疫病神(おれさま)でも見たかクラムボン
バトっちまうか~!と思って書いたのを覚えています。男主人公と男敵に対し「こいつら何なの!?」と思っていただければ幸いです。そういうやつらです。
眠くならないのだから、眠りの必要もないはずなのに。
気が向いた時にふらりと眠ろうものなら、妾はまた同じ夢を見てしまう。
同じおなごの夢。
そう、あのおなごは、あの時代にしては珍しく、かんざしではなくて”りぼん”を何の意味もなく、真っすぐの、すっきりとした頭のうしろに巻きつけていた。
桃色の着物を好んで身にまとい、潤んだ上目遣いでひとを苛立たせ、ごくごく稀に惑わせていた。
動かず、じっとしていればという大きな前提のうえで、だが——
そと見は愛嬌のある、小柄で、褒めたくはないがまあまあの、暗闇の中で着物を脱げば、あの時代の、仮に豊かな胸と、ちんちくりんの特殊なおなごを好むひとであれば、ごく限られた場合においては、目の色を変えるであろう体つきをしていた。
この者はいわば、妾と血をわけた者である。
優れた殺しの腕をもち、生まれ持った素質を振るわば百人力の怪力無双、積もるわ積もるわ、百戦錬磨の武功の山。
武功といっても、仕事柄、いずれもいまや黒塗りではあろうが、おそらくは、妾がここらで耳にした者の一人や二人は助けているのではなかろうか。
活躍ぶりから考えるに、風魔小太郎、服部半蔵とやらがあやつの可能性も、大いに。
そう、疑いようもない立派な忍びであるが、実際のところ、忍びである事とは、それ以外に何の役にも立たぬ事。
雑事、炊事を妾がすべてやってやり、身の回りを己の事情よりずっと丁寧に整えてやらねば、あのちんちくりんはもっと早くに死んでいたはず。
己への「など」が口癖で、散々ひとを殺めておきながら、自己評価が低く、泣き虫。
毎日の苛立ちを今でも憶えている。
そう、夢は、まずその身の回り、隠れ家から始まる。
変わらぬ景色、もやがかかった視界の中、くだらぬおなごが前に立っていて、生前さながらに何やらわめきながら、唯一、はっきりと、こんな風にほざくところから始まる。
「どうかお止めください、このようなおそろしい事は——」
やかましいといつもの調子で一喝して、飯をどかんと置いて、畳の上におなごを座らせ、普段通りに炊事をこなそうとすると、突然、向こうから煮えた釜の蓋がかたかたと鳴る。
いつも同じ光景だとわかっているのに、いつも同じ事をする。
走り寄ってまで開けた釜の中は黒く黒く、底の見えないほど深い穴になっていて、何者かもわからぬ者が反響とともに、中からこちらに呼びかけてくる。
「おうい、どうだあ」
知った事か、と答えて蓋を閉じる。
いつも。
すると今度は蓋がひっくり返って、遅れて地面までもがひっくり返って、場所はけだもの達の巣の中に変わる。
足元の生臭い雑草。があ、げえ、といった醜い鳴き声に混じって、けらけら嘲る大きな大きなおなごの声が、苔がびっしり生えた壁にしつこくこだまする。
「役立たずはいつも役立たずと吠えておる。おもしろい」
「おのれの名も知らぬ役立たずが。役立たずと吠えておる。おもしろい」
妾はその声に悔しくなって、どこかに隠れているなら一発殴ってやろうと慌てて走り出し、遮られるかのごとく、つたに足をとられて転んで、ついにはけだものたちにまで散々遊ばれる。
これを、どれくらいかもわからないほどの長い間続けていると、やがて妾はよく知った家の中に戻っていて、先程までの屈辱など、まるで何事もなかったかのように、いそいそとおなごに飯をよそう。
「めめの目」
おなごが俯いて、妾の袖を、小さな小さな力で引く。
そう、めめというのはおなごの名前で、確かな事。
つまり、めめの目というのが、不確かながらも妾の名らしい。
「めめに食事はとれませぬ」
たわけめが何を言い出す、具合でも悪いか、と妾が言う。
後のやり取りもすべて憶えている。
その時の気持ちといったら、夢の中であろうが外であろうが変わらない。
「めめは死んだのです。もう詰める胃袋がありませぬ」
休み休み言え。お主ごときが死んだところで何になる。
いいから、箸をとれ。
「めめは最初に射られて、その次はあちこち斬られて、息があるうち、ここを刺されたのです」
それと飯になんの関係があるのじゃ。
だいいちお主が不覚をとるのが悪いのであろうが。
「いいえ、違います」
わかっている。すべて見た事のある夢。
「悪いのはあなた様です」
わかっている。
「使えぬちからのあなた様です」
恩知らずめが、とその時、必ず叫んでしまって、妾はいつもいつも、この言葉にだけは夢の中の妾と思いが同じになってしまって、心の底からどうしても我慢がきかなくなり、めめの頬をきつく叩いてしまう。
茶碗の中の豪勢な、つややかな白飯はひと粒も減っていないのに、飯粒がぴたぴた、と畳に落ちる。
「見ろ。叩いたぞ」
めめが畳を見たまま笑う。
「叩いたぞ。叩いた」
ついには倒れ込み、仰向けに下品に転がり、腹を抱えて膝を折ってげらげら笑い出す。
飯粒がぱちぱち割れて、細やかな火花を撒き散らす。
なにか泥や泡のようなものが、ひいひい言う腹の動きに合わせてどぽ、どぽ、とこぼれる。
そして、こちらを向いた横向きの頭から、両の目玉がまっすぐにこっちをむいて、ぼとん、ぼとん、間抜けに跳ねて落ち、転がって、妾の膝に当たる。
「そうら。ここにでも入るがいい」
「ここに入れ。ここに入れ。ここに入れ」
そうしてめめは、潰れたまぶたで、ひどい格好のまま、延々と同じ言葉を繰り返すようになる。
顔がどんどん痩せて、やがて舌が回らなくなり、黒ずんで、虫に食われて、ゆっくり崩れていく。
めめがゆっくり崩れる間、妾はただそこにいる。
入れないから、そこにいる。
めめがどくろに変わって、それがひとりでに転がるまで、夢からは出られない。
覚めたとしても、しばらくは動けない。
決まって、眠った場所はそのまま、何かいやなものに体を抑え込まれている。
もがいて、もがいて、抜け出して、それでひとつの眠りがようやく終わる。
ひどく汗をかいている。これが汗であるのなら。
決まって、ほつりと歩いて、冷えた水を飲みに行く。
そうでもしないと壊れてしまいそうだから。
そんな悪夢を見るのであれば、なおさらに眠らなければよいではないか。
眠りなど。
あんな悪夢のひとかけらなど、何になろうか。
そう、本心から、確かにそう考えている。
なのに、まるで、何かを探るように眠る日が。
——わたしにはまだ、ある。
この前、海外の監獄のドキュメンタリー映像を見て、ここに住みてえ~と思った。
ノイローゼになりそうな生徒のにぎわいに「エイ、アー、オイ」だの「オイ、アー、エイ」だのを発しながら行う何らかの走り込み、吹奏楽部の何かの曲の練習に、何らかの、何か。
ああ、そうそう、ここは職員室だ。
中の下高等学校の国語教師である俺は『知木 等』。
中の下というのは、名実ともにそうであって、読みはなかのげ。わかりやすいね。
言葉の響きも適度に下品で、男子生徒に特に受けがいい。
