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花少女  作者: tei
9/33

2-3

「そう、九条さんが」

 妹は、懐かしむようにそう言って微笑んだ。

 病室には大きな窓から差し込む日の光が満ち、まるで琥珀の中に閉じ込められでもしたかのような気持ちになる。晴れ渡った、穏やかな午後。寒く、冷え切ったような院内にあってここだけは、隠された秘密の庭のごとくに輝いていた。妹はその光の中、寝台に半身を起こしていた。去年ここに来た頃には寝台から立って私の傍に座り話していたものだが、もう二ヶ月近く、妹が積極的に立ち上がろうとするのを見ていない。何とはなしに寂しい気分に襲われつつ、私は妹に肯いて見せた。

「心配そうにしていたから、安心するように言っておいたよ。そう、今度見舞いに来ると言っていた」

 無邪気な笑顔をたたえた九条円を思い出し、私は心に平穏を取り戻した。

「そうなの。楽しみだわ」

「九条さんとは仲が良いのかい」

「ええ」

 妹は短く答えて、ふと窓の外を見やった。彼女の視線の先には青空が広がっている。私はつられてそちらに目を向ける。妹は薄い青一色の空からついと視線を逸らし、窓から見える範囲の下方へずらした。確かそちらには、桜があったはずだ。

 妹は、桜を見つめていた。

「お兄様。ほら、ご覧になって」

「なんだ」

 妹の身体を覆うようにして、私は身を乗り出した。窓の桟に手をかける。暖かい、どこか霞がかったような、埃が立ったような、そういうぼんやりとした空気の向こうに、桜の古木が見える。妹ははしゃいだ声を上げた。

「もう、花をつけているわ」

「桜が?」

「ええ」

 勿論、と言うように、妹は肯いた。ほらあそこに、と、妹の指が窓越しに、桜の枝のある一点を指す。宮子とは違うその爪の先に、成程確かに、可憐な花弁が懸命に枝にしがみついているのが見えた。時折強く吹く春風に吹き飛ばされそうになるが、かろうじて耐えている。妹は嬉しそうに笑った。

「良いわね」

「桜の花がか?」

「ええ。春が来た、とようやく分かったわ」

 ああそうか。

 妹の言葉は、私の中にすとんと落ち着いた。

 妹は、桜の木を毎日、ここから眺めていた。それは単なる暇つぶしではなく、彼女にとって見れば、病院の外の世界の移り変わりを把握する、唯一の手段でもあったのだ。暖かくなり雪が溶け、やがて春が来、桜が咲く。

 妹は窓を開けることも禁じられている。だから、毎日窓の外を見続け、私や宮子、正二らが普通に通り過ぎてしまう景色から、世界を感じ取っていたのだ。

「そうか。……それは、良かったな」

「ええ」

 妹は心底から嬉しそうに、私に笑いかけた。

「春は好きだわ。何だか全てが新鮮に見えるから」

 窓の外に目を向けたまま、妹は寝台の上で呟く。そして、すぐにまた明るい調子を取り戻して、私に向き直った。

「そうだわ、お兄様。家の庭に、今年も蝶々はやってきましたか」

 蝶々。

 その言葉に、私は胸を打たれた。毎年私の家の庭に咲く花々に、紋白蝶や紅蜆、時たま揚羽蝶などがやってくる。ひらりひらりと舞う蝶々を一生懸命に追いかけていた、幼い頃の妹の姿が、春の日差しとともに目蓋の奥に焼きついて消えない。

 今年はまだ、雪解けが遅かった所為か、花どころか芽も出ていない。庭にはまだ、生命の訪れる気配がない。しかし、それを妹に言うのはどうしてかためらわれた。なんだかそれを口にするのは、とてつもなく残酷なことのように思われてならなかった。

「お兄様?」

 妹は首を傾けて、私を見つめている。

「ああ、……。そうだな、今年も、蝶々たちが花に群がっているよ」

 私は、ささやかな嘘を答えた。妹の中の春を壊したくはない。蝶々がたとえ現実には存在していなかったとしても、寝台の上で見る夢の中に、寂々とした庭を登場させたくなかった。妹にはせめて、彼女の願う春の庭を贈りたかった。

「そうなの」

 妹は目を細めた。

「揚羽は、やってきまして」

「揚羽……は、未だ来たらず、だ」

 ああそうだった、と、私は一年前までの妹を思い出す。そうだ、妹は特に黒揚羽が気に入っていたのだ。橙色を想起させる春の空気を切り裂くように飛ぶ、黒揚羽を見るのが、彼女の楽しみだった。私が取ってきてやると、それでは面白くないと言って、また庭に放しに行ったそのときの表情を、今でも思い出せる。

「お前はそういえば、黒揚羽が好きだったな」

「そうよ。だって、珍しいのですもの」

 私はふと思い出して、寝台の傍に置かれた机を見やった。そこには未だに、この前渡した林檎が鎮座していた。大分熟してきたらしく、微かに芳香を漂わせている。この間来たときよりも、ここになじんでいるらしく思えるのが不思議だった。

「ああ、その林檎。お兄様、お召し上がりになりたいの」

「いや、違うよ。いい香りだね」

 私の言葉を聞いて、妹は途端に可笑しそうな顔をした。

「なんだい」

「いえ、ただ、お兄様も林檎を見る目を獲得なさったのかしらと思っただけよ」

 そう言って、くすくすと彼女は笑った。吊られて、私も微笑む。元のように座りなおそうと窓から身体を遠ざけ、妹の身体の上を行過ぎるとき、ふと林檎とは違った香りが、ほのかに香った。香水、ではない。妹はそういうものをつけるような年齢には、達していない。では何だ。

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