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大公の呪い  作者: 浜名湖ウナギ
第一章.鶴の恩返し
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第1話. 川下りのはじまり

 エニステという少年は小さい頃からとても冒険に憧れていた。

 彼の家は大した富農で、農場は黄金に輝く大平原のほぼ中央にあるのだが、父は何百人もの“農の手と弟たち”を抱える豪傑で、その屋敷もとてつもなく大きかった。幾世代に渡り増築に増築を重ねた壮大な建築物は近隣では「高嶽御殿」と呼ばれていた。エニステ少年はちょうど10歳。彼には3人の兄と2人の姉がおり、また弟と妹も一人ずついた。大家族の中で彼は祖母や大伯母たちからたくさんの愛をもって育てられ、(不思議なことに彼には実の祖母と祖父だけでも合わせて8人いた。血縁関係を重視する地方の慣習である。)、同年代の子とくらべればきわめて感受性豊かに、そして祖母たちのあまたの炉端語りにはぐくまれた結果好奇心旺盛な子供として育った。


「これでよし!」

 少年は4日前から小舟づくりに没頭していた。一周間(いっしゅうかん)前に思いついた森の中の川下りを実行するためである。だが、いくら齢の割りに知識豊富な少年といえども、舟を一から造るのは容易なことでない。彼は最初、樫の巨木をくりぬいたボートを作ろうとしたが、屋敷の道具場から無断で持ち出した回し抉り貫き大鋸と鬼鑿をもってしても素人には難しすぎることだらけで、たった5砂刻(キリテ)であきらめてしまった。次いで、木板を何枚も接着して小型の舟を作るやりかたを試みたが、少年の認識としたらちょっと工夫すれば簡単にできるだろうという想定に反して、やはりまったく彼の手には負えなかった。だから次に、農場のすみに転がっている丸太を組み合わせていかだを作ろうとしたが、10歳の少年には1本の丸太でも重く、小さな手で一生懸命結んだ荒縄も、たやすくほどけてばらばらになってしまった。こんなもので旅立ちしたらあっというまに遭難してしまう。

 そんな子供を見つけ、叔父が怒りに来た。耕作をさぼって何をしとるか! お前の兄は9歳で一町歩(マルト)を耕していたぞ! その丸太はお前の遊び道具ではない! それを使って農場は食べきれぬほどの鎌トマトを育てるのだ!

 だが、少年が「ボートを作りたい」というと、叔父は怒りを一転させ嬉しそうな顔をした。おおそうか! 俺も11歳の頃に兄たちと一緒にコグ船を作ったんだよ。だが舟は一人では作れない。さらに緻密な計算書が必要だ。おまえが一人で作ろうとしたら1年はかかるぞ。川の畔に住んでいる木師のハング爺さんが舟の作り方をよく知っているから、見て聞いて学べ!


 爺さんの住んでいる小屋は屋敷の敷地の一角にあり、少年が行くと主は巨大な牛車をひとりで作っている最中だった。もともと少年は小さな頃から仕事をする達人を眺めるのが好きで、この小屋にもよく入り浸っていたものだった。忙しそうな爺さまだが、子供は遠慮など知らないから邪魔を平気でいろいろ聞く。「小舟の作り方だと? 川辺にわしのものがたくさん並んでおるからどれでも持ってけ。…む? 違うのか、貰うのではなく自分で作ってみたいとな? よし、わしの作った物を数多く観察し真似して自分なりの物を作ってみるが良い。技を学ぶには観察して分析して真似るのが一番じゃ。職人と素人さんの差は造形の上のささやかな細部にある。そこを的確に模倣できわしが道具の使い方をみっちり教えれば、お前でも三旬で小さいのでも大きいのでもかりそめには作れるようになるぞ」

 そうなのである。エニステ少年は自分だけの舟を持ちたかったのだ。実は物流の大きな部分を川による輸送に頼っているこの地方では、さまざまな種類の川船が行き交っており(※エニソロウ叔父が昔作ったと言った“コグ船”は海の船であるが)、少年の農場にもたくさんのボートが備えられている。彼の秘密基地と化している屋敷の屋根裏の部屋にも、20年に一度この地方を襲う大洪水に備えて大きな皮船が吊されているのだ。あまりに見慣れているからこそ、少年も「自分でも似たような物を自作できる」と勘違いすることとなったのだが。

