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そこで見ていろグレゴール(前編)

「貧乏神でも見たかクラムボン」の劇場版のつもりで書きました。先に読んでおくとアツいです

いつも私は、どうしてここにいるのかがいまひとつ、わかっていない気がする。


私の名前は『着物掛(いきものがかり) 加絲子(かいこ)』。

“子”だなんて。今まさに女子高生でいるというのに。


でも、そう、珍しい名前の百倍は珍しい悩みをいくつも抱えている。


例えば、私は今、本来ほとんど話さないであろうクラスメイトのグループに属している。


例えば、私は今、子どもが産めない身体で、抑うつ気味で、精神安定剤を飲んでいるし、不定期だけど、臨床心理士のカウンセリングを受けている。


例えば、私は今、踏み込んではならない領域に足を突っ込んでいる。


例えば、“そうなれ”と強く願うだけで、五本の指を曲げるように実に簡単に、私の片腕は異形へと変形する。軟体生物の触腕のような弾力性と柔らかさがありながら、ものを叩く時にはどういうわけか、恐ろしい硬度にまで達する。


これは私の、あえて言うけれども、初めての恋と、出発の物語だ。


事の発端を、どこから話せばいいのか。


お前のうなり声なんて知ったこっちゃないと、ひび割れた道路がただ、がたがた揺れていた。




「地味系、病院もうすぐだから」


例えば——私は今、車の中にうずくまっている。

公衆の面前で聞き苦しい事を言って申し訳ないのだけど、意図しないタイミングで突然やって来た生理は異常なほど重かったのだ。


もちろん、そういう身体になってから一度も生理なんて来ていなかったから、私は味わったことのあるような、ないような、荒波のような苦痛に耐えきれずに、”体育の授業中”に屈辱にも”手の空いた教師”に病院まで送ってもらっているのだった。


「そうは言っても、弱いおなごの生理現象だろう、せいぜい鎮痛剤を打ってもらえるくらいだろうに」


そう誰にも聞こえないように言ったのは、私を不妊にした張本人。

ルックスだけは良く、ふわっとした短い銀髪。ぶかっとしたウインドブレーカーに包まれた足は嫌味を振りまくように長く、きしり、と締まった、バランスの良い身体つきをしている。


そんな男に、かつて最初で最後のセックスをした時のようなお姫様抱っこ……とはゆかず、身体構造上仕方のない米俵抱っこをされて、私は何も知らないクラスメイトたちの黄色い嫉妬の声に包まれて乗り慣れた車へと投げ込まれた。


あの体育教師の『重柄(おもんばがら) 十柄(とがり)』には、こちらから見て右目と左腕に大きな傷と欠損があって、その怪我がどうしてできたものなのかを私は知っている。私は単なる元カノとか、そういうのではないから、奴の復職の報せを聞いた時には全身の血が凍りつく思いをした。おまけに久しぶりに現れた奴は、その大怪我を何とも思っておらず、また、奴の事を何も知らない人からすればその全く変わらぬ態度とは、もしかすると凛とした強さにでも化けてしまうのか、他の生徒の瞳には、重柄は休職以前よりさらに、いやに魅力的に映っているようだった。


ある生徒いわくミロのヴィーナスの美しさ。

ああ、他人の口から聞いたって厚かましくて虫唾が走る。


別に普通のチンポだったと、どれだけ言ってやりたかったか。


悪口の切り口がチンポだったのは、この、運転手の授業を受けすぎたせいだ。座席から頭を時折のぞかせる、私よりもずうっと重柄に虫唾が走っている小男がハンドルを切りながら、ぶつぶつと、これまたずうっと、話していた。


「今までネットの童貞みたいに”生理重そう”なんて思っててごめんな地味系、でも俺ってソシャゲやってない事だけが誇りってだけでネットの童貞だし、本当にこんな重かったなんて思ってなかったんだ。そうそう、陣痛体験とか生理体験とか、俺は男だからどっちでもいいけどあるじゃん、あれ受ければ無差別にブスからの好感度上がっていいなって、千原ジュニアの動画観て思ったんだよ。でも千原ジュニアだぞ?聞いてもいない生理事情を無差別に自ら発信してるようなブスからの評価を千原ジュニアが上げて、世界がどうなるってんだよ。だいいち、一生つきまとってくる問題を一日ほんのわずかな時間経験したくらいで知った気になられようもんなら、俺がもし女なら殺意がわくね」


そうだ、先に言っておかなくてはいけない事を忘れていた。

たった今カチカチ鳴っているウインカーの音は、この国語教師から発される全ての言葉より値打ちがある。そして地味系というのは私の事だ。


知木(らぬき) (かわらず)』。

緑がかったぼさぼさの黒髪の小男だ。ごく普通の四角いメガネ、緑のアームカバーに白シャツ、赤ネクタイ……それ以上に言う事がない小男。授業の八割は本筋を脱線して何を言っているのかよくわからず、要点を全くおさえないので、良し悪しはわからないけど、たぶん教師としての腕は悪いほうだと思う。


「あの件からメンクリ通って、生理も来ないって言ってたろ。言葉だけ聞いたら、まるで三日もしないうちに次々入れ替わる彼氏と別れた、まさにその日のファッションメンヘラみたいだ。俺だってメンクリ通って、VRchatで自称メンヘラのおっさんから理解の言葉をかけられてみたいよ」


こんなのは割とまともな部類の言葉の投げかけだ。私は横向けに寝転がったまま、一本だけやけに伸びた、目にかかる傷んだ髪を気にしながら返した。


「まずは死ねって言わせてください。……生理が来ないのはようやく受け入れられたつもりでいたんですけど、そうしたら突然痛くなって」


「唇真っ青だもんな。あと何だっけ、どういう風に気遣いするのが正解?スッとナプキン渡すのはキモすぎるだろうし、ああ、血とかは気にしなくていいから、ガンガン垂れ流せよ」


「その顔にぶちまけてやりたいですよ、でも血が出ないんです」


「じゃ違うとこじゃないの?もしかしたら詰まってるとか」


「ナメてます?パイプじゃないんですよ」


そろそろ喧嘩になるのを察してか、ナビが突然会話に割り込んできた。


『この先、二百メートル先、右方向です』


「いいや、道は俺が決めるもの」


「いつもそうやって音声や映像と一人で喋ってるんですか?」


「急にマジなトーンで問いかけるの、やめろよ」


それにしても、この辺りはやけに薄暗くて、寝転がって見る空はどこか煙っぽい。

たしか『鹿跳(しかばね)町』とか何とか言ったっけ。


不便で、磁場が何とかで、昔から色んなトラブルが起こる場所。

殺人件数トップだとか、コンビニよりもヤクザの事務所が多いとか、そういう噂が絶えないのも、この鬱々とした町並みを見ていれば納得だ。建物まで、住人たちの所業に対して申し訳なさそうにしている感じがする。