現代の高校生の品位が気になるだろうから教えておくと、まあ、ここが下の下高等学校だったら俺は死んでいただろうというくらいだ。要するに、彼らの送っている青春というのは、君たちの送った青春と大して変わらないんだ。
スマホ以外はね。禁止されたガラケーがどこかであまりにも露骨に鳴ってしまって、気のいい先生がちょっと面白がって、授業中に突如始まった犯人探しに爆笑してたあの頃とは違う。
ああ、あと、靴下の丈がね。女の子にはズボンもあるよ。個人的には絶対に昔の方が好きだった。
だけど歴史って繰り返すものだし、またいつかルーズソックスが来て、それから紺ソが戻って来ると信じてるよ。俺はね。
まあ、なんというか、学校の教師といったって、俺もそんな程度の事ばかり考えて生きてるんだ。
ちょっと大人になったからといって、バカな子をバカにしたりはしない。
そういう事をバカな子の前で言えばクビになるから、言いたくても言っちゃダメだ。
さて、君たちは教師についてどんなイメージをお持ちだろうかね。
これはつまり、教師らしく授業形式にするというある種のメタ表現によって受けを狙っているんだ。
どうだろう。
ああ、犯罪者と、犯罪者予備軍ね。
大当たり! うちで言えば一割はとっくに地上波デビューして、もう一割は未遂だ。
そんな、いつまでもお盛んな逮捕者が羨ましくなる日々が来るなんて想像もしてなかった。
最近の俺のふがいないシモの話さ。
つまり、俺はその二割の方じゃなくて、幸い、忙しさの中、特定ジャンルのAVが必要なくなってしまった部類の人間だ。授業の相手が制服を着た成人女性だったらどれほど楽か。
まあ、はっきり言って、俺は皆が思うほどには極悪非道な職業についたわけじゃないけど、ストレスと過労がこの仕事の全てだ。大まかな苦労、一般的にどんな苦労があるかについては、その知識で間違いないと思うから省かせていただく。
俺には専門的な苦労と、それと特別、この世の終わりのように個人的な苦労がある、
前者は国語の授業そのもの。
基本的な文法、古文や漢文の読み方なんかは、すごく”授業”と呼べると思うし、これは俺にとっても楽な点で、全然苦じゃない。
問題は読解や作品の解釈を教える事。
これがかなりネックで、プライドの問題なんだけどさ、これって、わからない子に教えようと思ったら、ちょうど真ん中らへんの答えに無理やり落とし込むしかないんだ。
つまり、皆に共感を求めるのであれば、そうだな、梶井基次郎が何を思って檸檬を置いたのでしょうかとか、どうしてKが自殺したのでしょうか、とか。そんなの、どうやって答えを教えればいいと思う?
俺が決めた答えが君の答えだって、そんなの、ナンセンスにも程があるって思わない?
Kの正体がアレコレだったから、とか、面白いと思うよ。嫌いだしバツつけるけど。
冗談でも「ああそのレモンはね、単にキモくて躁状態だったからだよ」とか「内心見下してて決めゼリフまでぶちまけてやった相手に気持ちの上でハチャメチャに寝取られてブーメランまでザックリ突き刺されたからだよ」なんて教えられない。けど、実際そうなんだから、そう言いたいんだ!
三島由紀夫に俺の授業を見せたら、教えが正直でないとかさ、なんかあの怖い顔で言われて泣くと思うよ、いや、本当に。学生との討論の動画見たことある? 漏らすかと思ったよ。これは顔の怖さじゃなくて、集団的ナルシシズム心理の脅威に対してね。あいつら人生で何と戦ってるんだ?
——つまり、問一、この「俺」は一体何に納得していないでしょうか。って事だ。
ほら。それだよ。三島由紀夫と学生の討論って書いたらバツつけますからね。
そういう事だ。わからない子は一生わからないし、そんなの、どこまで行っても作者の考えや主張にすぎないんだから、ある意味で正しくも間違ってもいるし、言ってしまえばどうでもいい、別にわからなくていい。
わからなくたって、その子はその子で、俺より良い職場なり家の手伝いなりで上手くやっていくよ。
採点基準が劣悪なのもあるんだけど、まあ、それは、俺自身の手腕にもよると思うので触れないでおく。これが大人の世界のずるいやり方だ。悪いけど、傷つきたくないんだ。
ところで、こんな風に気さくに君たちと話しながらボールペンをノックし続ける俺の前には今、人影と物音がもぞもぞしている。
「ええっと……うわ、知木先生、なんっ……か、すっご、やつれてますね」
このまさに今、絶賛憂鬱中の俺の、斜め前のデスクに何でもいい何かを取りに来た、実写映像でこそ映える、いい意味でアニメ的じゃない爽やかな声の持ち主は『重柄 十柄』。
中の下にいるくせに上の上の体育教師だ。エスパーダの強さみたいな名前だよね。
体育教師のイメージは……わかった、聞くまでもなさそうだけど、こいつは違う。
この髪型を見れば、この、未だにBUMP OF CHICKENから卒業できない音楽アーティストたちのド定番、ミディアムのツーブロックを見れば考えが変わると思う。
皆が嫌いだった体育教師ってどうだったかな?
いかにも散髪屋で切りましたって感じの短髪に、おっさんだから大した事ない運動神経、保健体育の授業の時の異様なまでの寛容さ、浅黒い肌に自衛隊かぶれの教育方針、好きなアーティストは長渕剛。でかい頭につぶらなお目々、休日にはもしかしたらライダージャケットで腹を隠して、キッツいバイクに乗ってたかもしれない。そうそう、赤ちゃんがデカいおまるにハマったような座り方するやつね。風に乗ってる間だけ自分はアーノルドとか、キアヌなんだろうね。メットでさらに周りが見えなくなるから。
つまり、この重柄って男はその真逆なんだ。
俺よりも多くの仕事をこなしているはずなのに、時代をフル活用したフワッフワの銀髪、しなやかで筋張った、血管すらも根がはるように美しくまとまった手、自然と周りに漂うSっ気。男性の上位互換。清潔で、柔軟で、強靭。生徒に必要以上に干渉しない完璧な距離感、韓流スターのような顔立ちのくせに整形なんか怖くてできませんよ、とほざく。学校の裏サイトに”ちょっとエッチなファンクラブ”の欄があるらしいよ。俺はそんなの、とても見れない。マジで。
ああ、俺のルックスを言ってなかったっけ。
その、普通の身長に、メガネと一体化した顔に、それに似合う無造作ヘアだ。
ウシジマくんのキャラクターになるには十分な薄さ、凡さ、淡白さ。
重柄がオーバーサイズの白いウィンドブレーカーをラフに着こなして、アクセサリーのごとく首から銀の笛を光らせて、たわむれに時代遅れの竹刀に体重を預けては、やや斜めの角度でその好感度を例外含む女子生徒たちにパッシブスキルのごとく振りまいている間に、俺はアイロンをろくにあてていないシャツに芋っぽい無地のネクタイを通し、教科書の中に溢れる下ネタで男子生徒を沸かせている。
下ネタは、女に生まれてもそうしたと思う。俺は揺るがない。
「……やつれもするぞ」
しまった、俺の返しが死ぬほど面白くない。
ギャグを言うつもりだったんだ。疲労でユーモアが死んでいる。
そう、こいつと学内で話すと、いつも俺は天を仰ぐばかりになる。
「え、なんで? 知木先生の授業、ウチのクラスで面白いって評判ですよ」
どうしてそうマウントを感じさせるんだ。マウント別に取りたくないんだろ?