 「自分で作る、というのは大変なことだぞ。一番大事なのは真ん中の骨組みで、これが一分でも狂えばまともには働かん。設計図があってそれに忠実に作れば良いだけなのだがな。わしがお前にあげられる図を持っていればいいんだが、もう何十年も前からわしも図など使わんからな。悪いな。がはははは」


「三旬もかかるの?」 少年はがっかりした。「でもやってみる!」


 ハング老はドワハハハと笑いながら少年の頭をがしがしと撫でた。「まず最初は観察と練習からだ。この小屋の裏に朽ちた小舟がいくつもある。好きなものを選んで、修理して浮かべるようにしてみよ。まず最初は一番小さな物からだ。そのうち5つも浮かべられるようになったら、お前も一人前の第一歩じゃぞ」

 実際の所、木師は三旬(=三つの季節)で作れると少年に言ったが、まだ10歳の子である。本当に本物の舟が作れるわけがなかった。だが職人は決して当人にそんなことは言わない。この老人も小さな頃から先達に教えて貰いながら木と格闘し、長い年月を掛けて技を身に付けたのだった。子供はそうやって育てるのがならわしだ。

 さっそくエニステは小屋の後ろへ廻った。葦の生い茂った中に、何艘もの小舟が転がっているのが見えた。どれもが朽ちている。ばらばらに半全壊しているのもあれば、ちょっと手直しすれば大丈夫なように見えるのもある。大きなのも小さなものもあった。「よしこれ!」 少年は一通り眺めたあと、そのなかで一番小さな物に目を付けて、自分に向けて宣言した。それは10歳の子供でも自分で運べる大きさでなければならず、また少年にとっては「自分で作り直した」と実感できるほど壊れている物でなくてはならなかった。ちょうど、底に気持ちが良いほどの穴があいていて、表面の板が素敵にはぜているとても小さい故障した小舟があったのである。少年は知らなかったが、それは水面を走るための舟ではなく、荷物を積んで水に浮かべ岸辺から綱で引っ張って運ぶ荷運用の道具だった。だが10歳の少年がひとり乗るにはちょうど良い大きさだったし、少年がしたかったのは川をくだることだったから、そんなに流線型のものでなくても良かった。少年は、ずんぐりしたその舟の形がとても気に入った。

 

 それから4日間、少年は老人の木師小屋の裏で一心不乱にボートを作った。新しい板をハング老に幾枚か分けてもらい何ヶ所もの小舟の底の穴を塞いだ。少年の腕ではボートの表面に釘を打ち付けられないところもあったが、ハング老は力強い腕で見本を見せ、少年は感嘆しながらそれを学んだ。少年の腕は修繕に不十分なところも多かったに違いないが、ハング師は細かいことは言わなかった。失敗することも重要なのだ。日差しは強く黄色く学ぶ少年に向けて照りつけ、河原の背の高い葭の叢からは無数の小鳥の囀り声が聞こえていた。


「できた!」


 少年は小声で叫んだ。本当に遺漏なく修理できたのかは少年にも自信はなかったが、少年の目からはあとはどこに手を加えたら良いのか分からないくらいにはできたのである。少なくとも最初の状態は壊れた小舟だった。今は水に浮かびそうに見える。今日は日が明けると同時にここに来たが、すでに日は落ちかけ、草むらからは夜啼きクイナの騒がしい声が聞こえる。この4日間の少年の集中力はめざましいものだった。少年はその出来をまだ師匠には見せないことに決めた。それはもっとあとだ。褒められるほどのものを作れるようになってからだ。


「よし、あすのあさ、進水式をしよう!」


 その夜は興奮でなかなか寝藁に入ることができなかった。計画通り愛用の小さな背嚢に濡れたときの着替えや小刀や磁石や長めの丈夫な細縄や非常食などを詰め、見知らぬ川の先の森の中にどのようなものが待ち構えているのかを思い浮かべてわくわくした。あすは謎が解き明かされる日である。眠れない、今日は決して眠れないと思いながら、少年はいつしか眠りに落ちてしまった。

