三章 二重奏と虫食い穴 ~前編~
――『屠られた小羊よ』
そう、声が聞こえる。
語りかけてくる声に覚えはない。いや……夢か、これは。
明晰夢と呼ばれる、夢だと分かっている夢。こんな現象に出くわすのは、初めてだ。
その声はやまない。
それどころか、どんどん大きくなっていく。
『力、富、智恵、勢い、誉れ、栄光、賛美。君はそれらを得るに相応しい』
聖書……だったか。確か、黙示録の第五章。
昔、面白半分に時雨が読んでいた。無神論者が多い日本人の中、普及するほどの面白さがあるかといえば、そうじゃない。宗教なんて、無宗教者からすれば妄言に似ている。
事実無根な奇跡なんて、あるわけがない。信仰が足りないからと聖書を手渡した男が言っていたが、そんなもんで人が救えりゃ世話無い。もしそうなら、寝食忘れて祈ってやろうとも。
まぁそれはともかく、何故聖書の内容が自分の中で語りかけてくるのだろうか。
『御座にいる私は、人間らしく迷い、憂う君に恋をした。だから、賛美、誉れ、栄光、権力。好きな物を一つあげよう』
ここから、聖書とは違ってきた。
状況から鑑みるに、神様が好いてくれているらしいが、生憎そんなもの信じていない。
信じていないものは存在しないし、存在しないものから何かを受け取ろうとしても、前提条件で破綻する。
『私も君の死は望まない。小羊は黒山羊となり、牙折れた獅子はその牙を取り戻した。後は、再び出会うまで、私は君には会わないだろう。女神の加護を、君に――』
眩い光の中――女性が、微笑んだ気がした。
頭に瘤をこさえたフローレンスは、涙目で恨みがましく哉徒を睨み付けている。
哉徒もまた憤然と、しかし顔を赤くして、照れ隠しでもするかのように大股で歩いていた。
「酷いです。実体化してまで、添い寝をして差し上げたのに……」
「……携帯に入っていたはずのお前が布団の中に潜り込むくらいなら許せたけどな、ベッドからオレを蹴落として、目を覚ました瞬間に肘から鳩尾に降って来るってのはどう言う了見だ? あぁ?」
「寝相の悪さに定評のある私。素敵?」
「オレの表情から察しろこの馬鹿野郎が」
と、携帯電話に通信が入る。
「こちら、『黒山羊』」
『『紅射手』だ。『藤乙女』より通達。殲滅の特務が下った。俺とお前でやるぞ。詳細は行きながら話す』
「了解」
疑問に思いながらも、通話を切る。
頭を冷やせと言われた割には、かなり早く任務が降りた。どう言う心境の変化かは知らないが、仕事をしていると何も考えないでいい。
溜め息を吐いたこちらの顔を覗き見上げ、フローレンスは首を傾げた。表情がお世辞にもあるとは言えない顔だ。
「お仕事ですか?」
「そうだな。やれるか?」
「付き従うだけです」
「思うところとか無いのか? 今から、俺は未確認生命体を殺す。その片棒を担ぐんだぞ」
「私はずるい女ですから。生きている意味を……御主人様に一任しております」
「じゃあ、俺が死ねって言えば死ぬのか?」
こんな子供のような論争は嫌だったが、訊いておかなくてはならない。
彼女が命に対して、どう言う物であるか。本人を知ると言う事は、その本人の価値観を知ると言う事と同意義。彼女と言う人間は、これで想像がつく。