お前、たかが副担任のくせして、自分のクラスの生徒からイチ教師の俺の話を引き出すほどイケる口なのか。
「あでも、女の子ウケはけっこう最悪ですよね、まっじできしょいっつってました」
そういう情報はそんな爽やかな微笑みで言う事じゃないだろ。
お前、お前、俺の俺の何歳下だっけ?
「まあ男の子女の子も言いにくいですもんねえ。お、あった、よかったあ」
重柄はお望みの何かを見つけ、再びデスクを軽く整理して、そして職員室を出ようと、頑張っていきましょ、と俺からは一瞥に見える一礼をして立ち去って——
「おわっ」
扉の外に何かを見つけて焦って背筋を伸ばして、道を譲った。
何か何かうるさいって?
ごめん、気をつけるよ。
いや、多分、気をつけざるを得なくなる。
君たちと話す余裕がなくなると思うからね。
実は、そう、それが何かって、今、もう見なくともわかったんだよ。
ああ、俺の特別な悩みの“世界の終わりの後者たち”だろうって。
「先生」
「先生」
この場合、先生、というのは、俺の事。
そして、奴らだ。声がダブっているからって理由だけじゃない。
悲しいことに清廉潔白な俺は、生徒たちから「おい知木」とか「パチカスメガネ」とか、パチンコ屋になんか入ったことすらない俺は、いつも罪を犯したその後みたいに気さくに呼ばれているからだ。
ちょっとありがたいのは、生徒たちって普通、自主的には来ない。
そういう場合、キャーキャー言いながら、主に重柄を訪ねに来る。
そこを、あの厄介な二人組は、横に立つ重柄の事を完全に無視して、俺の反応を待つように、今は力を溜めるように、じいっと、たたずんでいるのだった。
『不見神 三織』と同じく『五織』。小柄な双子の生徒だ。
色Aがごくごく僅かに混ざった黒に、色Bがごくごく僅かに混ざった、大差ない黒髪をおかっぱにしている。
あえて今、どちらがどちらなのか明確にしなかったのは、俺すらも、どちらが三織でどちらが五織なのか知らないからだった。そして知る限り、両方が三織を名乗っている。まあ確かに、五織ってちょっとゴリラっぽい響きだし、俺も名乗るなら三織がいい。
ブラウンベースの校則通りの制服の上から、明らかに校則違反の、古めかしいというか、バブリーでサイズが一回り二回り大きい、もちろんお揃いの真っ赤なジャケットを羽織っている。
最初に廊下ですれ違った時、あからさますぎて止められなかった。
後から聞くと、それはおしゃれとかそういう部類のものではなくて、教師側への親切でつけられた”目印”らしかった。
首や手首とくれば、おそらく靴下の下にも巻き付けられた、蝶結びの赤い紐。
これらは、わざわざ、家族がそうしているのだそうだ。
ミステリアスだよね。
いや、ミステリアスであるだけならまだいいんだ。
この無関心社会の中、親切で目印をつけるって事は、死ぬほど危ないからマジでやめろって警告に他ならない。
「先生!」
「先生!」
ぎい、と椅子を鳴らしてしまった、トイレに逃げようとした俺のもとへ、だだだだ、と駆け寄ってくる。
そして片方は背後に回って腕を俺の胸の前に回し、肩にあごを乗せるくらい顔を近くして、自分の唇を耳のすぐ後ろまで持ってくる。
もう片方はわざと途中で勢いを殺し、指を俺の首筋にすうっと這わせてから、しゅるりと膝の上に乗る。前から向かい合って、下瞼をきゅっと持ち上げてくすりと笑う。
このヤバさ、わかるか?
違う。そういう意味じゃない。俺の気持ちをしっかり汲めていないから減点だ。
ただでさえ禁忌とされる双子に、禁忌を匂わされている。
この職員室の空気といったら! 見てくれよ、俺は犯罪者から死者にまで降格してる!
「み、不見神さん達、この間のテストは良かったよ、やればできるじゃないか」
……違うだろう、カワラズおじさん! その第一声はかえって怪しい!
ああ、俺の平凡な風貌、平凡なメガネ、その全てが見事なまでの逆効果を発揮してる!
「先生の教え方、すっごく特別だったよ」
「そう、特別だったよね。三織の教わり方はどうだった?」
「ねえ」
「どうだった?」
「どうして知らないみたいにするの?」
「どうして?」
互いの頬は俺の頬を挟んで両側に当たって、組んだ四つの手から、腕が四角形に俺の体を取り囲んで、ぎゅうっと顔まで寄せてくる。
ほっぺもちもち。
この、空気。
あーあ、やったな、やると思ってた、さよなら……。
違う、それらは全部誤解だ!
なんでわざわざ「特別な」なんて言葉を選ぶんだ、こいつら。
簡単だ。わかっててやってるんだ。
俺は最初に授業を受け持ってからというもの、こいつらに懐かれている。
そう、たしか挨拶は前の授業ですでに済んでいて、その日から”羅生門”をやる予定だった。
最初の授業を自己紹介に使って、勉強自体はすぐに終わりにした。
経験上、これを生徒は良しとするはずだった。
新学期、初っ端から授業始められるなんて嫌でしょ。
いたよね、最初からエンジンかける先生。俺は違うよ。
作戦通りなら、まあまあの好感度は保障されているはず。
だけど授業を始めるべく、教室に入ったとたん——
俺はただただ、異様な光景に驚いていた。
陳腐な表現で申し訳ないが、それはその時の俺の全てだ。
「三織の負け?」
「三織の勝ち!」
教室のど真ん中、床の上で百人一首を重ねている、二人のそっくりな女の子。
そこを避けるようにして、円をえがくように設置された机に、教科書を出したり出さなかったりして、こちらか、あるいは友達かを見て座る、全くいつも通りの普通の生徒たち。
「あ、なあ」
と俺が指摘しようとすると、先生、と小さく震える声で囁く、目の前の席の女の子。
お願いします、このまま授業を始めてください。眼鏡をかけた隣の彼も続く。
俺は言葉を飲み込んで、教室で何か尋常じゃない事が起こっているのを完全に理解して、緊急ベルに目をやりながら、教科書のページを普段通りの声色で指定した。
すると突如、
「国語は嫌い」
「国語は嫌い」
がたん、と二つの椅子の音。
はっとして見上げた先に、ほとんど同じ見た目の、二つの頭があった。
足元で震える机の持ち主を無視して、揃って上に立っている。
ノートも教科書もお構いなしに踏みつけているから、紙がぐしゃぐしゃだ。
「遊んでるの、出ていって」
「出ていって、遊んでるんだから」
さっきの女子生徒が、だめ——、と小さく言うと、窓から入ってきた足の長い蜂が偶然、彼女にぱちんと一度ぶつかった。
ひっ、と小さな悲鳴をあげて、転げ落ちて、尻もちをつく。
ぶんぶん、俺を煽るように空中に線を引く。
誰も彼も、見て見ぬふりだ。
「出ていけ」
「出ていけ」
蜂は暴れまわって、生徒たちを脅してまわっている。
男の悲鳴に女の悲鳴。ああ、もちろん肝の座った生徒もいるんだけど。
羽音が無関心たちをかき消していく。
小さな、なんか危ない、いい気になったガキ大将。
怖いは怖いけど、このおかっぱ達はそんな印象だった。
使命感みたいな、珍しい何かが自分の中でうずいたのを憶えている。
知らず知らず死の淵にいたからか、頭がやけに活発になっていたんだ。
「国語は嫌い? 国語ほどルールのない科目ってないよ。バーリトゥードだ。君たちにピッタリだと思う」
俺は、生徒たちの、バカ野郎という罵声を静けさの中で聞いていた。
双子は顔を見合わせて、クエスチョンを浮かべた。
「じゃあ何の科目が好き? 体育? 美術? どっちも難しいよね。君たち、ボクシングで勝ちたいと思う? だったら、ゴングが鳴る前に、こうやって! キンタマに一発入れて、こう! バックを取って絞めてやればいい。けど、それはルールがあるからできない。殴り合うほど血気盛んなのに、誰もそうしない。それじゃあベルトはもらえないからだ。でもボクサーはプライベートのセックスじゃ金玉を蹴られて勃起してるか、あるいは首を絞めまくってるかもしれない、減量のストレスがあるから」
