第一話無駄にするな
肉の焼ける音が、好きだった。じゅ、と脂が鉄板に落ちる音。香りが立ち上る一瞬。表面がきつね色に変わる、その境界。黒崎玲司は、その瞬間だけは世界を忘れられた。
「黒崎さん、次の試作どうします?」
背後から声が飛ぶ。玲司は振り返らず、ソースの粘度を確認する。
「骨は捨てるな。出汁を取る。皮は低温で揚げろ。端材はペーストにして詰め物に回す」
「は、はい」
淡々とした声。感情は乗らない。だが指示は正確だ。
今日のテーマは「循環」。本来なら廃棄される食材だけで作るフルコース。骨から澄んだブイヨン。硬い筋は長時間煮込み、舌でほどける柔らかさへ。焦げかけた野菜は香ばしさを活かしてソースに。命は無駄にしない。それが彼の信条だった。皿を仕上げる。湯気が静かに立ち上る。美しい。完璧だ、と玲司は思う。その瞬間、視界が揺れた。
――あれ?
手からスプーンが落ちる。
「黒崎さん?」
遠くで声がする。床が近づく。冷たいタイルの感触。誰かが駆け寄る足音。玲司は、最後に小さく呟いた。
「……無駄にするなよ」
そこで、意識が途切れた。目を開けると、白だった。天井も壁もない。ただ、どこまでも白い空間。
「目覚めたかい」
声がした。振り向くと、そこには人の形をした“何か”が立っている。男にも女にも見える曖昧な存在。
「……ここは」
「君の人生は終わった。過労死だよ」
あまりにあっさり言われ、玲司は一度瞬きをした。
「そうか」
驚きは薄い。実感もない。
「君は命を粗末にしなかった。だから、世界を一つ預けたい」
「……厨房はあるのか」
神は一瞬きょとんとし、次に笑った。
「あるとも。素材も山ほど。魔物というね」
「魔物?」
「倒せば食材になる。ただし普通は毒と呪いで食べられない」
玲司の目が、ほんのわずかに細まる。
「処理できるのか」
「できる。君には《戦神の加護》と《神饌調理》を与える」
頭の奥に、知識が流れ込む。
身体能力の底上げ。魔物特攻。毒素無効化。魔力抽出。
「……悪くない」
神は微笑む。
「君は世界の循環を助ける存在になる」
「興味はない」
「だろうね」
「ただ、食材があるなら行く」
白が弾けた。草の匂い。風の音。土の感触。玲司は森の中に立っていた。服装は簡素な旅装束。腰には剣。不思議と重くない。気配。振り向く。茂みから現れたのは、赤い毛並みの狼。通常の二倍はある体躯。牙が陽光を反射する。
――火狼。
なぜか知っている。低く唸り、飛びかかってくる。玲司は一歩横にずれた。身体が勝手に最適解を選ぶ。剣が閃く。一太刀。狼は地に伏した。静寂。血の匂い。玲司はしばらく死体を見下ろす。
「……無駄にするな」
近くに川があった。解体。筋の入り方が少し違う。だが基本構造は同じ。内臓を確認。黒ずんだ部分――通常なら毒が回っている箇所に触れる。しかし不思議と嫌な感覚がない。
《神饌調理》。
手に淡い光が宿る。毒素が霧のように消えていく。
「……なるほど」
枝を組み、火を起こす。火狼の赤身を切り分ける。脂は少ないが、繊維はきめ細かい。軽く塩を振る。焼く。じゅ、と音がした。香りが立つ。辛味のある、野性味。表面に焼き色をつけ、中はミディアムレア。ナイフで切る。肉汁が滲む。一口。噛む。広がる旨味。ほのかなスパイスのような魔力の刺激。玲司はゆっくり飲み込んだ。
「……美味いな」
その瞬間。身体の奥が熱を帯びる。魔力が巡る感覚。森の空気が、わずかに震えた。遠くで、小さく光が弾ける。世界のどこかで、止まりかけていた何かが、ほんの少しだけ動く。だが玲司は知らない。ただ焚き火の前で、静かに肉を焼き続ける。「次は、煮込みも試すか」風が吹く。新しい世界の匂いがした。
こうして――
命を食べ、循環させる男の、異世界でのんびり旅が始まった。