「地味系、本当にこんなトコに総合病院なんてあんの?ヤだな、この町キモすぎるよ——


結局ナビ通りに右折しようとした知木は、タイヤのぎちりという音の後に、私も感じた嫌な第六感と連動してゆっくりになった景色の中、時をつんざくように突然響いた爆音に驚いて、緊急脱出を行うパイロットのように天井まで飛び上がった。


私も痛みにごまかされてはいるが、鼓膜がひどくきんとしている。


「何、俺の車の音? 今の? ウソだろ?」


「ば……バチが当たったんじゃないですか、こんな時に」


車はおそらく亡くなったであろうタイヤの跡を引きずって、よろよろ歩道側にずれていった。


そして”明らかに偶然を装って”、ぬらりとこちらに近づく大きな影があった。




「あぁ、これは大変だぁ」


とんとんと叩いた車の窓をわずか開けさせてから、怖い首の角度でにっこりと笑ったのは、背丈が二メートル近くある初老の、大きな丸メガネの痩せ型の、白髪まじりの黒いぼさぼさ頭の男。

ところどころに白いつぎはぎが入ったコートの中には紺のシャツ……いや、あれは、まさか首にかけているのが本物の聴診器なら、この胡散臭い男はまさか、あのボロのベージュのコートを白衣と言い張るつもりなのだろうか。


「いや、チャイナタウンの薬売りさん、心配いらないアルよ」


「偶然にも私は医師です!おっと、言葉の順番を間違えてしまいました。そうですね、そこに寝転がっている女性は子宮の——左の卵巣の具合がひどく悪いようです。そして、そう、偶然にも、奇跡的に、ここにいる私は医師なんですよ」


にっこり、わざわざパワーとまで名前につけてもらっているパワーウィンドウの隙間に指を何のためらいもなくねじ込んで、口調こそゆったりしていながら、会話の大切なところを全て端折るほどには興奮気味。


“どうしてわかったのか”、という事よりも、”気持ち悪い”のほうが素早く頭の奥に到着する。


「知木先生、出番ですよ、今こそ先生らしいとこ見せてください、さすまたを持って」


私は指を喉の前でカッとやって、知木に”やれ”のハンドサインを送った。


「ああ。悪いけどこれまでだ、ドクター・キリコ」


多分、脅しのつもりで、知木は向こうにも見えるように窓の操作スイッチに手をやった。

ダメだ。もっと必要だ。それじゃ絶対足りない。


「医師には患者さんの納得を得られるまで説明を行う義務があります。その女性は普通の病院では助かりません」


「まともな服装をして、病院の中にちゃんといて、結論から話すのをやめてくれれば納得するよ」


なぜか車内にいる側が分が悪そうに見えるにらみ合いがしばらく続いて、その、いっそ死にたくなるような緊迫した空気は——


「すいません!ごめんなさい!その人、本当に医者なんです!」


遠くから綺麗なフォームで走ってくるスーツ姿の女の人の大声に貫かれて溶けるように、たった今、ようやく緩和された。




「患者様二名ご案なぁい!」


「一ヲ知先生!」


確か、外装は嫌な色合いをしていて『いちをちクリニック』というサイバーパンク感溢れる電光掲示板が十枚ほど、真っ昼間からビカビカにギラめいていた。


私と知木は院内に案内されて、その内装のギャップに頭の中をかき回されていた。


もしかして外装の時点で飽きてしまって、その余ったお金で適当にデザインする事でようやくまともな感性に落ち着いたのか、ちょっとひと休みしたくなるような、広さも色合いもちょうど良い、恐ろしく居心地の良い空間が広がっている。


「今!なんと!診察券を作っていただくと——


大男のキラキラに濁った目を、女の人がさっと遮った。


「ごめんね、本当に」


青い髪留めのついた、綺麗なポニーテールが揺れた。

スーツの中のブラウスの、胸元のフリルが可愛い。そのままの人だと思った。女の人は、かちっとしているけど、どこか素朴な印象のある人だ。


「アレルギー持ちへの配慮が足りてないんじゃないの」


ふと、知木が指をさした先には、オレンジ色の猫がいた。

オレンジ色の猫はこっちを睨むと、つばを吐き捨てるかのごとく奥へ消えていった。


何か、どこかから、ぴりっとした空気が走った気がした。


「では診察室へどうぞ、担任の先生もご一緒に」


「ああ、その聴診器を胸にあてた瞬間をばっちり捉えてやる」


「ご安心を、いちをちクリニックはハラスメント厳禁ですから」


女の人が私の背中をとんと叩いた。


「ハラスメントがないっていうのはウソ。でも腕は確かだと思う、この場合に限り」


そして、さっきと同じ空気がまた走って、女の人はそのまま言葉を続けた。


「もし本当に変な事をされたら——そんな事はあっちゃいけないし、その時、私、たぶん、すぐに撃てるだろうから、大丈夫、安心して」


なにか、もしかして、怖い事を言ってはいないだろうか?

頭の中で審議を終える前に、私は大男と向かい合う形で、いやに座り心地のいい椅子に座らされた。


大男は丸メガネと顔のしわをくっと動かして、やっぱり、にっこり笑って言った。


「私は『一ヲ(いちをち) (おさむ)』。いちをちクリニックの院長であり、知る人ぞ知る、隠れ家的内科医です」


「うるさいよ」


知木が黙っていられるはずもない。それでもお構いなしに一ヲ知は女の人のほうへ顔をやった。


「彼女は『底ノ(そこのふち) しずく』さん。事務員その他であり、当院イチオシの看板娘です」


「オプションはチャイナ服でよろしく」


底ノ淵さんは、多分、私と同時に、心の中でため息を漏らした。


「で、何、他にスタッフいないの? まさかシャツを、そう、もっと上にめくって……ああ、音をよく聞きたいからブラも外して……そんで最後に問診だけで薬出して終わり?」


患者は私なのに付添人が一生喋っている。知木はこういう時、どれだけ痛い目を見ようとも、突っつきたくて仕方がなくなるタイプの、本当にギリギリ社会適応している部類の大人なのだ。


だからこそ、この場とは相性が悪い。


「まさか。患部をしっかり診て、処置をします」


「患部をしっかり診る? 処置? 誰が?」


「もちろん、内科医である私です」


知木が大げさにゲラゲラ笑ってみせて、新品のスマホを取り出して、こちらに向けた。


「確定じゃん。笑っちゃうね、地味系、俺が先に通報の準備しとくから、ちょっとでも触られたら”アレ”でそいつのメガネかち割れ、タイヤ代どころか、新車代までいただきだ」