生徒の緊張の中、二人はじっと指をズポズポする最低なジェスチャーを見ている。
ぶっちゃけ、蜂に何回か刺されたと思うけど、俺の下ネタ根性に観念して出ていった。
「美術はアイデアがなくて、粘土細工すら下手くそで、絵が描けなきゃどうしようもない。たとえば俺が今から美術の授業をしよう、これがモナリザ」
チョークを手に取り、カッカッと黒板に棒人間を描く。
「で、これがモナリザ二世だ」
もう一匹増やす。
「ほら美人だ、君たちに似てるよね」
「全然似てない」
「似てない!」
死んだ空気とユーモアの質から考えれば、俺はすごく優しいツッコミが入ったと確信する。
「どうして似てないと思う? 顔が気に食わない?」
音速のジャブをかます。これは皮肉だ。自分にね。
「体が細い」
「顔がない!」
「君たちだってここの皆のお母さんに比べればスリムだし、顔なら今から足すよ」
もちろん片方はバカみたいな目で、もう片方はマヌケな目だ。唇だけお揃いの”3”。
「ひどい!」
「ひどい!」
けらけら。
おい、ウケたぞ。
まあ、その、二人しか笑ってなかったけど。巡り巡ってデジタルヤンキー世代の彼らだから、ファムを侮辱するのはよくないよね。
俺は教師としてのモラルと授業時間をデスメタルに捧げられるだけ捧げて、まだ続ける。
「じゃあ、そうだな、たとえば、俺の事をバカにするなら、どうやってバカにする? そこの君! 俺をバカにするならなんて言うんだ?」
俺は個人的に嫌いな、なるべく彼女がいそうな奴を選んで、その魂を指さし、吸い上げてやる。
「……メガネ」
でかした、よく口を開いたぞ、スタンダード人間! ここで開けない奴には彼女がいない。
彼女いそうな奴って彼女がいるから死んでほしいけど、この時は教室の空気を良くしてくれて、クソ野郎バンザイだ。
「メガネ? あぁ俺には全然響いてない、同じくメガネのぱっとしない君はどう?」
「キモメガネ……」
このキモメガネに手応えを感じているのは、世界中で間違いなく俺だけだった。
「これは、”メガネ”に”キモ”を足したから効きつつある。どうだ、キモいメガネ、かける?」
生徒側に鼻パッドを向けて差し出したメガネに、生徒たちのドン引きと、さっき尻もちをついた前髪ぱっつんの、飾りっ気のない黒髪の、目つきのきつい女の子から特に困惑と軽蔑の眼差しを感じて、青春を振り返りながら、俺は最後に美味しいところを彼女に譲る事にした。
どっしりと構えて、目を見て言い放とう。
「実を言うと、君みたいな地味系ほどえげつない腰振りをするってみんな思ってる」
「はあ!?」
悲鳴のごとき、大きな声。地上波、ネット記事、懲戒免職がちらつく。
後で本気で謝るとして、これで生きてても地獄確定だ。背水の陣か。
「今の俺の言葉はキモメガネより最悪だったよね、つまりこれが国語を勉強する意味だ」
俺は低ぅく鼓膜を撫でる最低……という呟きに心をえぐられながら続ける。
「侮辱を侮辱ととらえてもいいし、そうでない言葉に傷ついてもいい。最初に言ったように、国語はすごく自由がきくんだ。ピッチングマシーンに先発を任せたっていいし、ゴッホの自画像を印刷して『下手くそ』と題したってっていい」
それは無関心にぶっ壊された人間が作るアートだ。すでに芸術の分野だよね。
他ならぬ俺自信にツッコまれたって、もう止まるに止まれない、ひどく荒れた道をスクーターで走り続ける。これ、銀魂とか、水曜どうでしょうとか、何かしらの歌詞にどう?
「たとえば俳句には五・七・五のリズムで作れってルールがある、けど今、すごく有名で、人々に評価までされたものをここで一句紹介しよう。『咳をしても一人』。これ、もう、すごくヤケクソで、終わってんなって思うし、ナメた真似してくれたけど、評価されてる。ネットみたいだね。だけどネットと決定的に違うのは、言論の後に結果が残るって点だ。それってつまり、ルーブル美術館の中でさっき描いた二つの棒人間を、これはめっちゃ良い美術品なんだよって、物事に物事を言いくるめさせて、モナリザ二世として本当に飾らせてしまったって事なんだ」
双子と生徒たちの気持ちが混ざりあったような、そうでないような、ああ、正直に言うと、かなり本能的に行動していたから実際何もわかってなかった。最初からヤケだったんだ。わかったかな。
俺は小説家になろうでクソ小説を書いていた時期があるから、とにかく話の始点と終点を繋げれば、なんとなくの線ができるのを知っていた。
「さっき、俺は悪口を言ったよね。それはキモい、メガネ、より綺麗な言葉だったのに、どうして彼女は怒ったんだと思う?」
質問のために目線を双子に戻すと、双子は揃って机の上に三角形で座っていた。悲しいほどにパンツが丸見えだ。チラリズムという基礎、怠るなかれ。最悪な事に孤独のグルメみたいな言い回しだ。ごめん松重さん。
「決めつけたから?」
「皆は思ってないから?」
「そう! 事実と異なる事を言われたから彼女はああして怒ったんだ」
事実でも怒る人は怒るんだけど、ここは学びの場だから言わないでおく。
「つまるところ、国語って、人間に元々備わったすごい能力を、時々バカにしながら、粘土みたいに練りまくって、その副産物が後々の教科書にだって乗るかもしれないアクティブな授業なんだ。まあ、これももはや多少差別的かもしれないけど。備わってない人もいるとか言われたらね。さて、国語が嫌いで坊主めくりは大好きなおバカさんたち、そのカードに書いてある文字だって国語の授業範囲だよ。さあ、文字は書けるかな?」
チョークを手渡すと二人は簡単に挑発に乗って、机から同時に飛び降りて黒板に向かう。
赤と、赤のチョークで「バカ」と俺に矢印まで向けて、大きく書いていた。
教室の緊張は少しだけほぐれたように思う。思い込みかもしれない。
少なくともこの双子は妖怪じゃない。
妖怪はこんなにベタな落書きはしない。
「ついでに反省文書いてね、この前の授業サボりましたって。最初が一番楽なのに、バカだな」
双子は散々バカと書くと、腰に手をあて顔を見合わせ、どこか満足そうに笑って、バーカと綺麗なハーモニーを奏でて、いや、音が同じだから多分ハーモニーじゃないんだろうな。とにかく二人は赤いジャケットをひらひらさせて、教室から走って出ていってしまった。
けっこうな時間を割いた。
俺は羅生門の老婆をおもしろおかしく演じるのにかけてはかなり自信があったんだけど、なんだか、この後普通に授業を続けたら、あの双子を侮辱する事になるのかもと思って、机を”本当の”元の位置に戻して、地味な子に本物の土下座を見せつけてから教卓に立つ。
自習の文字を書いたあと、どうしても二つの空席が目に余って、今後のスケジュールを練り直す事に決め、妖怪もどきの後を追ってやった。
さて、回想シーン終わり。アニメなんかじゃ回想シーンで一話使われると、なんか、ガッカリするよね。
俺はお揃いの線香みたいな匂いをかき消すべく双子をどうどうとなだめ、散歩を終えた犬の足を拭うように手を丁重にふりほどいて、二人を並列繋ぎに戻し終えてから一応メモを手に取っていた。
話を聞く前にメモを取り出すのは普通じゃないってわかってはいるけど、必要なんだ。
「遊ぼ!」
「遊ぼ!」
ああ、じゃあメモはいらないし、それってすごく嫌な提案だね。
放課後に生徒と遊ぶなんて最高だと思う変態の皆々様、どうかご自身の手をじっと見つめ直していただきたい。仕事、いや、何かの作業でも構わない。君たちが黙々とそれをやっていたら、そこにイノシシが突っ込んできて全てを台無しにするんだ。君はイノシシを追いかけ回して、抵抗むなしく作業はそこで一旦中断するともしよう。今日中に完成させなければいけない作業だ。
問二、何が生まれると思う?
