第十六話魔王は包丁を握れない
魔王領、黒曜の城。
玉座の間は、意外にも静かだった。
禍々しさはある。だが荒廃はない。整然としている。
磨かれた黒石の床。均等に灯る魔導灯。そして玉座に座る存在。長い黒髪。赤い瞳。角は小さく、威圧はあるが過剰ではない。
「……人間か」
魔王は、アレンを見下ろす。声は低いが、荒々しくはない。
「そうらしい」
アレンは平然と立つ。
両脇には近衛魔族。剣を抜けば即首が飛ぶ距離。
「龍脈核を回したのは貴様か」
「たぶん」
「曖昧だな」
「必死だった」
玉座の間にざわめき。だが魔王は手を上げ、制す。
「……面白い」
赤い瞳が細まる。
「人間が、あれを単独で処理した」
「死にかけた」
「だろうな」
短い沈黙。魔王は言う。
「褒美をやろう」
「いらん」
「遠慮するな」
「帰りたい」
空気が凍る。近衛が殺気を放つ。
「……ここがどこか理解しているか」
「魔王領」
「そして貴様は人間だ」
「知ってる」
「処刑されても文句は言えん」
「腹減ってる」
魔王がわずかに眉を上げる。
「何だと」
「三日まともに食ってない」
玉座の間が沈黙する。
「……厨房はあるか」
その一言で、空気が変わった。
数時間後。魔王城、厨房。
巨大だが――
「雑だな」
アレンは呟く。食材は豊富。だが切り口が荒い。火力が強すぎる。香草の扱いが単調。
「誰が料理してる」
「我だ」
背後から声。振り向くと、魔王。腕を組み、真顔。
「……お前が?」
「悪いか」
「包丁持ってみろ」
魔王は躊躇なく握る。だが。ギシ、と音がする。
刃が微妙に歪む。魔力が強すぎる。
「……繊細な制御ができぬ」
「力を抜け」
「抜いている」
トン、とまな板に置く。
刃が欠ける。アレンは無言で天井を見る。
「……だから荒いのか」
「切れぬのだ」
魔王は真剣だった。
「興味はある」
「何に」
「料理に」
予想外の答え。
「なぜ」
「循環だろう」
魔王の目が鋭くなる。
「我は魔力の循環を司る存在だ」
アレンは一瞬、理解する。
「……お前」
「魔王が弱体化すれば、龍脈は乱れる」
「つまり」
「我も原因の一端だ」
玉座での威圧はない。ただ事実を述べる声。
「力を抑えすぎた」
「なぜ」
「人間と戦い続ければ、世界が削れる」
沈黙。
「だから均衡を保った」
「その結果が暴走か」
「そうだ」
魔王は包丁を見つめる。
「だが料理は違う」
「何が」
「奪うが、活かす」
アレンは小さく笑う。
「分かってるじゃないか」
「だが我は切れぬ」
真顔。
「繊細な魔力制御ができん」
「力が強すぎる」
「うむ」
「だから荒い」
「うむ」
数秒の沈黙。
「……一度、人間領に帰らせろ」
魔王の目が細まる。
「なぜ」
「包丁を作る」
「包丁?」
「お前専用の」
近衛がざわつく。
「魔王様に刃物を?」
「違う」
アレンは続ける。
「“魔力を逃がす構造”にする」
「制御補助か」
「そうだ」
魔王は興味を隠さない。
「できるのか」
「素材がいる」
「何だ」
「人間領の聖銀鋼」
空気が張り詰める。
「敵地の鉱石だぞ」
「知ってる」
「それを持ち帰れと?」
「交渉しろ」
「……」
玉座の間より重い沈黙。
魔王は立ち上がる。
「貴様は帰りたいのだろう」
「帰る」
「我は料理を学びたい」
「包丁があればな」
視線が交わる。
敵同士。
だが利害は一致する。
「条件がある」
魔王が言う。
「三十日だ」
「何が」
「三十日以内に戻れ」
「戻らなかったら」
「人間領を攻める」
脅しではない。
宣言。
「……分かりやすい」
「逃げ道は与えぬ」
「俺も逃げない」
魔王は頷く。
「護衛を付ける」
「いらん」
「人間は貴様を英雄視している」
「面倒だな」
「だからだ」
魔王はわずかに口元を上げる。
「料理人」
「何だ」
「戻ってこい」
その声は、敵のものではなかった。