すると一ヲ知もまた、やはり全く意に介さずに、底ノ淵さんに向けて言った。


「幸い、癒着しているわけではなく、”そこに住んでいる”ようです。処置そのものは一瞬で終わりますが、万が一の事も考えておかなければなりません」


「……わかりました」


すぐに底ノ淵さんの片目は、真っ赤な照準へと変わった。


「げっ!?」


知木がそう叫んで、何でもいいから何らかのアクションをとろうと、がたっと体を動かす前に、よだれを垂らした、青い”生きたハンドガン”が私に向けられていた。


——「”さて”」。


お腹の下を通って、勢いよく何かがずり落ちていくような感覚を、さっきの、さて、という一ヲ知の声すらも、私はその全てが終わった後に感じた。


「ニィィィーッ!」


そう大きな声で鳴く、小さな小さな赤い昆虫が、瓶の中に捉えられてもぞもぞと動いていた。


「なっ、なんで……」


私は動くそれを見て、数秒ほど遅れてやって来た、ひどく強い倦怠感ともに、その呼吸すら荒いものに変わっていくのをはっきりと自覚していた。




底ノ淵さんが、何事もなかったかのように虫入りの瓶を手渡されていた。


私は恐怖というよりも、さっき痛みと引き換えに襲ってきた疲労と、失望感で意識を失いそうになって、すぐ近くのベッドに横になっている。


一ヲ知から下手くそな針を刺され、ぎりぎり入った管の中をどうにか頑張って今、ブドウ糖が通ってくれているのがわかる。これってすごく普通の論理だけど、あんな看板をいくつも設置する前に、看護師を雇うべきだと思う。


とにかく今のところは、それがあの奇妙な二人組との最後の記憶だった。


点滴によって疲労感はたぶん、少しずつほぐれていっている。

ああ、でも、病院のベッドで横になっている時間って、どこか鬱っぽくて空虚だ。


「担任の先生でしたね、少しこちらに」


カーテンの向こうで声が聞こえる。

バ~カ俺がいつそう言った、担任なんか誰がやるかと知木が言っているのも簡単に予想できた。


遠くでドアが閉まる音がして、もぞもぞという衣擦れの音と、強い薬のような匂いがした。




じゃあ、ちょっと一瞬、俺の視点に切り替えて物語を見ていこう。


お待ちかねだろ、君たち、この知木等に会いたかったんだよね?

俺も、このフランケンシュタインみたいなヤブ医者の前じゃなければもっと、君たちにバーチャルなハグをするくらい、素直に喜べたんだけど。


ところで、大丈夫。

ろくに読んだことのないシリーズの主人公から、俺の事知ってるだろ?みたいな風に話しかけられて、いい気持ちになる人間なんてこの世にいないよ。


俺って、他人をゲロを吐くくらいに不愉快にするのが得意なんだ。

こう言うとDIOみたいだね。


ああ、そうだ、それはともかく君たち、ちょうどよかった。

俺から、とっておきのクイズがあるんだよ。


ドアを抜けた俺が今どんな状況かわかる?


「何も見ませんでした!殺さないでくださァい!」


ヒントはさっきまで強気だったスーパー国語教師・俺の絶叫と、喉元の刃だ。

刃ってさ、もう百万回は突きつけられてるけど、全然慣れないよ。すっげえ怖いんだから。


「事実だけ話せば悪いようにはしないさ、俺は医者だからな。問診だよ。なあ、聞くが、あんた、本当にやかましいだけの小男か?」


あのさ、すげえ笑える話なんだけど、今のセリフ、誰が喋ったと思う?


クリニックにあっていい刃物は百歩譲ってメスだけだろ。日本刀じゃない。

やっぱさ、この世の全員、軽く頭おかしくなってるよね。


「やあ、気持ちだけはビッグなつもりなんだけど——


奴は胸ぐらをがっと掴んで、なんと斜めった片腕だけで俺の全体重を持ち上げている。

ああ、いや、これも百万回目なんだけど。おかげさまでね。


もちろん何回吊られたって苦しいよ。


「手がかりを拾うだけのつもりだったが、嬉しい事に、あんたから尋常じゃない気配がするんでね」


「手がかり!?手がかりって何だよ!ああッ痛ァい!」


これは、ちょっと刺された俺の声で間違いない。

なあ、君たちの中に警察の人っていないの?弁護士とか、いない?


まさか、そんな仕事につく奴がネットにいるわけないか。


こいつ、この丸メガネの狂人がやったんだ。マジだよ。見てただろ。


「それならそれで残念で、ひどく滑稽な話だが、どうも嘘をついてるって様子でもないな」


こんな奴に猛烈に見下されつつも、ようやく俺は着地のお許しを得る。


そして、どうして察せたのか、ちょうどいいタイミングでガチャリと音がして、チャイナが似合うであろうポニテが拷問部屋に入ってきた。


ポニテもやっぱり俺に敵意むき出しだ。傷つく。

いや、多分、ほんとに、俺は思ってるより素敵な人間だって。


「底ノ淵さん、ご家族に連絡は取れましたか?」


さっきの態度はどこ吹く風でにっこりと尋ねている。

一ヲ知、お前ってさ、絶ッッ対、自己分析が足りない奴だよ。


俺がお前なら、たとえ自称でも医者はやらないね。

だって、たぶん、ふと目が覚めたら手が血まみれになってて、患者が死んでるから。


「大丈夫です。学校側には向こうからって」


「ありがとうございます。では、こちらからも一つ収穫を。この先生は無実です」


「はあ……。そうですか、良かった」


何のため息だよ。


もしかして、あのキモキモの(ピストル)で俺を撃ちたかったのか?


良かったって言いながら良さそうじゃない感じ出てるぞ!

このクソ重い空気と事務的なやり取りは何なんだ、気持ち悪い関係だよな、お前ら。


「知木先生、『目』の説明は必要ですか?」


丸メガネの問いかけに、俺は首を横に振る。

目がペルソナ、スタンド、スペックの事だって知ってたからだ。


「……そうでしょうね」


相槌は侮蔑のポニテ。何なんだよ!無実だって!生きててごめんね!?

丸メガネはさらに続ける。


「であれば、単刀直入に言いましょう。あなたの背後にあるものと、あの生徒の症状は別のものです。複数の要素が絡み合っていた。最初から有り得ないものがべっとりと彼女にまとわりついていたので、私は目の気配を持つあなたを疑ってしまいました。しかし、あなたから感じる気配はその”有り得ないもの”とは違っていた。彼女に元々つけられていたものは大きく邪悪な特性でありながら、どうやら今は所有者によって強く制御されている。よろしいですか、”あなたの背後の気配”と、”有り得ないもの”と、”赤い昆虫”はそれぞれ別の目によるものです。まず対処すべきは……いえ、実を言えば、この中ですぐに対処できそうなものも、先ほど述べた三つの中で最も悪意の強いものも”赤い昆虫”の目です。では改めて、誤解について謝罪させてください。根治を目指すにあたり、情報を整理する必要がありますね。よろしければ引き続きご協力いただけますか?」


なっげえ単刀をズブズブズブズブさあ。

俺の相槌や許しや、何なら君たち読者の理解すら、この丸メガネには必要ないらしく、一気に、問答無用に百歩先まで話を進められた。


「ああ、ここで首を横に振ったらどうなるだろうっていうのは、運転中、”あの横断歩道を渡る人たちに向かってアクセルを踏み込んだらどうなるんだろう”って気持ちと似てる、ってのはどう?」


「……言えてます」


ポニテが不意打ちでくすりと笑ってくれた。良かった。共感の笑いかな。

まだ全然好きじゃないけど、自分の言葉で笑ってくれる女の子って死ぬほど可愛い。そうやって笑うんだ。もう好きだ。


童貞でよかった。


「知木先生。私は教員免許どころか、医師免許を持っています。目に関する事だけで結構ですよ、全て話してください」


丸メガネはなんか、ギリギリこらえてる感じで、バチバチにキレてるけど。

なんでキレる必要が……あっ、そういう事?