答えはサービス残業だ。
問題形式はトニー・スタークのセリフみたいだから、もうやらないでおく。
俺の手が強く引っ張られる。力が強いわけではない、事情があって逆らえないのだ。
誰か止めてくれないのか、重柄、お前、何を笑ってるんだ。
俺がさらにくたびれる前に、事情について簡単に話そう。
実は不見神の双子の実家は、メチャクチャにパイプが太いんだ。
なんか、世界規模だとかなんとかで、それ相応にブラックな噂が絶えない。
あの授業の放課後、俺は大人なのに校長先生に呼び出されて、ひとつのファイルを手渡された。
内容は主に新聞記事だったり、ネットの印刷だ。
めくってもめくっても、次もその次の内容も死、死、死。とんでもない精神的グロの山だった。
「不見神に逆らった者の末路です」
さすが、単純明快な答えを一発ぽんと手渡して、見事に俺の息の根を止めてくれた。何か、保護者と関係者を集めて大切なお話をする日とやらがあったらしいが、俺はたまたま食べた牡蠣のせいで何もかもが止まらなくなって死にかけてたから、そこにいなかったようだ。
後日呼び出してくれれば!
まあ、俺はそれからこうして、実際のところに明確に触れられないままに、気まぐれに授業を受けていただきながら、どうしようもない双子とのコミュニケーションを強要されていたのだった。
まだどれだけ嫌がってるかが死と残業に慣れた諸君にはイマイチ伝わらないかもしれないから、遊びの質についてもひとつ触れておきたい。もちろん、ちょっとエッチなそういうのではない。
ヒントはこの双子の、新時代とやらにそぐわない見事なおかっぱ頭だ。
「もおいいかああい!」
俺は外に引っ張り出され、ヤケになって叫んでいる。校庭のすぐ近くで。
嘲笑が聞こえるが、事情は皆知っているので、どうにか嘲笑止まりだ。
返事がないなら、かくれんぼを始めても構わないのか。
かくれんぼの公式ルールを知らない俺は、これからこの広大な敷地の中であらゆる恥辱を受けながら、上手く隠れた二人を、なるべく早くに見つけなくてはならない。
遅いと俺の残業が伸びて、双子はふてくされる。
ただし早くてもダメだ。
経験上、三十分はかける必要がある。
そう、双子は古風な遊びを好む。竹馬、めんこ、ベーゴマ、どこで手に入れるんだか、そういうのが楽しいらしい。
何で遊ぶにしたってそれぞれ苦労はあるんだけど、俺はこのかくれんぼが一番嫌いだ。手間が桁違いだし、センチな、憂鬱な気分の時に限って必ずかくれんぼが選ばれるからだ。
そう、奴らはわざとやっている。
かくれんぼのRTAを観たいって?
いいとも。
まず、ロッカーを開けて周るんだ。経験上、ロッカーは選ばれにくいから、飛び飛びで二、三箇所確認して、そこにいなければ選択肢から外していい。
いずれにせよ体育館の近くで確認を終えるのがコツだね。次の探索がスムーズに進むし、スポーツに明け暮れる生徒たちの軽蔑の眼差しによるダメージは早めに喰らっておいたほうが精神衛生上良い。
ぱっと見渡していなければ、ここで倉庫を少しだけ開けて、反射を探す。
双子の金色の目は特別で、暗い場所で動物みたいに光るからだ。
もし他の生徒がそこにいて、若さが行動に現れていたなら、見て見ぬふりをしてやるのを忘れるな。
そこまでで大抵は見つかる。
ああ、もし見つけても、二十分立っていなければ適当に探索を引き伸ばすんだ。悔しさで延長戦に持ち込まれたくないのなら。
本人たちは気づいていないけど、双子は一度見逃された後は揃って必ず同じ場所に移動するし、移動先もある程度決まっている。
理科室、保健室横の物置部屋、俺のデスクの下。たったの三パターンだ。
それ以外でなければ、俺はこれこそルールで縛りたいんだけど、隠れ場所は更衣室かトイレなので、ちょうどその真ん中に立って、どこにいるんだあ、全然わからなあいと叫んで、イカれた教師を憐れむ清く正しい生徒たちの眼差しとともに、けらけら笑う二つの声を聞いて、俺の負けでゲームは終了だ。
そうすれば、最小限の三十分で終わる。あの双子とのかくれんぼであれば。賭けてもいいよ。
だから俺は今こうして、どこにいるんだと叫んで、心の中で泣いているというわけ。
「お疲れ様でした」
大人って、カラスが鳴いても全然帰れない。
双子は日が暮れる前に満足して家に帰ったから、俺が聞いているのは冷えたスポーツドリンクを差し入れしてくれた重柄の爽やかボイスだ。
ありがとうと素直にお礼を言うと、どういたしましてと返ってくる。成人男性同士、なんてシンプルなやり取りなんだ。
放課後の職員室には大人になりきれない奴が残るって暗黙のルールがあるけど、こいつは例外なんだろうな。わざわざ、誰かのためにやってんだろ。
「なあ、なんで俺なんだと思う? あの双子だよ」
まあ、いい男はこんなザマの俺を見てひどい事は言わないだろうと予想して、俺はいっその事、思い切って愚痴をこぼしていた。
「そりゃあ、面倒見がいいからとか」
上に目線をやって考えてから、当然、にっこり笑って無難な答えを返される。
「見ざるを得ないのに? きったないんだよ、あいつらのやり口」
「人に懐かれるって、すごい事なんですから」
「人気をお前に言われてもなあ」
重柄は、いやあ、と立ち上がって、窓まで数歩歩くと、薄暗くなってきた空をバックに振り向いた。
「僕はダメでしたよ。不見神には気に入られなかった」
冷房の冷たい風が吹いている。
自分のコンプレックスの対象をこねて作ったオブジェみたいな男から、急に敗北宣言みたいなものを突きつけられた俺は複雑な気持ちになって、ちょっとだけだけど黙り込んでしまった。
そして同時に、言葉に嫉妬っぽいニュアンスを感じたから、あらゆる可能性、それこそこいつが刈り上げ好きの犯罪者予備軍であるケースまで想定して、話した事のあるエピソードを引き合いに出してみる事にした。
「や、あんなの……ダメなほうがいいだろ。 最初の教室の状態が、人としちゃ正しいよ」
「本当にそう思います?」
遠くの誰かの足音まで、うっすら聞こえてくる。
互いに口を開くたび空気にいやなものが混じるのを感じてきて、俺はそれならばと、今度は向こうの様子について身を守るかのごとく、反射的に尋ねた。
「羨ましいのか? お前みたいなのが」
また少しの沈黙があって、
「あれこそ本物の厄災ですよ、それを従えてしまうなんて」
答えじゃない答えが、”厄災・従える”なんて、最高にらしくないニュアンスを含んで返ってきた。いよいよマズい、こいつ、まさか、うつ病か何か抱えてるのか。
ガードの体勢をヒールの体勢に切り替える。
「何かあったんだな? どうにか言って聞かせてみるよ」
その決死の救い船を感じ取ったのか、重柄はちょうど銀色の景色の中、にぶく溶け込んだ銀髪から浮いたその肌だけをくっと上に動かした。
「僕なんですよ。いや、僕っていうか、ちょっと遅かったかもしれません」
まだ、いまいち要領を得ない答えだ。嫌な感じだけど。
独白は続く。
「ウチ、家族が過保護なんですよ。若干アスペ気味? 僕が社会人になっても、まだ全然モンペで」
「ああ、まあ、そういうのも、増えてるって言うし……」
こういうのに対する答えは、ネットならハッキリ、現実なら曖昧がいい。