 日が出る前に起きる。農家の朝は早い。大母屋はすでに大勢の人で賑やかだった。少年もいつもの通り、母の料理の準備の手伝いや、父たちの耕作の用意を手伝った。大冒険に備えいつもよりたくさんの朝食をおなかに詰めた。朝食の後片付けのあと、いつもどおり幼い弟に遊んで遊んでと絡まれたが、きのうと同じく振り払った。いつか3人乗りの舟を作って、お前も妹も乗せてやるからな。

 《かっこうの刻》(=昼10時頃)に姉と母に「今日も自分の畑へ行くよ」と言って家を出た。畜舎に行って、勝手に牛を一頭と荷馬車を引き出した。牛の名前は“小長尾丸(あお)”、仔牛のころからエニステが可愛がっている耕作牛である。小長尾丸の腰と肩に荷車をつなぐ皮帯をつなぐと、いつも繋いでいる牛(すき)とは違う重さに愛牛もびっくりした様子だったが、少年は牛を木師の作業場までひっぱっていき、荷車に小舟をのせた。よしよしアオ、ちょうどいい大きさだぞ。そしてゴトゴトと牛と一緒に、少年は舟を自分の畑まで運んでいった。


 エニステ少年の小さな麦畑は、父の果てしなく広大な農場の片隅にある。平原に数多く点在する地森のひとつ“青鳥の森”と呼ばれる小さな森の影となった窪地を少年が自分で耕して作った小さな耕作地であるが、その森が今回の少年の冒険地だった。

 この地方の農家では、子供が物心つく前から土を耕させることを始める。土地が極めて肥沃なこの地方では、耕せば耕すほど裕福になる。自然、人々は勤勉で豪快で楽天的だ。加えて未耕作の土地は無尽にあり、誰にでも耕しを許す優しい包容力が大地にあり、子供にもまず「自分の畑」を作らせることがこの土地の教育の仕方なのだった。3人の年の離れた兄たちもすでに広大な麦畑を所有しており、それに憧れエニステ少年も良く手伝いをして広く学び、この歳にしては良い麦を作れるようになっていた。この一周間ばかりは少年も舟にかまけてまともに働いていなかったが、少年の真面目な集中力は家でもよく知られていたため父や母たちは小さな息子のことを全く心配していなかった。

 だが少年の好奇心は家業同様に、他のさまざまなことにも向けられた。

 少年がここに畑を耕し始めたのは1年半前のこと。やがて自然と畑の横に静かに聳え立つこの小森が気になるようになった。この平原には森が点在し、大きな森から小さな森まで様々だ。少年の畑の横にあったこれは、他と比べてそれほど大きな物ではない。だが明らかに何かが他の森とは違った。

 気候が温暖で陽のよく照りつけるこの地方にあって、この森は一歩足を踏み入れるだけで不自然にひんやりとした空気が少年を取り包んだ。外の太陽の下では無数に小鳥が舞い遊んでいて騒がしいほどなのに、森に入ると鳥の気配が全くしなくなった。空気は冷たくぴりぴりしている。外に出て森の周囲をぐるりと歩いてみると少年の足でも一周巡るのはそれほど大変ではない。4刻もすれば完歩できるぐらいだ。全く小さな森と言っていい。ところが、少年の畑の横に流れている小川ともいえぬほどの大きさの川はその隣の森の中に流れ込んでるのだが、周囲を歩いてみて初めて分かったことだが、反対側からもその川が流れ出している気配は全く無いのだった。

 この畑の川はいったいどこに吸い込まれているのか?

 そう思うと、この森は不思議なことだらけに感じられた。生えている木が他の森とは違う。温順で陽光溢れる地方であるのに針葉樹ばかりが多いように感じられた。木の密度もかなり高く、密林ともいっていいくらいだ。針葉密樹林。木の間には白と青の名前の知らない花がたくさん咲いていた。また、泳いでいる魚もかなり大型のものばかりだ。だが大きな魚は陽のあたるところまでは出てこない。あの魚たちを釣れる場所があるだろうか。少年の畑から森に入る川の先を覗き込むと、奥は闇暗く、怖ろしい気配を感じる。