そっか頑張って、大事なのは思いやり、と言って斬られるのが自分らしい選択なんだろうけど、ふと、ちょっと前、とある後輩にボコボコにされた時の記憶が浮かんで、痛めつけられる瞬間より、その後の生活のほうが大変だった事を完璧に思い出して、ちょっと賢くなった俺はぱっと口をつぐんで、要点だけを話す事に決めた。自信ないけど。


「秘密厳守ね、俺の背後の大きいのはともかく、小さいの二人は怒らせるとマジで怖いから」


二人はなんとなくに、『なんとかクラムボン』を先に読んでくれた君たちと同じように、俺の背後にあるものを察している様子で頷いた。いや、もしかして、読む順番は逆のほうが面白いかもね。


「疫病神っぽいのが左端にいて、もう片方には貧乏神っぽいのがいて……」


俺は国語のスキルを全開にして、前作のあらすじを読み始めた。




ああ。


点滴もなかなか終わらなければ、誰一人としてドアの向こうから帰ってこない。

それなのに、もぞり、もぞり、点滴の向こう、カーテンの奥で誰かが私の様子を伺っていた。


「あの」


もぞ、と、動きが途中で止まる。

それは少しの静寂の後、また、もぞりもぞりと動き出した。


「何か言いたい事があるなら言ってください」


それを聞いた途端、その気配は、ずる、ずる、と閉じられたカーテンを一枚、また一枚とめくりながら、こちらへ近づいてきた。


もっと普通に……ああ、もしかして、来れない体なんだろうか?

どっちにしろ、”言え”と言ったのに”来る”のがなんだか、ズレてて怖い。


数秒のずるずるのあと、私を保護するカーテンから、ニョキッと顔が生えてきた。


「ぼくはユピテル!」


その七文字からは情報が一つも伝わってこなかった。


「……着物掛です」


名刺交換が済んだと言わんばかりに、ばさっとカーテンが開いて、やせ細った、顔色のひどく悪い男がすぐ近く、今は私のためのベッドに腰掛けて、恋人同士の距離までやってきた。


そのユピテル?とか、たぶん自分の名前を名乗ったつもりであろう男は坊ちゃん刈りをそのまま伸ばしたような、ぱさぱさした直毛の、長いおかっぱ頭で、全身に真っ白なローブをまとっているのに、くまの奥深くにのぞく眼球に目をやると、なにか病気の症状なのか、本来白くあるはずの白目だけがわずかに青みがかっていた。


「きみも病気なの?」


声変わりを終えているはずの喉を動かして、やけに高い声を私に向けて発している。

年齢はいくら甘く見積もったって、どうしても、三十代には見える。


「病気……だったんだと思います」


「じゃあ、治ったんだ!いいなあ、ぼくも早く元気になりたいな」


「いえ、実は大きい問題がまだ」


「ええっ、じゃあ、まだ大変なんだ、ごめんね」


男は反発の少ないベッドの上で足をぶらぶらさせて、一昔前のアニメの女の子みたいに、ずっと横にゆらゆら揺れていた。その”キツい”態度は成人男性として女々しくて苛立つというよりかは、どこか病的で、自分が人懐っこい小学生くらいの精神年齢なのだと有無を言わさず周りに押し付けているような印象だったけど、どっちにしろ、出で立ちの痛々しさとのギャップがさらなる痛々しさへと、延々と繋がっていっている事だけが確かだった。


「ここに入院されてるんですか?何歳から?というか、入院……クリニックに?」


私はなんだか、自分の質問を自分の耳で聞いていて、学校で見つけた二つのダメな大人の成長モデル、どう転んでも最悪となる選択肢の、その片方に確かに、両足がどんどん近づいていっている気がして、どうしようもない危機感に追われ、一旦頭を振る事で白紙に戻そうとしていた。


「あの二人のどっちにも、絶対なっちゃいけないッ!」


「わ、わ、大丈夫?」


「……だ、大丈夫です、そっちこそ大丈夫なんですか?その、動いてて」


「大丈夫だよ。ぼくはほとんど眠ってるから、たくさん、たくさん話してる。でも、言うことを聞いてくれないんだ。この子からしたら、ぼくの方こそそうなんだろうなあ」


はあ、と、何を言っているのかわからないながらも、相槌をうつ。


「全部わかってくれるまで話し続けたいんだよね」


うわ言をこぼし続ける男は目線をふっと横にやる。

そこにはカーテンが揺れていて、その先にだってたぶん、何もない。


「きっと皆はぼくをわがままだって言うだろうし、それはイヤなことだけど、ううん、イヤなことってたくさんあるんだろうけど、たとえ、そうすることで叱られたって、家族がぼくの生きる理由で、それだけは誰にどれだけ、何を言われたって、正しいって思っていいって、それだけは、皆と同じことを考えられている気がするから」


雪のような言葉の中の、ひとつの単語だけが、私の中に重く落ちた。


そして私に届いたのも、その一つだけだった。


一瞬のうち、たった一つの言葉だけで私は、あっさりと怒りにも似た感情を抱いてしまって、この気持ちの悪い男は、自分とは決定的に違うと決めつけていたのだった。


「アイハンする……せめぎ合う……ううん、また言葉を忘れちゃった。ぼくってどうして頭が悪いんだろう?ええっと、とにかくきみは、いまは、違うって思うかもしれないよ。でも、それって、ぼくとおんなじで、カタカナの、重たい何かで、それを持ってる。それは……ええと、もう、なんだっけ、アヌビスがいたらなあ。すぐに教えてくれるのに」