「この職場の……不見神の立場が両親にバレたんです」
おい。と、心の中で声に出した。
反射的に、その言葉の中の何がマズいかを瞬時に理解できた。
薄い暗闇の中で重柄だけが立体になって、不自然に浮かんでいるように見える。
「僕が絶対上に立っていなきゃダメで、それ以外の不平等は黙ってないんですよ。家、すぐそこで」
ただ、どろりとした空間に、気分の悪い時間。
俺はこれから起こる事が必然だとしても、それでもたまらなくなって、椅子を倒れるほど勢いよくスライドさせて立ち上がり、重柄の手首を強く引いた。
「不見神の家に行くぞ、重柄。俺も行くから」
だけど、びくともしなかった。
「……重柄?」
「いやあ、他に行くところがあるんで」
ゆっくり振られた頭から出た、あり得ない答えに俺は混乱して、ただ息をのんでいる。
「わかってるだろ!」
大きな声が出てしまう。
「僕からすれば、知木先生は不見神の一味ですよ。それに、そっちこそわかってるでしょ、もう止められない、親からメッセージが届いてました。長い時間、言って聞かせたんですって。バカだな、ちょっと金があるからって、調子に乗って」
だけど、ただ呟いて、全く動こうとしない。
俺は重柄の行動に哀れな気持ちを感じつつも、手っ取り早く見切りをつけて、一人で車に乗り込みエンジンをかけ、ばくばく言う心臓が爆発しないように深呼吸をしながら、いつまでも下手くそな運転で、すっかり暗くなった道をできるだけの速度で飛ばし続けた。
「あら、知木先生、どうかなさいましたか」
名乗る前から、壁に囲まれた大きな屋敷のインターホンが女の声で俺に話しかけてくる。
「三織さんと五織さんはご在宅ですか」
「ええ、それはもう、喜んでおりましたよ。いつもお世話になって」
緊張で漏れそうだった。
だけど、沈黙をすれば会話は終わりだとわかっていた。
俺はしたくない質問をするはめになるともわかっていた。
「誰か……他に、尋ねて来ませんでしたか、学校の事で」
少しの静寂の後、
「ええ」
と冷たい冷たい返事が、それこそ一瞥するかのように俺の耳を刺した。
俺は無我夢中で、カメラのレンズに向かって頭を下げる。
「その、うちの職員の大事な両親なんです、何かご無礼があればこちらから——」
「三織と五織が決めることですわ、先生」
インターホンが小さくぷつりと言って、後はただ、ホワイトノイズと虫の声だけがあたりに漂っていた。
車の中に座った俺は今度こそ、エンジンを、なかなかかけられなかった。
次の日、重柄はデスクにいなかった。
俺にはネット記事の「身元不明」の文字が違って見えていた。
事故、らしきもの、一部が……まあ、ひどい有様だったそうだ。
他人の忌引というやつを、俺は初めて重く受け止めていた。
自分を責めているわけじゃなかったけど、不条理には感じていた。
重柄の両親なんて知りもしないし、あいつが言うように性格がクソだったのかもしれないけど、見知らぬ何かに押しつぶされていい人間なんてこの世にはいないと思っていたんだ。
重柄にメッセージは送ったけど、かける言葉は、どう練ったって浅かった。
見つめる平凡な手には、血管がうすくうすく浮かんでいる。
がらり、職員室のドアが開く。
そこにいないものを無視して、こちらに明るい声を向ける。
「先生!」
「先生!」
双子がけらけら笑っている。
普段通りの態度で。
今日の俺は椅子を鳴らせなくて、鳴らしたくもなかった。
この平凡な手に何かが走っていた。
懸命に握りしめた心が、どうしようもなく脈動していた。
双子は何事もなかったかのように駆け寄ってきて、はしゃぎながら、また俺にまとわりついてくる。
「遊ぼ!」
「遊ぼ!」
遊ぼう。遊ぼう。
俺はその、きゃっきゃとはしゃぐ様子に、どうしても我慢ができなくなった。
景色が縦に、それから横に、急速にスライドした。
——ばしんっ。
数秒、双子が沈黙に違和感をもつのとちょうど同じくらいのタイミングで、俺はどちらかだか知らないが、その腕を振り払って、片割れの頬を平手で叩いた。
倒れないように、ゆっくり息をしながら、二人と向かい合う。
多分、二人の事をよく知っていたから、なおさら我慢できなかった。
職員室が乾いた音とともに灰色にひび割れ、静寂が辺りを包む。
片割れはさっきまでの浮かれた顔から、ずいぶん力が抜けて、座り込んで、もう片方も全く同じ顔をして、初めて会った時のように、こちらをじっと見ていた。
じっと。じいっと。
あまりに重い沈黙。
その場にいた職員の全員が自分の命の心配をしている。
それって当然、地面が真っ二つに割れるのを想像しているんだ。
ああ、もう少しのきっかけで泣き出しそうな人もいるね。
たぶんそれが俺だよ。
俺は、足をぶるぶる震わせながら、強い口調で、はっきりと言った。
「不見神。人殺しは、やっちゃいけない事だ」
赤くされた頬を気にもとめない女の子は黙ったまま、首をかしげる。
もう片方はまだ、何も言わず動かず、じいっとこっちを見ている。
「教えるのが下手なんだよ!」
大人なのに、わめいて申し訳ないとは思っていた。
だけど本当に泣きたかったんだ。
思い込みじゃない。
恐ろしい、この、全身にのしかかる死のプレッシャー。
発声の一音一音があまりにも重すぎる。
もちろん俺にうまいスピーチなどできようはずもなく、さっきのちぐはぐな独白が精一杯だった。
俺のよく知る禁忌の双子は、今、俺のすぐ近くにいる。
静寂。
職員の誰かがこっそり扉を開けて逃げ出そうとした、その時、
「来て、先生」
「先生、来て」
片方がすくっと立ち上がって、双子は珍しく真剣な顔をして、同時に俺の袖を引いたのだった。
もしかすると、最後の夕暮れなのかなあ。
俺は双子に導かれるがまま、林の中、小高い坂の上へと潜って、会話のないままに湿った草の上に座らされ、カラスの邪魔がちょくちょく入る真っ赤な空を見ながら、一緒に駄菓子を食べていた。
双子はあれから一言も話さない。
最後の晩餐、駄菓子って、あんまりだ。いよいよもって死刑囚以下だ。
口の中から、涙になるはずの水分をスナックごときに持っていかれながら、気まずい、この世の終わりの沈黙の中で次の袋を開けようとすると、双子は突然同時にぴょんと前に飛び、夕日の前に、微笑みながら揃って立ってみせた。
「怒ってないよ、先生の事は好き」
「先生の事は好きだから、怒ってないよ」
俺は黙っている。
いいや、それってのも違うよ。
好きならなおさら怒るべきだ。
お前らは俺の知る限り、例の魔法の殺人を昨日の今日、やったんだろう。
だけど、俺がやったのだって間違いなく、感情に任せた暴力だった。
俺は皆と違って、誰よりも体罰に反対していたサイドの人間だ。どんな理由があるにせよ、同僚の両親がその生徒にぶち殺されたにせよ、甘いだろうが、すべきでない事だと思っていた。
だから裁かれるべきは俺なんだ。ていうかひと思いにやってくれよ。ホントに怖いから。
双子はきゅっと手を繋いで、互いに向き合ったかと思えば、軽く俯いて、でこをこつんとくっつける。
「先生は織無に会っていいと思う」
「三織も、先生に、織無に会ってほしいと思う」
オリナシ?