 この森は何かある。

 そう思ったことが、少年の冒険のきっかけなのだった。この川の流れる先を見てみよう。


 新しい彼の小舟は充分にこの川に入っていけるように見える。この渓流は決して小さくも浅くも無いが、広くも緩やかでもない。この舟より大きかったり底が深かったりする舟では、決して乗り入れられないだろう。この大きさが一番だったのだ。すでにハング爺さんの小屋の脇の水辺で、この薄い床板から容易に水が浸み入ったりしないかは実験済みではあったが、少年はごくりと喉を飲んで、自分の舟を水に入れた。


「よし、舟の名はうなぎ丸だ!」


 細い流れでもうまくすり抜けられるようにと咄嗟に命名し、その名前を大声で宣言すると、少年は勢いよく足で岸を蹴って、小舟に飛び乗った。ざんぶっっ。反動で小舟は右へと左へと大きく揺れ、激しく水しぶきが上がった。加えて水の流れも少年が思っていたよりも強く、凄い勢いで舟は暗い木の中に一瞬で吸い込まれ、周囲が暗黒になったので瞬間的に少年はパニックにおちいった。舟の揺れはとてつもなく激しく、ざぶざぶと容赦なく水しぶきが両側から襲いかかり、舟はくるくると回転し岩にぶつかり波にもぶつかって水の中に叩き落とされそうな感じだったので少年は必死に舟に掴まって揺れを抑えようとした。嵐のような流れから突然見たこともない醜怪な魚がジャンプして少年の顔に当たり、落ちて膝の上でびちびちとのたくった。同時に足の間からじんわりと水がしみ出してきて舟はキシキシと不吉な大きな叫び声をあげ、渦のような激しい揺れの中で少年は恐怖に襲われた。ああ、やっぱりこの舟は失敗作だったんだ! 穴があいてる!

 そう絶望したとたん逆に冷静になり、猛烈な流れの中でうまく安定をとって、なんとか上陸できるところを目で探せるようになった。よしあそこだ、上陸だ。いったん収めないと沈んで溺れ死ぬ!


 運よく岸辺に舟が寄り、流れの勢いが減じたところを舟から飛び降りると、必死で大事な舟を手で引き寄せた。成功。本当に運が良いことに、少年が飛び降りたところはこの森の中でも数少ない砂地だった。少年の認識ではかなり盛大にもみくちゃにされ、勢いよく流されてきたつもりだったが、実は時間としては一瞬なものだった。森はまだそんなに深くはない。川の流れは激しく黒く、絡み合う枝の細い木々も不気味だった。ここから歩いて畑まで戻れるだろうか、舟も持って帰らねばならない。だが、こんなことがあろうかと、少年は背嚢に小鉈を忍ばせていたのだった。

 それから何(じゅん)も魔物のように少年に抗う藪と格闘し、ようやく森の外へとまろびでた。見事に小舟も一緒に縄で引っ張って。すでに夕刻で日が落ちるまぎわで空は赤くなっていたが、外に出たとたんに温かい空気が少年を包み、エニステは思わず泣いてしまった。冒険だ! ぼくは冒険をしたんだ。

 

 実は水から上がった岸辺で暗い中で自分の舟を点検すると、少年が思った以上に水が浸み込んだ部分は大きくなかった。あの水は少年の両側から入り込んだ波だったのだ。ぼくの舟はちゃんとじょうぶにできてたんだ。少年は自信を持った。

 それから畑の岩陰にウナギ丸を安置して、(アオ)を連れて疲れ果てて家に戻ったのだった。

 家にはいつもより少し遅い時刻についたが、母には、あのとき舟にとびこんできた大きな魚を渡した。

「まあ、紅川鱒ね! 大きいわね!」 のちに“鉄璧の母”と呼ばれる事になる30歳の母はとても喜んだ。



 それから5日間は、少年はおとなしく畑仕事をした。

 少年が自分の麦畑で作っているのはハト麦とカラス麦で、それらは本当は手をそれほど加えなくても良く育つ作物であるのだが、叔父や爺たちや近くの賢老に聞きこんだ話から少年なりの工夫をし、“通常より三倍美味しい鳩麦”、“100の用途に使えるカラス麦”を育成している最中だった。今はちょうどその収穫の時期だったのである。実はこの少年は年に比してかなり勤勉な働き者で、畑に来る日は朝起きてから日が沈むまで、一心不乱に作物の世話をしていた。この地方では一日の食事は朝と夜の二食だけというのが基本なので昼食時間というものはないが、昼頃に1刻ほどある《午睡》の時間にだけ大事な“うなぎ丸”の補修をした。母には出来の良い鳩麦の鳩豆を選んで毎日持ち帰った。喜んだ母は5日間続けて鳩麦の粥を煮込んで夕食に出してくれた。母が作ると香ばしい鳩肉の焼けた脂の薫りがとりわけ濃厚で、とてもおいしかった。