でも、だから、きみは家族じゃなくって友達だね、と、そう笑って、私の手を握る。

冷たい冷たい、ひどく骨ばった手。喉から出る枯れ木のような言葉。


「ねえ、ぼくってね、すっごく、”ここにいちゃいけない”んだ。そう、きっと、これって、大切な気持ちだって思ってる」


だけど私はなぜか、この空気に溶けていくだけの”違う男”を払いのける事をしなかった。


「……手、開いてみて!」


言われるがままに手を開くと、手のひらに冷たい、かさりとした感触があった。

びくっとして、この白昼夢から目を覚ましそうになる。


「こ、これ、手品……ですか?」


それは器用に作られた真っ赤な蝶の細工がついた、とてもしっかりしたヘアピンだった。

まだまだ感想がほしそうな表情から察するに、手品のトリックは重要ではないらしかったので、


「……あなたが、これを作ったんですか?」


と尋ねると、男はますます、ぱあっと嬉しそうに、ずいっと身をこちらに寄せた。


「そうだよ!」


目は輝いたままだ。何か、言葉を待っている気がした。


「すごいんですね。ああ、でも——


——こんな物はいただけない、と言い切る前に、私はまどろみから完全に目を覚ましてしまった。


ベッドのぎしっという音に反応して、大男の影が近づいてきて、ぬうっとカーテンを開いた。


「次回予約はこちらで取っておきましたので。心配事は何もありません、ゆっくり休んでいてくださいね。そして休み終えたら、一つ二つ、尋ねたい事がありますので……」


体が元気になって、確信が増している。

この一ヲ知という男は、絶対、ホワイトではない。


「おや、これは」


ほら、今も、何の配慮もなく、私の手に握られていたはずの蝶をいつの間にか奪い取って、自分の指でつまんで見つめている。


「来た時には持っていませんでしたね。もしや、誰かからの贈り物ですか?」


もう変な奴に変だと思われたってどうでもいいと、私は正直に話す事にした。


「夢の中で会った、死体みたいな男の人に貰いました。それがなんでここにあるのかなんて全然、私には意味がわかりません」


「ああ、そうですか、それはそれは」


一ヲ知はその一瞬だけ、初めて穏やかに笑った気がした。

そして私は腕のシールを産毛が全部抜けるくらいにべりべり剥がされて、点滴の針を思い切り、魚の網をひくようにぶち抜かれる。


腕は中からびりびりして、ひとりでに跳ねていた。


「痛い、って、私、普段は痛くても口には出しません」


遠回しにくたばれと言っている私の、ちょっと痺れてる腕からぷくっと流れる血を”袖で”拭ってから、一ヲ知はべたんと絆創膏を貼ってくれた。


「こちらへ」


うるせえ、と思ったけど、ようやく出ていけるのだから、足をおろして、すごすごと靴を履く。


導かれるがまま後ろについて行き、ふと、何らかのポイントに到達したのを確認すると、このヤブ医者は出口とは違う、何もない壁に両手をやって、重そうな横開きの、取っ手のついていないドアを開けた。


私はそうして、暗い部屋に差し込む、現実の世界から入った光に照らされた、立派なベッドの、その中に沈んでいる者を見てぎょっとした。


「あっ」


あちこちに繋がれた線、酸素、チューブ、機械、笛を吸うような音、大きく大きく上下に動く胸。

おそらくは薬で強く緩和されているだろうに、苦痛に歪んだように見える顔は、間違いなくあの男のものだけど、きっと本当の『ユピテル』の顔じゃない。


私は祖父を病院で看取った時に似たような事を感じたのを思い出した。


がらりと、あっという間に、ドアは再び、映像の巻き戻しのように閉じられた。


「けして恐ろしいものではありません。あなたさえよろしければ、貰ってあげてください」


赤い蝶のヘアピンは再び、私の手に握られていた。




「あら、あら、まあ、まあ」


ところで地味系はどうしてるんだろう?今日休みだったけど。

ああ。そうだった、全グレによるアフターケアとやらを一日取るって話だった。


そうだよ、今の一文はあの病院の件から一日経ってる事を表したんだ。

“次の日”……はちょっと情緒に欠けるだろ、俺の独断だよ。


そうして俺はといえば朝から誰も聞いてない授業をして、夕方には残業を済ませて、おしっこを漏らしそうなハンドルさばきで車を走らせて、その先で大きな白旗を大きく大きく掲げて、さらにおしっこを漏らしそうになりながら、一人の相性最悪な銀髪の男による厳重すぎる監視のもと、マンションの一室まで、二度と会いたくない小柄な白髪の三つ編み美女に助けを求め会いに来ているところだ。


ちりん。


ああ、いいね、アラートが鳴ってる。

あれから、鈴の音聞くとお腹痛くなるんだよな。


「あの時はマジ、すいませんした」


「知木先生、もういいのよ」


その下げた俺の頭の両耳を包んで柔らかな両手でそっと上へと傾けて、バカみたいないい匂いとバカみたいにデカい胸とバカみたいに綺麗な顔をバッチバチに見せつけながらやんわり目の奥を覗き込む、人外ゆるふわお姉さんママ。


ああでも、やっぱ見た目は美人だ。キスの構図じゃん。吊り橋効果で勃起しそう。後ろの男さえいなければとっくに骨抜きにされてるところだった。


じゃあお前、この教団にいないほうがいいんじゃないの、重柄。


「恐れ多いと理解しているのなら、要件だけ話せ」


俺が年上なのに。


君たち知らないんだろうけど。この身体的ハンディキャップ持ちの韓流スターは普段は敬語なんだよ。俺をメチャクチャ尊敬してるし、靴を舐めさせた事もある。ほんとほんと。


そう、このハン・重柄っていう、地味系がぶっ倒れた現場に居合わせて、珍しくトドメをささずに俺の車まで運んだ体育教師と、君たちと喋っている敏腕国語教師こと俺、知木はなんていうか、俺が先輩でこいつが後輩、殺し合いの合間に雑談をしたりする素晴らしい仲なんだ。


なんでいちいちこんな所から説明しなくちゃいけないんだよ?詳しくは君たちが何とかクラムボンを読んでくれればいいだけじゃん。タダだから。読めたもんじゃないし、誤字もあるけど、タダなんだからさ。ああ、イライラしてきた。こうやってタダに逃げる奴が書いてる小説なんか読まなくていい。


そんなのより、俺が小説家になろうに小説を載せてるから、よろしく。

マジ、響く奴には響くから。超泣けるよ。村上春樹より良い。絶対。そう信じてる。


「そのおなごの受けた苦痛と、神さまの加護は、少しも関係がないわ」


「本当に申し訳ないと思ってるんすよ、思ってるんすけど、証明できます?なんか、ちょっと、悪い事に巻き込まれるのは俺、初めてじゃないっていうか、どうも手口が似てるっていうか、知恵だけでもと思いまして、すごく、すごく死にたくないながらも、わたくし……」


「足々(あたりめ)様、さっさと、この知木等を八つ裂きにしてしまえば済む話でしょう」


そう、アタリメ様っていうのがゆるふわお姉さんの名前ね。

物腰こそ穏やかだけど、メチャクチャなサディストだから気を許さないように。


まあ、「おねだり」とか「なすがまま」が大好きなら、心でも股間でも許せばいいと思うけど。

俺もあのコマンド大好きだ。おねだりとなすがままが分けてあるゲームは信頼できるね。


「足々女様、特別な思い入れでも?僕なら今すぐにでも、喜んでやりますが」


「そうすると、あの小童はきっと、より本気で殺しに来るでしょうね。あれから随分、お熱だもの」


ああ、“小童”っていうのは、このマンションの外で待機してる俺の用心棒だ。

ちょっとカメラをドワ~~ンと動かしてみよう。


いや、もうちょい左。ダメダメいきすぎいきすぎ。


ほら、あそこの茂みの中だよ。二人いる。


赤いジャケットを着物みたいに着たおかっぱ頭の小さい女の子と、隠れるには態度がデカすぎる、おそろしく雑な姫カットを後ろで可能な限り雑に結んだ大女が見えるだろ?