なんだ、そいつが俺を殺しに現れるのか。
上等だ。来いよ。勘弁してくれ。死にたくない。
双子の片割れが夕暮れよりも強く輝いて、眩しさのあまり、俺は思わず目を閉じた。
ざあっとぼやけた風景がようやく見えてくる頃、俺の前には、大人の女性が立っていた。
その隣に、三織か五織のどちらかがいなくなって、どちらかだけが立っている。
小さいのは笑ってくれているが、大きいのは全くそんな気分じゃなさそうだ。
いや、大きいぞ。体感、俺の倍くらいある。
バレーの女子選手に会いたくなくなって、また使えるジャンルが一つ減った。
俺は髪フェチじゃないけど、後ろで一つ結んだ長い長い、とても美しい銀髪がバサバサに荒れているのがわかった。後ろ髪がそんな有り様なのに、目にかかるのが気になるのか、眉のあたりで横一直線にハサミをばすんと入れたかのような前髪。たぶん、誰が見たってオシャレじゃない。
化粧っ気の一切ない顔は、どうモラルをしっかり考えて表現しても美形で、そのコントラストが、ええと、怖い。おそらく胸をサラシで潰しているが、潰すのも面倒らしくセキュリティが甘くなっている。そう、あの双子のさらに倍くらいの丈の、赤いジャケットの前をがらりと開けているんだ。へその周りに薄く乗った陰影が、これは多分、エロいと言い切ってしまっていいと思う。
にしたって、あの長い袴みたいなロングスカートは俺にだって馴染みがない。
一言で表すなら、わかるかな、スケバン——
ばちぃん。
君たちに情報を伝えるべく奮闘していた俺は、その大きな女にぶん殴られて、揺さぶられた脳みその余韻はそのままに、柔らかい草に包まれながら気絶する事に決めた。
やはり、弱っちい、冴えない男だった。
五織の分をしっかりと返してから、三織の赤みがかった髪色を見る。
先公ごときが、ふざけやがって。
俺様は、まだめきめききしむ鈍い体をばきばき動かして、伸びた男のみぞおちを踏む。
「ごオェッ!」
菓子がゲロと一緒に逆流しているらしいな。
窒息死させても二人に悪ぃから、もう一度思い切り、今度は背中側から前に蹴って、あの木と木の間にシュートを一発決めてやる事に決めた。
間違っても折れないように、しかし遠くまで飛ぶように、横腹に足をひっかけて、爪先で持ち上げてから蹴っ飛ばす。
ぶんという音の後、やや遠くのほうでどん、ざっ、ざっ、とバウンドするみたいな音がした。
「俺様から歩み寄る理由はねえよな。殺されたくなきゃ、てめえで歩いて来いよ、十秒やる」
カウントをすると、草むらの中から、口の端にゲロをつけたゴキブリがヨボヨボこっちに這ってくる。
「何スか……?」
泣いている。まあ、驚く気持ちは汲んでやりてぇかな。
次の蹴りは我慢してやる事にした。
紳士な俺様は、蹴る代わりに地面を引っ掴んで、泥を顔に叩きつけてゲロを拭いてやってから、胸ぐらを掴んで間抜けの足がつかなくなるくらい高く持ち上げる。
「すいませんでしたァ! すいませんでしたァ!」
足を可動域いっぱいまでバタバタさせている。
何と言うか、こいつ。
思わず、ため息が漏れた。
「三織と五織が見たらがっかりするぜ。もう遅ぇが」
手をぱっと離してやると、バレリーナみたいな開脚で着地した。
使う予定のねえ金玉が取れちまったらしく、バレリーナはセイウチみたいな声を出して悶絶する。
正直、ちょっと笑いそうだったが、俺様は悶絶が終わるのを待たなかった。
「四者面談だ、下ネタのクズ教師」
先公は泥を袖で拭いて、こちらに向かってお決まりのセリフを言う。
「だ、誰だ、お前!」
「織無だよ、先生」
ぴょこんと先公の横から現れた三織が言って、俺様の中の五織が同じ事を言う。
「オリナシ……」
俺様はこいつの顔を見たくなくて、だが二人との約束を守らないわけにもいかず、ああ、そういうジレンマの中、こんな下らない奴に自己紹介をしなくてはならなかった。
「不見神織無。てめえの知ってる全ての殺しの犯人だ」
言ったところで構いやしない。事実だし、その事実とは事故だ。こいつにはどうする事もできねえ。
しかし先公の顔つきは少し変わって、この際ついでに言うと、人間のこういうちょっとした正義感が俺様は何より嫌いだった。
「じゃあお前——げッ!」
喉元に突き立てられた刃の切っ先に気づいた先公は、ぷるぷる震えて黙り込む。
構わねえんだぜ、ゲロのついでだろ。漏らすなら漏らせよ。
「俺様は二人との約束を果たすだけだ。嘘だと思いてぇのはわかる。だから黙れ」
したたり落ちる汗が切っ先を濡らし、そのまま完全に黙り込んだのを確認してから、俺様は馬鹿らしくも、自分の知っている限りの自分の事を、この何でもねえ男の前で語り始めた。
——それは三十三年ごとに行われる。
最初にいつ、どこで自分が生まれたのかなんてわからねえが、最初から自我はあった。
どうも俺様の同族の中には俺様と違い、自我を持たねえ奴が多くいるってのも後からわかった。
“俺”は最後に産まれる。
俺ってのは決まって三つ子の三人目なんだ。
産まれてすぐに五体をきつく縛られる。
産声をあげれば大人は、落ちた金を拾うように寄って集って殺しにかかる。
それが俺の終わりで、俺様の始まりだ。
苦痛はもちろん感じているが、まあ大した事はねえ。
俺の頃の俺をそうして殺し終えるまでが由緒正しき儀式なんだとよ。
連中が言うには、存在しない一人の生贄によって、俺は”俺様”になるんだと。
イヤになる。
毎度、周りの連中は濁った目をしぱしぱとすぼませて俺様の誕生を喜んでいる。
ひでえ時は三人目を念入りに踏み潰してから走り寄ってくる男も、確か中には女もいた。
そいつらは最初はいかにも、その時代の貧乏人という感じの、みすぼらしい、汚え格好をしていた。
だが、その儀式を幾度も繰り返すようになってからというもの、俺様が目を開くたびに連中の格好は小綺麗になっていった。
二つの赤ん坊のどちらかの中から世界を見る事になるから、数年の間は退屈する。
そいつらが二人の人間になる、正確に言や、十四歳になる頃、ようやく片方の体の器を借りて、こうやって外に出られるんだ。
「魔法の殺人は——」