結果、
「はい」
躊躇もせず、そう頷いた。
リアクションに変化は無い。ただ波紋の無い湖面のような瞳で、こちらを淡々と見据えてくる。
――何故だか、物凄く不愉快。そう、不愉快だ。
命を軽んじているから? ――否。そんな事で不愉快にはならない。
人の命令に躊躇も無く従うから? ――否。近いが、決定的ではない。
それが近いならば……
――ああ、そうか。意味を求められるのが嫌なのだ。
「……オレは死にたがりの人間だ。お前に、生きてる意味を求めようとした」
「私は貴方と一緒にいたい。物を大切にしてくれます。私は、貴方に従いたい」
通常時なら赤面するような台詞を、彼女は堂々と言ってくれる。
けれど、恐ろしいまでに高揚感は無い。ただ、疎ましい。
「とんだ誤算だったよ。オレはな……死にたいんだ」
「嘘ですね」
ピシャリと、彼女はそう言い放つ。
「貴方は生きたい。生きたいから、意味を求めているのでしょう。貴方は考える事を放棄しているだけ。……怖いんですか?」
そう言われ、体の中に何か電流のようなものが駆け巡る。
焦燥感が沸き、心が乱れていく。まるで子供のように制御が利かず、感情に振り回されていく。
「ち、違う……怖くない。死ぬ事なんて!」
「死ぬ事が怖いんじゃない。……親しくなった誰かが、死ぬのが怖いんでしょう? ハッキリ言いましょうか、馬鹿ですね」
「な、に……!? テメェ、昨日今日会ったヤツが、何を!」
しかし、彼女は手でそれを制した。
静かな眼差しを哉徒に向け、ただ真っ直ぐに見つめている。その瞳には、ちゃんとした揺らぎがあった。
「……ずっと、見てきました。時空間と世界線……その狭間で」
「じゃあ、何があったか言ってみろよ! そんな適当言って、同情誘ってんじゃねぇッ!!」
そう、ゴメンだ。
過去を知っているはずが無い。初対面だ。しかも機械の。
それに時空間だの世界線だの、与太話を前提とした会話でなんて……どこまで馬鹿なのだろう。
いや、違う。逆に本当なのかもしれない。そうでなければ、堂々とそんな事を言えるはずが無い。
嫌な予感へ拍車を掛けるように、フローレンスは呟いた。
「八哉徒。両親既に他界。義理の妹が存在しますが……ああ、新しい母親が嫌いでしたね。無視しています。過去、借金持ちの女性に恋をし、片を押し付けられようとした」
最初の方は調べれば出てくるかもしれない。けれども、借金の片なんて台詞は、あの状況を間近で見ていないと……絶対に言えない。
分かりきっている事を否定したくて、首を横に振る。
「違う! オレと彼女は……ちゃんと、二人で生きて行こうって……!」
「馬鹿みたいに啓蒙なんですね、素敵です。ですが、利口ではないですね。……その点で言えば、あのクソ野郎は法に背いてはいますが、正しい事をしました」
彼女を殺したのは、高宮時雨だ。それが……正しい? 人を殺す事が、正しいだって?
「法に背くのが……殺すのが正しいってか!?」
「それなら軍人になる事を是とした御主人様に矛盾を問いたいところですが。まぁここで哲学的な問いをしましょう。『正義』とは、何ですか?」
――正義?