小さい方が『不見神(みすくみ) 三織(みおり)』あるいは『五織(こおり)』。

デカい方が『織無(おりなし)』だ。なんと性自認が男。逆ブリジットだね。


ブリジットの性自認の件は未だに納得できてない。違うじゃん。それは。


ああ、人数が食い違うのは、いくら書き手がアホのファスナーくんでもミスじゃないよ。


おかっぱ頭は本当は双子……厳密に言えば違うんだけど、とりあえずまあ、双子で、そのどっちかがデカいのと交代できるんだ。デカいのは実体がないから、片割れの器を借りてようやく顕現できる。


後で出番があるだろうから、あいつらの紹介でごちゃごちゃさせたくないし、今はそれくらいでいいかな。


それよりも大切なのは、今、目の前でエロい事に使えそうな触手をうねうねさせているアタリメ様だ。


「たとえば、神さまはこの腕での戦いなら、いつでも簡単にこなせるわ。だけどそれは手足を動かすようなもので、”力”とは違う」


「そう。わざわざ虫を子宮の中に入れて宿主を苦しめて、行為をできなくするなんて、本末転倒ですよ。その虫とかいうのが本当に股の中にいたのなら、聞くべきはやはり、我々じゃなくって、なんとかいうヤブ医者なんじゃないですか?」


急に敬語のスイッチのオンオフが切り替わる重柄へのツッコミをスルーして、いや、そもそも地味系の子宮の運命を大きく狂わせたのはお前らなんだけど、という指摘も何とかスルーして、大人な俺はそれもそうかも確かにねとスマホを取り出して、ぽちぽちとタップしてから耳にあてた。




「はい、いちをちクリニックです……あっ」


事務員の底ノ淵さんが電話対応をするのは当たり前といえば当たり前なんだけど、その電話がすぐに医者に取り上げられてしまうのは異常な事ではないだろうか。


「あの……」


底ノ淵さんの「あの」には色んなニュアンスがある。これはおそらく怒りだ。


「知木先生、お電話代わりました、”主治医の”一ヲ知です」


今日、一ヲ知は私をもう一度あの透視か何かの超能力で診て、「もうあなた自身に何も問題はないようですね」とそう言った。

少し含みを持たせたような、嫌味な言い方だった。


私はあの重いドアの奥にいる男とまた会うかもしれないと思って、意味がないと知りつつも、何をやってるんだか、朝から例のヘアピンをつけてみていたけど、さっき実際に会った男の様子は全く変わらず、生きているんだか死んでいるんだかわからないまま、当然、私を見たってにこりともしなかった。


一ヲ知の電話に耳を傾けながら、赤いそれを、自らのミディアムのストレートからぷちっと外して、胸ポケットにしまう。


まあ、たぶん、あの男が意識を取り戻して、あれを見たところで。そりゃ、けして私には似合っちゃいなかっただろうけど、なんというか一応、そっちの贈り物なんだから。


「こちらで調べましたが、”すり抜ける”という特性は持っていないようです」


からからと瓶ごと揺られる赤い虫は相変わらず、瓶の中でニィニィ鳴いている。


「つまり、ええ、そうです、侵入経路が限られてくるという事です」


底ノ淵さんがこの先のすべてを予知し、しかし、わずか遅れてしまったと痛感しつつも「暇だよね!テレビつける!?」と叫んで、なるべく言葉の間隔が途切れないように、暗殺者がターゲットを始末するような手際で私の耳にイヤホンを差し込んできた、


「彼女と性交渉を行った相手の、その指、あるいは舌や性器によって、膣に直接、挿入された可能性が濃厚でしょう」


残念ながら、上がっていくテレビの音量に混じって、言葉はしっかり聞こえた。


底ノ淵さんはうっすらわかっていた事が起きて落胆したあと、冷や汗混じりの絵顔でゆっくりこっちを見て、意味のないイヤホンを外してくれてから、私の両肩をがっしり掴んで、真顔で頭を下げた。


「これでもほとんど毎日デリカシーについて、殺したくなる直前まで注意してるの」


「大丈夫です」


一ヲ知は何度か、はい、ええ、と言った後、それではと締めくくり、電話を切った。


「お気になさらず……」


「無理言わないでください!」


夫婦漫才のようなやり取りを見せつけられる。孤独だ。


「訴訟だって全然あるんですから!」


「失職の心配はいりません、底ノ淵さん。いちをちクリニックにはあらかじめ、あらゆる筋に冒涜的なまでに通じている、頼もしい弁護士をつけています」


「……まあ、先生がシャバにいる限り、その弁護士さんの腕はお墨付きでしょうけど」


「なんと、腕に付くどころか、ガッツリ背中に入ってます!」


「ずァアッ!また反社!」


「それも、模様は”龍”ですよ……!?」


「だから何だって言うんですか!?」


さて聞こえていたなら話は早いと、正直、反社を怖がる理由が私にはわからないくらいにキレている底ノ淵さんを尻目に、一ヲ知がこちらへにじり寄ってくる。


「着物掛さん。ここ数日、どなたと性交渉を行いましたか?」


ねえ本当に。それは本来、誰にも聞く事ではない。


「……黙秘します」


「その方に、まさかあなたの年齢で精液に、は違うでしょうが、男性器、あるいは指や舌に紛れて”目”を仕込まれた可能性があります。種付けならぬ産み付けですね。たとえセーフセックスであったとしても、この目は小さく、それなりの強度もあるようですし、コンドームの表面にでもつけておけば寄生は十分に可能でしょう」


私は最悪な気分で、底ノ淵さんも多分そうだから、頭を抱えている。


「黙秘します」


「では、そのように知木先生に伝えましょうか」


「先生」


底ノ淵さんが我慢ならないといった様子で、前に立ちはだかる。


「わからないでしょうけど、そんな事、男の人に言いたいわけありません」


ん?