 5日後にふたたびまた旅立ちをする準備がととのった。

「こんどこそ!」


 前回の反省を活かし、船底には厚い麻布を敷いた。船縁には手すりにできるよう大きく穴を空けた板を打ち付け、激しく大きな揺れでも掴んで安定を素早く保てられるようにした。前回何度も川底の大岩にぶつかり、船底が窪んだ箇所が何ヶ所かあったので、水の浸入を防ぐ為にも牛の(にかわ)を厚めに塗っておいた。森の中は暗いので、屋根裏からランタンと臘を持ち出し、水で濡れないよう油紙で丁寧にくるんで背嚢に入れた。


 今日の冒険も前回と同じ《ひたきの刻》(=昼11時半頃)。

 こんどこそ森の中の川の先を見てみよう。森の中で川がどうなっているのか見るのだ。二度目なので以前よりは冷静な気持ちでしかし胸の高鳴りを前回より激しくさせながら、少年はボートを手で押さえ、力強く岸を蹴った。いい感じ! 流れはとても速く、揺れもしぶきも川底を擦る川中の岩の感触も前回よりも険しかったくらいだが、少年はうまく小舟を操っていた。すぐに前回上陸した岸辺を通り過ぎた。見覚えのある砂地の脇の蔭に見え覚えのない苔むした石像か何かが一瞬見えた気がしたが、瞬間的だったのでよく分からなかった。川の流れはますます速くなった。川幅は急に広くなったり、両側から巨岩がせり出していきなり狭くなったり。蛇行もかなりあり底に何かがぶつかることも多く、一瞬たりとも気が抜けなかった。周囲を眺める余裕など一時もなかったが、木々は大きくなり蔓が絡み合い、空気はますます冷たくなった。どのくらい流されてきたのか。船縁をつかむ手が痛くこわばりそろそろ少年が揺れと回転と舟のきしみ声に堪えきれぬくらいになってきたころ、突如川幅が広くなって、それなのに流れが加速した。必死でしぶきの中の前方を見ると、なんてことだ。滝が見える。前方に崖がそびえていて、上の方から激しく水が注ぎ込んでいるのだ。それもたった一筋ではなく、右からも左からもゴウゴウと水が流れ落ちている。だとするとその地点は淵であるはずなのに、ボートを流す水流は力強く渦を巻きながら、あちらこちらへとゴツゴツと岩にぶつかるように進んでいった。


 「ど、どうしようどうしよう!?」

 動転したあおりでのけぞった顔に図太い槍の如く突き刺さる陽光と降り注ぐ水しぶきに目をしばたたかせながら必死で前方を見ると、少年が今乗っている流れはとんでもない蛇行をしながら両側から濛濛と流れ込むいくつもの滝の流れを吸収し、泡立ちながら激しく流れている。その先には小山のような波と水しぶきの立つ箇所が見える。ここは危ない。ここで水に放り出されたら絶対に助からない。

 と思ったとたんに、先程から危ない状態であった小舟はいきなり分解しはじめた。

 突然足下を洪水が襲い、床板が抜けた。


 水に放り出されたエニステ少年は必死に水を搔いた。一瞬足下の黒い水の流れに足をつかまれ、水の底深くに潜り込み、水を多く飲み込んでしまった。背嚢の中には小鉈が入っている。その重みに引き連られて深く沈み、慌ててばたばたもがいているうちに身体が浮き上がり、しかし再び猛烈な流れに巻き込まれ、ぐちゃぐちゃに揉み潰されているうちにいつの間にか岸辺に打ち上げられていた。

