらったのだと。
視線を部屋の隅に向ける。中くらいのボストンバッグ。帰って来た時ともりが持っていたものだ。そしてあえて、その時は話題にしなかった。
「キョウコちゃんの荷物、それだけ?」
うん、とともりが首肯したのを見て、ふ、と、無意識の内に呼吸を止めた。
塾帰り、万が一父親に遭遇してしまった時のためともりに同行してもらい荷物を取ってきてもらったのだが───生まれてきてから十何年過ごしてきた場所を去ったというのに、少女の財産は、大切にしてきたものは、あの鞄ひとつに収まってしまうものなのか。
「リビングには酒しかなかったよ。あいつの部屋には何にもなくて、」
ニノ コウは。
「荷造りしてる時はリビングにいたけど。多分その中だって教科書とかそんなのばっかだ」
少女を今の状況に陥れた原因の一因である彼は。
「───何にも、なかったんだよ」
───それでも一生懸命に、手をのばしていた。
頭に手をやる。───ガキだ。そうだ、さっきチグサが来た時にそう思った。二十四はガキ。未熟で、何もかもが足りていない。ましてやひとの、これから先の未来を担うことなんて。結婚したわけでもなく、出産したわけでもなく、誰かの自由を護るため、ガキが必死になって───そう。ニノ コウだって、ガキなんだ。
「みーさんを害したことが許せないし、みーさんを今の状況に追い遣ってることも赦せないけど───でも」
ぼつりと、ともりが落とした。
「───必死な人間では、あるみたいだね。何にも譲らないくらいに」
唇を、噛んだ。
「……。……世の中には絶対に譲りたくないもののひとつや二つや八つや九つや数え切れないくらいあるよ」
「秘密と譲りたくないものってどっちが多いと思う?」
「え?」
「どっちなのかな」
「……」
ゆっくりと、首を傾げる。鎌をかけられているような気がした。
「……どうだろ、譲りたくないから秘密にしてるのかも」
「誰にも言えない、譲れないもの?」
「そう。誰にも言えないくらい、誰にも譲れないくらい、大事なもの」
大事だから秘密。
大事だから譲れない。
秘密だから大事なわけじゃない。譲れないから大事なわけじゃない。
それを間違えてはいけない───だって、それを間違えたら、
「みーさん」
はっとする。ソファーの背後からともりがこちらを覗き込んで、上下逆さまになっていた。
「じゃあさ。───大事だから譲れない秘密にしてるものを打ち明けられたら、それは愛だね」
「……」
「だってさ。その譲れないものより大事にされているから、秘密を教えてもらえたってことでしょ?」
「……」
「みーさん」
かつての少年が笑う。大きな手のひらがのびて、両頬をやさしく包まれた。
「俺はね」
青年が笑う。
「みーさんが、そうやっていろんなものを背負って───ひとの心とか、痛みとか、幸せとか、人生とか未来とか全部ぜんぶ請け負って分け合って自分の時間費やして一喜一憂して───みーさんが泣いたり逃げたりするタイミングを失うのが、怖い」
ともりが笑う。
「それがほんとうに、こわいんだよ」
みーさんに嫌われる以上に。
近付いて来た顔が、耳元でささやいた。
「───」
奥歯を強く噛む。───。
「……気をつける、よ」
ざらざらに干からびた声だった。
「気を付ける。ちゃんと……」
今度こそは。
もう少し、器用に生きていたかった。