比較的安心していた相手にちょっとしたズレを感じて、私は嫌な予感に包まれる。


すぐに二の腕が両方掴まれて、尋常じゃない力で立ち上がらされる。

真っ赤な照準の目が、まっすぐに私の目を撃ち抜くように見つめていた。


「話は女の私が聞く。そのクズの名前を教えて。私が撃つ。殺さない。シンプルでしょ。いい?」




「……で、それでもかたくなに黙秘してるらしい。ヨル・フォージャーとかいいじゃんね。エロそうだ。事務員の底ノ淵のコスプレだよ」


一ヲ知との電話を終えてからしばらくして、何故かスマホの番号まで割られていた俺に追加情報のメッセージが送られてくる。

俺はとりあえず、これから何が起きるかはわからないけど、迷宮入りした時に備えて、電話帳の名前を「こいつが犯人」にしておいた。


「鬱陶しいな。どうせ半グレの集団なら、骨の一、二本でもへし折って聞き出せばいいでしょうに」


「重柄、一回あの病院行ってみろって。”そういうのはもう試した後かも”って思えるよ。ああでも、お前は逆にまともな奴になって帰ってくるかもな、頭に穴を開けてもらうんだよ」


ふわふわの銀髪をまとった彫刻のような額からアチアチの青筋の気配がしたから、俺は自分の身からこれ以上の油が漏れないよう、慎重に言葉を選んでいく事にした。


「そっちの活動にだって死活問題だろ、変な性病を運ぶ奴なんて。言っててますます、お前らと何が違うのかわかんないけど」


そう、そもそもこいつらは、あそこでくつくつ煮える鍋その他の横で包丁をとんとんやっているクソかわいい新妻みたいな美人を崇め、活動と不妊の儀式を行う駆け出しのカルト教団……いや、駆け出しなのは重柄だけか。実際、歴史はものすごく長い教団らしい。


そもそも、地味系の不妊はこいつらのせい。だから俺は改めてガツンと……


「知木先生、アレルギーとか、ご病気とか?」


「え、そういう事っすかぁ?ないっす」


フフッと笑って手をひらり、見せつける。

向こうも任せて、と微笑み返してくれた。あ~、重柄、お前、いいなあ。


こうやって”尽くされる事”が供物らしいよ、信じられる?


もちろん、こっちの神様だって外で待機してるんだけど、ご機嫌取りは主にレトロな遊びだし、一歩間違えると死が待ってるし、最近ようやくファミコンを覚えてくれたよ。バルーンファイトやってる。


「小童たちも連れてきているんでしょう。どうせ沢山作るつもりだったし、どうかしら?」


や、こっちはこっちで、なんか、包丁似合うし、不倫なんかしたら殺されそうだけどさ。


「別に構いませんよ」


俺は重柄のその言葉を聞いて、窓をガラッと開けて、


「いいってさ~!」


と叫んだ。

多くの人が「何が?」の顔でこっちを見てる。


「ごめん、あいつら、ガラケーも持ってないんだ」


「じゃあ遠くで待機させるべきじゃないですね」


重柄はようやく、学校にいる時みたいに笑ってくれたけど、こいつの笑顔って全然嬉しくないし、いつ見ても死ねばいいと思う。




「小童。神さまに負けず劣らずの臆病者ね」


小童っていうのは織無の事だ。デカ女。

まあちょっと、向こうにとっても宿敵だから、アタリメ様はやや怖くなるよね。


でも、すごく頭が悪い例えだけど、料理が旅館みたいだった。

重柄、毎日こんなの作ってもらってんの?死ぬ?


アタリメ様と重柄の向かいに座った俺の両横には、やっぱりおかっぱ頭。

右にも左にも同じおかっぱを抱えて、ちびまる子ちゃんのコンカフェ状態だ。


「おいしそう!」

   「おいしそう!」


ちなみに、デカ女の織無が引っ込んだのには、一応、理由がある。

織無は、引っ込んだ時は”幸運モード”に入って、その幸運でオートガードができるんだ。そういう力を持ってる。


つまるところ、もし毒を盛られても、何らかの理由でポンと助かる。


「織無、出てこいよ。食おう。決着は多分、今日じゃないって」


「その一言でぐっと今日、死ぬ感じになりましたね」


お前、もう食ってるのか。いただきますくらい言えよな。


……いや、え?お前、その食い方、何、何だよ。世界に何人の恵まれない子供たちがいると思ってんだ?お前らのたった一食分の募金で広告が作れて、広告を観た人たちの一食分の募金がたくさん集まれば、新しい広告だって作れるのに。



そうそう、重柄は欠損した部位をアタリメ様の加護とやらで補っていて、肩からずるっと生えてくる触腕が器用に、それこそ日常生活のサポートから破壊活動まで何でもやっちゃうんだけど、それにしたって、その食い方はお前。くたばレックスだ、地獄に落ちロバ、死ねこ。


「お行儀悪い!」

   「ばち当たり!」


触腕にすり潰されてほとんど流動食になった豪華な料理をぐびぐび飲みながら、重柄があざ笑う。


「不見神の双子に言われるなんて、洒落にならないな」


「いいのよ」


全然よくないよ。

もしかして、そういう系?アタリメ様ってDV男好き?

メス扱いされてお゛ぉぉ~ッてなるタイプ?


「足々女様、塩気が強い気がしますが」


「ごめんなさいね。本当ならあなたの食べ方に合わせて、味付けを変えた料理を別に作るべきだったのだけれど、時間がなくって」


「あなたにとって時間は言い訳にならないはずだ、僕よりもずっと多くの時間を持っているでしょうに」


「アタリメ様、特に深い意味はないんだけど、本当のアホってのはさ、食うだけなのに料理への評論と指摘だけ発信してる奴の事を言うんだよ。ただ、クソな料理ってのは本当にクソだから、やっぱり世の中にこういう攻撃的なアホは必要なんだよね。問題は同じくして、保守的なアホがクソな料理を持ち上げてしまう事。世の中には対消滅が足りてないんだ。この料理って単語はあらゆるものへの例えで間違いないし、クリエイター側はクリエイター側で、百人いればそのうち百人がゾッとするくらい良い気になってて気持ち悪いんだけど。ただ俺は今少なくともゴードン・ラムゼイの目線で物事を見ていて、重柄はイディオット・サンドウィッチで、そのうえで、この料理は最高っす」


舌が余計に回りまくるくらい、バカうまい。行ったことないけど、料亭の天ぷらじゃん。サックサクじゃん。じゅわじゅわじゃん。


「ふふ、知木先生は、けなし上手の褒め上手なのね。そんなに気に入ってくれたのなら、いつでも来てくれて構わないのよ」


「ここが誰の家か忘れたんですか?足々女様」


「ああ泣きそう、なんで俺がアタリメ様サイドじゃなかったんだろう、なんで対立してんだろう」


そこまで言って、ムッとしたダブルもも子にダブル俺の耳が強くつねられた。


「あ痛い痛い痛い」


「三織だって作れるのに」

   「作れるよ、三織にだって」


「お前らが何を作れるって?ねるねるねるね?」


アタリメ様がくすっと隙のある人妻の顔で笑って、話を切り出してくれた。


「そうね、さっきの話だけれど、おなごが庇うものといったら、神さまは一つしか思いつかないわ」


不見神の手は未だ俺の両耳をちぎる勢いだけど、その伸びた耳を賢明に傾けた。


「結局男とか、男とかじゃないすか、あ痛い痛い痛い痛い、フリーレンになっちゃう」


「かわいいのね、知木先生」


ああ。彼女は不正解にちょっとした意地悪を織り交ぜているんだ。

そういう細かいニュアンスが読み取れる俺、どう?