「個人によって異なるが……。自分の信念を貫き通す事。それを決めるのは自分であって、法じゃない。法は正義の基準を決める。法というのは、個人の越権を懲罰するもの。人を殺すのは、越権行為だ」
「それは貴方の見解。あのクソ野郎の見解は、こう。『人に権利なんてねぇ。自分がしたいことをすりゃ良い。ただ、責任は伴う。法とは、公にその責任を決める一種の方法で、罰はそれが決めるもんじゃない。世間一般の基準としては機能しているが、金を渡せば軽くなるなんてものに頼るのは罰とは言わないだろ。そもそも、善悪の観念なんざ知るか。俺がやった、事実としちゃそうだろ』です」
「いや、権利がある!」
「だから、貴方が最初に言った通りです。個人によって異なります。真理ですね、流石です」
「……何が言いたいんだよ」
「簡単です。全て、決めるのは貴方。そして私は、貴方の道具です」
何を思ったか、早足に歩き出すフローレンス。
擦れ違い様に見た、揺れている瞳。波紋を作る感情は――分からない。でもそれは、彼女を今、強く揺り動かしている。
「上手く、私を使ってください。生きる理由でも何でも構いません。ただ私は、貴方を死なせない。それだけです」
先に格納庫へ行くフローレンスを哉徒は呆けて眺めていたが、ふと我に返り、彼女を追った。
『ガウェイン』の中は、暗かった。
フローレンスが飛び込んでいったのは見えたが、彼女の姿はどこにも見えない。
携帯電話を光源として探っていくと、そこに操縦桿が二つあった。
それを握ると、突然指が固定され、楽な姿勢へと強制的に体が動く。頭にはヘッドギアのようなものが被さって、全身を突き抜ける一瞬の痛みを伴いディスプレイが起動。その後、自らの視点ではなく、ロボットのモノアイからだろう。その視線が何故だか見えている。
『御主人様。これは神経フィードバックシステムです。脳髄と視神経を機体にコネクトし、痛みを排除した形になっております。ただ、延長神経が切られた場合、凄まじい痛みが伴います。ですが、これの利点は人間の動きをほとんど行う事が出来ると言う点や、気配なども伝わってくる事です。これは便利。褒めて下さい』
「いや、作ったのお前じゃないだろ……」
『あんまり気にしてると、ハゲますよ。むしろハゲてください。いっそ夜にこっそり脱毛でもして見ましょう。そこで一言、ハゲても愛してます。ああ、なんて健気な私』
「ハゲねぇよやらせるかよてか自作自演だろうがこの馬鹿」
ワケの分からないやり取りを交わしながら、感覚を確かめていく。……コンマ程度のラグがあるものの、ほぼ思い通りに動く。ストレスも無い。これは……確かに凄いか。
だが、気になる点がある。
「飛ぶときはどうするんだよ」
そう、人間は翼を持たない。
跳ぶ事は出来ても、人単体では飛ぶことは不可能だろう。概念が無い以上、フィードバックでそれをするのは無謀に違いない。
しかし、そんな懸念はどこか自信たっぷりの鼻息で一蹴される。
『私はその為の擬似AIです。行きたい場所へ、脳波を通じてスラスターや各部機関、バーニア等を操り、命令頂ければ搭載しているビームビットを使っての援護も出来ます。私、カッコいい!』
「……ああそうかい」
テンションが高いのか低いのか……サッパリ分からない。
『ああ、通信です。紅射手より。開きますか?』
「頼む」
ふと、耳に直接声が届くような感覚。
「今回は楽らしいぜ。新兵達の御守だとよ。陰から見守り、危機が発生した時にのみ、姿を現して敵を叩く。OK?」
「特務了解」
短くそう返して、ケヴィンに訊ね返す。
「ケヴィン。司令は何か言ってたか?」
「ああ……また何かしたろ、お前」
「……というと?」
「お前は前衛に出すなとさ」
――近接戦闘メインのこの兵装で?