 しばらく、息をすることも身動きすることもできなかった。

 やがて、そろそろそと起き上がってみると、そこは弓状になった砂地だった。背後にはすさまじい音をたてる流れがある。運が良いことに、少年が溺れた箇所は大きな流れが小さく分断され、いくつもの水流に分かれて蛇行を繰り返している箇所で、本当に運が良いことに少年がちょうど水面に浮かび上がった途端に高波に身体が押し上げられ、更にそこに横からの強波がいくつか襲いかかって少年の身体は横に飛ばされ、そこにたまたま砂浜があったのであった。


 「ふう、危なかった。頭にお守りをつけてなかったら即死だったよ」

 ぶるぶるとした気持ちで、つい先の一瞬まで自分の身体を蹂躙しまくっていた強い力を思い返すと、いまこうして砂地に座っているのは奇蹟のような気がした。少年は後ろ髪に、2年前に母が作ってくれた農耕神の小さな守り飾りをしばっていたのである。とりあえず今日死なずに済んだのは、このお守りのお蔭だと思うことにした。

 どのぐらい流されてきたのだろうか。

 確かに前回よりは遙かに長く流されたはずである。流れはとても速かった。少年の認識では、自分の畑の隣りにあるこの森はそんなに大きくなかったはずだったから、本当にわけがわからなかった。この森は一体どうなっているんだろう。周囲を見回すと、非常に不思議な光景であった。空気は完全に深い森の物で、冴え冴えとして凛として、巨大な針葉樹と密生した藪が取り囲むように生い茂っているのだが、川の流れはとても広く、幾筋にも分かれて蛇行して流れ、流れと流れの間に島もいくつもあるため、とても広大な空間に見える。深い緑の木々と、赤い太陽の光と、黒い水の流れと、白い花々と、群生した黄色い茸と、蒼い滝と、赤茶けた岩々と黄緑色の背の高い苔が光景を作っていて、異様な空間に思える。周囲に不思議な香りが立ちこめているが、これはこの変な小さい黄色い茸から立ち上っているのだろうか、と少年は思った。身体と服はぐっしょりと濡れて、水は冷たかったはずだが、不思議と寒さは感じなかった。地形は複雑な高低差を見せていて、いろいろな箇所からこの場所に滝となって流れ込んでいる。囂々という水の音に、上空から燦めくばかりの陽の光が差し込んでいる。川はさらに先まで進んでいる。


 「いったいこの川はどこまで続いているんだろうな」


 そう思って今いる砂地から、聳える岩をのぼって先を見ようとしたとき、少年は目の先に、奇妙な形の岩の固まりの組み合わせがあるように思えた。「…あれってお城?」 なんでこんなところに。と思ってさらに岩をよじのぼり先に進もうとしたとき、下手の別の砂地の蔭に、少年と同じように打ち寄せられた数々の物を見つけた。その中に。「うなぎ丸っ」 残念ながら少年の大事な舟はばらばらに砕けていた。もう修復するのはかなりの骨だろう。だがさらにその先に、さらに少年が追い求めていた物、少年がこの冒険に出たきっかけとなったものが転がっていた。少年の大切な宝物。黄金の大鹿丸。

 10日前、大好きな長兄エニタロウが都から戻ってきて、少年におみやげをくれた。それが精巧にできた木の模型の船。嬉しくて嬉しくて嬉しくて、船の頭についている大きな二本の枝分かれした衝角の形から、“黄金の大鹿丸”と名付けた。真新しい木の香りと両手にずっしりとくる重さが気に入って、これはずっと宝物にしようと思った。寝るときも畑に行くときも少年はそれを離さず、畑仕事の合間に畑の脇の淵で進水式をおこなったのだが、なんと、いきなりそれは流れに攫われて森の奥へと消えてしまったのだ。もらって一日しか遊んでないのに。流れなんて全然無い安全な淵だったのに。「取り戻さねばならない。でなければ兄と遊べない」。

 それがきっかけで、なんという冒険だったろう。今となってはこの森の秘密の方がいちばんの謎となってしまったが、舟は見つけることができた。あとはあれをどうやって持ち帰るかだ。そのあとにこの先にある岩のお城(?)の秘密も解き明かしてしてみよう。