隣のカス男よりも、どう?


「神さまが普通の人間のおなごとして生まれたなら、ひと——この場合は男の人かしら。男の人なんて、ささいなことよ。大切にするふりをしているだけ。その実、結局は売ってしまうわ」


じゃあ今からどっか違う国とかに売ってくれないかなあ、隣の男をさ。

あ、違う国に売るってのはちょっとだけ、伏線だね。俺もびっくりしたけど。


「女の敵は女と言いますし、僕は実際そんな風な”おなご”ばかり、よく見ましたが」


「そうね、半分は合っているけど、もう半分は違う。おなごはいつも競っているの。全てのおなごがそう。おなごが最後まで大切にするのは、己がおなごだからこそ、同じおなごだわ」


俺は今日、初めて強く重柄の考えを否定したアタリメ様のその言葉に、いや、これはニュアンスとかじゃなくて、直感的になんだか、”彼女らしくなさ”みたいなものを感じ取っていたけど、話を潰すのは違うような気もして、この場の静けさを守るように、さっさと答えを言ってしまった。


「それって、地味系に虫を仕込んだ奴が女って事っすか?」


まあ、食事中にする会話じゃないとは思うよね。


「そうね、たぶん、そうなんじゃないかしら」


そういえば織無が、あのババアは頭が切れるとよく言っていたっけ。

今までの俺にとって、このアタリメ様っていうのは巨乳と、触手で俺や周りのものをぶち倒したり、織無をズタボロにしたり、あとは巨乳と、巨乳くらいしか印象になかったから、この冴えにはかなり、裏をかかれたような感じがあった。


「知木先生の話を聞いた限りだけれど、おかしな点がふたつあったわ」


いや、ダメだ。それだけはやめてくれよ。


推理は本来俺の役割で、何よりこれは日常系スタンドバトルものシリーズで、だから、あっさりと解決パートを済ませちゃうってのは俺その他、過去、未来、無限や永遠の主人公、汝と我ら全員の持ちネタだ。ぶっちゃけ先を越されると悔しいってのが大いにある。じゃあ、負け犬のささやかな嫌がらせとして、ちょっとだけ空気をメタくしていいかな?


「それでは推理パート入りまぁす」


ダメだ。微妙だ。


「あら、先生ったら」


君たちはこんな大人になるんじゃないぞ。


待った、この場に子供がいるって?ウソだろ?

いつでもサイン書くってさ。




「好きなキャラは?俺?」


俺は敗北感に耐えきれず、架空の未来の担い手と戯れていた。


「そうねえ、まず、知木先生はどうして総合病院に向かっていたの?」


「ああ、それは、地味系が言ったんだ、そこに行ってくれって」


重柄はすぐに気付いたようだった。俺の次にね。


「確かに、変ですね。総合病院なんて、ほぼ完全予約制ですよ。生理痛なんかで救急外来に駆けつけたって、そんなの、万が一があったって、すぐに診てはもらえないでしょうし」


「今、確かに差別発言をしたぞ!君たちの中にフェミニストはいる!?」


「先生、君たちって誰?」

   「先生がおかしくなっちゃった」


男前に人差し指を向けた小さな負け犬が、おかっぱにゆさゆさ揺さぶられているのが家具に反射している。


「そもそも、途中で出てくるヤブのお医者さんだって、赤い虫の情報を追っていたからこそ、おなごを捕まえる必要があったんじゃないかしら」


「最初からあのおなごの中に棲むものを探っていたんだとしたら、タイヤのパンクのタイミングはクロのそれですね。向こうは待ち伏せをしていて、事故は何らかの手段で故意に引き起こされたんでしょう、だとしたら」


「ええ、目的地に辿り着く前に捕まえる必要があったんだわ」


「僕がその総合病院を調べに行きましょうか?」


「来るはずの人間が来なかったのよ。その場に長居するとは思えないわ」


おいおい、なんかバディ感出てるぞ。

重柄に石でも投げとこうかな。本当は石なんか存在しないけど、これって文章のいいところだね。


「わかりました。知木先生、おなごと目の所有者がグルの根拠はもうひとつあります」


「そんなの、俺だってわかるもん」


わからなすぎてかわいこぶっちゃったよ。


「股から虫を引きずり出された時の反応ですよ、わかりませんか?」


「わかるワケあるかよ」


「例えば、そうねえ」


アタリメ様が髪の一部を細い触手に変えて、多分、けっこう、どこまでも伸ばして、それから少しして、毛糸玉みたいになった触手を俺の前に差し出した。


ぱっと開いた触手の上には、もちろん、生きたムカデがうごめいていた。


「イヤッ!」


俺は小さいのに全然可愛くない不愉快なだけの社会人、略してちいかわの驚き方をして、後ろにすっ飛んだ。


アタリメ様は役目を終えたムカデをばりばり食ったりはせず、ふたたび触手を伸ばしてどこかへ逃がしてやったようだった。慈悲深いんだ、初めて知った。もしかして俺ってムカデ以下だったりする?


「これが正常な反応ですよ、知気等の人間性が正常かどうかはともかくね」


言ってやったみたいな顔をするな。大したディスりじゃないぞ。


「幼いおなごなら特に、気を失ったっておかしくないわ」


「つまり、あのおなごが発した”なんで”という言葉は、”なんでこんなものが入っていたのか”ではなくって、”なんで体から引きずり出せたのか”と言っていたんですよ」


「じゃあ何、すげえバカじゃん」


「バカなのは、だって、知木先生から国語を教わっているんですから」


「ああ、重柄先生から体育を教わってもいる」


いい歳こいた大人の目線でバチバチに散る幼い火花を肴に、いつの間にか現れたデカい女が、毒が盛られていないとわかったサイダーのボトルを片手に持って、グビグビ飲んでいた。


「小童。いただきますくらい言いなさいな」


「こいつは工場で作られたもんで、砂糖水には何の権利もねえぜ」


そんな事を言いながら織無は、英気を養うように余ったおかずを全部かっさらって、理屈をこねたばかりの口で堂々と、海老の尻尾までバクバク食べていた。

そんなんいいって続きを読め! 続きを!

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