フローレンスも疑問らしく、そそくさと何か通信を繋げているようだった。すぐにラヴィニアのポップアップが浮かぶ。
フェイスチャットと似ているか。リアルタイムでその人の感情の動きを察知し、画像が変わる。今の画像は――青筋を立てた笑みだった。
「おや、何か質問ですか?」
「いや……この装備でバックアップを命じるなんて、その形でボケが始まってるのかなぁなんて心配を」
「誰がロリですか!」
「言ってない言ってない」
皮肉は通じず、何故か身体的特徴に怒るラヴィニアだった。
「暗にそう言ってたがな……んで、俺もそう思うわけさ。司令、今回は遠距離の兵装を持たせてやってくれ」
小声でこっそりと呟きながら、ケヴィンがそう提案してくれる。見たところ、ガウェインは何でも適応できそうだ。
「許可できません」
「なら、乗り換えは如何でしょうか?」
「……それぐらいなら」
提案はすんなり受け入れられ、気を利かせたフローレンスが神経フィードバックとやらを解除してくれる。その時も、一瞬だけ痛みが生じた。
頭を押さえながら、内部で痛む何かに舌打ちし、フローレンスを睨みつける。いや、どこに居るのか分からないので、気持ちだけ。
「この痛みは何だよ」
『神経接続の際に生じるものです。本当は自然にリンクするらしいのですが……試作機ですので、私』
口に出すのを躊躇ったが、それは明らかに調整ミスだ。
何にせよ、『ガウェイン』では無く、別の機体を探す。
『ガウェイン』が来たのを良い事に、『黒夜叉』は廃棄処分。まぁ『黒夜叉』も近接戦闘仕様だが。
きっとラヴィニアはそれを見越していた。だから、乗り換える事を良しとしたのだろう。
……それ以外に、操れる機体と言えば――
「……やっぱ、こいつか」
格納庫の中でやはりと言うか、夜色の光沢を放つダークブルーメタル装甲の小型機。
世界共同軍オリジナルアームズのシリーズ。その第一企画、『可変型汎用兵器・End Of Arms Century』。通称、『EOAC』シリーズ。
これは、最新型でもあり、哉徒が軍部の機械操作実習の時、与えられた機体でもあった。
「久しぶりだな、メラフリノス」
正式名称、『EOAC1-17=Black smith』。メラフリノスはギリシアでの開発ネームだ。
コンセプトは『夜間、宇宙空間での暗躍。及び、接近、遠距離武器の光化学化』。特徴的なのは、メラフリノスを開発したギリシア側が日本刀のフォルムを取り入れ、近接戦闘が強化された点。他にも、針のような細さにも出来る収束ビームライフル等、様々な兵装がある。比重としては、遠距離武器の方が多いか。
概観は戦闘機にも似ているが、これは違う。可変式の物で、戦闘機、人型、ビット&ロケットの形態になる事が可能。
ビット&ロケットは、超高機動と装甲をパージし、有線式のレーザービットに変えて操る形態。
人型は高機動と特殊操作、それと工作操作。近接戦闘もこれでなければままならない。
戦闘機はもうそのままの使い方だ。ただ、小型の割にかなり頑丈なので、多少の無理は出来るのが大きいか。
携帯電話に移っていたらしく、フローレンスが不服そうな声を上げる。
『浮気ですか』
「小姑が五月蝿くてな」
適当に切り返して、コクピットに乗る。
慣れ親しんだ座席の感触に安堵感を覚えながら、機動準備を整えていく。
『そこのスロットに携帯電話を差し込んでください』
携帯電話は緊急回線時に繋げる事も出来る。認識されたナンバーのみだが、哉徒のナンバーは登録済みなので、何の心配も要らない。
差し込むと、それだけで機動に必要な全工程をすっ飛ばし、OSが起動した。
『私はサブAIですので、どこでも一緒です。機体コンディションは私からお伝えします』
「頼む」
純粋に外を把握しないといけないので、機体ダメージは外部便りだった。自分で把握出来るなら、それに越したことは無い。
気持ちを落ち着けながら、操縦桿を強く握る。
「……こちら、特務殲滅部隊、No.3『黒山羊』、『EOAC1-17=Black smith』で出る。信号ブルー、異常なし。応答願う」
『はいよ。行って来い!』
吉良の明るい声に背中を押され、強張っていた緊張が少し解れる。
カタパルトへと移動され、機体は真っ直ぐ空のほうを向いた。
『カタパルトと連結確認。発進権限を委任するぜ』
「了解。特務殲滅部隊、No.3『黒山羊』、『黒夜叉』――特務開始」
ブーストペダルを踏み込むと同時、カタパルトが熱によって連鎖反応。爆発的とも呼べる速さで、機体が文字通り撃ち出される。
体に掛かる負荷はレデューサーで軽減されているが、高速戦闘を連続で行うとかなりきつくなるのも事実。少し速度を落とした。
流れる風景を見ながら、哉徒は何もない空に不安を抱いていた。
「嫌な……感じだな」
その空は、清々しいまでに晴れ渡っていた。