 「……っ!?」


 目の前の岩を登って左手の岸辺に降りようとしたとき、少年はいままで全く気付かなかったものがそこに座っているのを見た。一瞬背中がぞわっとした。じっとりとした濡れた気配がそこに澱んでいた。それは少年をじっと見つめていた。

 少年が流されてきた場所は、幾筋の川の流れが巨大ないくつかの岩によって蛇行を余儀なくされそれによってできたたくさんの小さな砂州のひとつで、目の前の岩場を乗り越えて行こうと思ったのだが、その岩を傘のようにして覆うような形で広い松が生えており、その影の真下の岩の上に、こつんと座るような感じで異様な人がこちらを見つめていたのである。


 まさかそんなところに人がいるとは思わなかったから、少年の驚きは大層なもので、思わず後ろへよろめき腰が抜けそうになった。「あ、あ、、ああ、、」 自分の口からは変な声が漏れた。その人に声を掛けようか悲鳴を上げようか農耕神に助けを祈ろうか自分でもわからぬまま、結局変な呻きしか出ないのだった。

 その人はざんばら髪でぼろぼろになった垢銹びた服を着て、前屈みになって両足を開き手をだらんとさせて岩の上に乗っており、口は半開きで無表情のまま、大きく暗い目でこちらを見つめていた。小さな背であるが放つ気配は力強いものがあり、少年は威圧された。それに気付いてしまったとき、思わず少年の足は後ろへよろめき、岩場からもつれて下の黄色いキノコの絨毯の上へ仰向けに倒れてしまった。あわてて身を起こすと、小さな人は先程よりも大きなまなこでじっとエニステを見つめていた。

 話しかけるべきなのか、さりげなく振る舞うべきか。でもこんなところにこのようにいる人なんて尋常な人じゃない。不可解な感覚に襲われてエニステ少年の身体はぶるぶると震え、恐怖におしっこをちびりそうになってしまっている。怪人の脇を通ってその先にある大事な舟まで走っていきたかったが、いくら念じても到底自分の足が動かなかった。やがて、舟への愛着よりも畏怖心の方が勝り、混乱に爆発した頭でようやく金縛りから足を解放させ、後ろを向くと必死に逃げ出した。転ぶ。変な人が後ろを追ってこないかと恐怖したが、大丈夫だった。だが少年は舟を失ってしまったのである。


 もがくように後ろに向けて走る。やがて身体が自在に動くようになり心の中の恐怖心も減じてきた。いったいあれはなんだったのだろう。変な人の姿が見えないほどの距離まで逃げてくると、もう全然平気な気がした。だが、もう一度あそこまで戻る気にもなれない。家に帰ろう。ぼくは冒険に失敗したのだ。

 背嚢から小鉈を取り出して、ばっさばっさと藪を切り払って、家があると思われる方向に進む。この川の上流へ進めば良い。幾筋にも分かれていた川の流れをさかのぼっていくのは大変なことだったが、勇気を振り絞って岩をよじ登り、流れを飛び越え、藪を切り開いて先へと進んでいった。

 見覚えのある砂地(=前回少年が上陸したところ)にたどり着いたのは二昼夜が過ぎた頃だった。この森がこんなに大きいとは知らなかったが、ここまで来れば無事に家まで帰れる。帰途には、名前も知らぬ木の実を食べて腹を満たしてきたが、もうおなかがペコペコだ。母の作った料理が無性に懐かしかった。来るときに見たここにあった変な石像のことは、もうすっかり忘れていたし、目に入らなかったので全く気付かなかった。前回作った自分の道がまだ残っていたので、そこからは安全家に帰り着くことができた。

 

 この地方は治安が良く、猛獣もいないし盗賊も出ないまことに安全な地域なので、少年は2日間家に帰らなかったのに関わらず、家では誰も心配していなかった。母は、息子は近所の友達の家に泊まりに行っていると思っていた。あのとき必死で背嚢につめた黄色い茸を母親に渡すと、「タモギ茸ね!」と母はとても悦び、即座にキノコとウグイス麦の煮粥鍋を作ってくれた。エニステ少年はそれを自分の屋根裏部屋に持っていって食べながら、熱く香ばしい香りの中で、いまさらのように押し寄せてきた安堵感に泣いた。

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