「黙って聞けよ、それも説明してやる」
俺様は泥の中にいたミミズを引っ掴んで、泥ごと、先公に向かって、ぽいと投げた。
先公の情けない叫び声。
同時に、鳥がぴい、と鳴いて飛んできて、ミミズを爪で捕まえて、どこかへかっさらっていった。
「鳥はたまたま腹ペコだったんだ。運悪くミミズは食われて、鳥は腹が膨れた」
あの鳥もすぐに突風にあおられるか、電車にでも突っ込むんだろうがな。
「これが俺様の特性だ」
俺様の名前は『ダブル・ダウン』。
不見神織無って名は誰かにとって正しくても、俺様にとっちゃ正しくねえ。
欲深い人々によって作られた忌まわしき超能力、第三の目。
この力は自動的に作用して、俺様が現れている間、辺りのあらゆる生命から運気を吸っていく。
存在が小さければ小さいほど、運は早く尽きる。
運の尽きってのは、つまり、死だろ。
そうして辺りから吸った運は、俺が引っ込んでいる間は、勝手に三織と五織を幸福にして、敵に襲いかかり、味方を防御する。
味方ってのはこいつらの目線で、だ。
ごく主観的に定められる。それは大体において自分を甘やかす家族とかで、敵ってのは——
まあ、いい。
不見神の家ってのはつまり、何の因果もねえ、たった三人のおこぼれで裕福になってる家なんだ。
裕福になる資格があるのは俺様と、器になったこいつら二人で、あいつらはゴミだ。
「おい、わかれよ、先公。さっきのミミズがてめえで、不見神の姉妹が鳥だろ。あれが俺様の力だ」
「ちょ、ちょっと待て、じゃあ俺、その運の良さでやっぱり殺されるのか!?」
「聞けよ、制御はできる」
先公はほっと胸を撫で下ろして、やっぱりキッと向き直る。ダセえ。
何となく伝わったみたいだし、何より面倒だ。約束はここまでだしな。
「”運の良さ”じゃねえ。俺様はこいつらにとっての福の神で、生命全てにとっての貧乏神だ」
やや時間をおいて、いや、こいつらにとっても貧乏神かもな、と自嘲しておいた。
遠くでカラスががあがあ鳴いている。
ああ、死んだんだな。
「五織、約束はここまでだ。さっさと出てこい」
俺様が体の中に戻ろうとすると、
「いや、やっぱりちょっと待て!」
先公は、はっと何かに気づいた様子で俺様を引き止めてきて、片手を額にやっていた。
「このポーズ、古畑任三郎みたいだけど、今、すごく細かいことが気になった」
「何だよ。おっさんくせえぞ、その例え」
「三織は一緒に観たよ」
三織も織無も観てたよ、と頭の中の声。
あの役者の演技は確かにクセになるし、やり取りの面白いドラマだったが。
だが、先公が何やってんだよ。
生徒と連続ドラマ観てんじゃねえぞ。
「三十三年ごとに産まれるって、つまり、その後、この三織と五織は引退……?」
「死ぬに決まってんだろ」
簡単な答えを返してやる。ウソ言ったってしょうがねえ。
先公もその答えは頭の中にあったらしく、そんな、と言葉を途中で飲み込んだ。
「てめえのためにわざわざ付け足したんだ、貧乏神かもなって」
「いや、そんな——」
そんな。
俺は目の前の小女と大女を交互に見て、誰の予想通りにしたって、こう言うほかなかった。
「あんまりだろ。何か他にないのか」
「ねえな」
織無のあっさりした態度はやっぱり変わらない。
君たち、ひとつ撤回がある。
俺から見れば、ショックで、今やもう、あのエロいへそ周りは全然エロくない。
「俺様が離れたこいつらは三十三歳の三月三日、次の姉妹のために運を吸われきって死ぬ。必ずな」
「そんな虚しいひな祭りに死ぬってのか!?」
あんまりだろ。俺はさっき自分で言った言葉を繰り返している。
「制御できるって言ったろ! じゃ今の俺は何だ!?」
「例外はある。今からてめえを例外にしてやる事もできる」
俺は大きな刀を鞘に戻して悠々と夕日を見る織無が憎らしくなって、それから横の”姉妹”を見て、そしてやはり、違うと自分に言い聞かせた。
「俺様が言える事は全部言った。今度こそ替われ、五織」
ちょっと、ちょっと待てって——
「ただいま、五織」
「おかえり、五織」
「三織は三織!」
「三織が三織!」
あんまりな、いつもどおりの二人。
日はすっかり暮れていて、俺は二人を車に乗せて、家まで送った。
不見神の家に怒られても、怒っている様子なんか、スピーカーからだからちっとも感じなかったし、クソな気持ちが勝って、玄関を殴りつけてやりたかった。
「本当に申し訳ございませんでした!」
俺はたっぷり謝ったあと、そう締め括って、しっかり頭を下げた。
そして、
「だけど」
とモニターに向き直り、
「悪いんだけどさ、午後九時に寝てる子供なんか今どきいないよ。あんたらがずっと規則正しく午後十時に振り子時計みたいにヤって、鳩時計みたいにポッポポッポお達しになられてるなら、誰かにばっちり見られてるって断言できる。俺が”三人”を連れ込んでヤりまくってると思った? かわいそうに、おたくら、ポルノ依存症なんだ。ただ単に問題児を車で家まで送り帰す事が、大の大人が揃って本気でのめり込んでるキショい堕胎の儀式より悪い事だって? そんなの、ちっとも思わない」
インターホンの前で、織無の言葉を信じ、せめてもの、子供っぽい言葉を吐き捨てた。
さあ、やりきれない感情に流された俺は一体どうなると思う?
答えはこの清々しい休日の朝、本日をもっての懲戒免職だ。うちの学校は甘いね。
大人になると、一日に二回も感情に流されると、こうなるんだよ。
校長もそうだけど、うちは教頭の言葉すらも簡潔で嫌味はなかったし、その代わりに言葉もなかったけど、まあ、すごくいい学校だ。
あるいは、よかった学校か。
俺は片付けの途中、ちょっとだけ、ほろり、涙を流した。
それからぼんやりと用事を済ませ、ずうっと絶句している数の少ない職員たちにさらっとお別れの言葉を言って、綺麗なデスクを見もせずに職員室を後に——
「先生?」
「先生?」
しまった。できなかった。あっさりとはいかない。
これだ。今日に関して言えば、クビよりよっぽど、これを恐れていた。
この死のプレッシャーをもう二度と受けないようにする、それが俺の最後の仕事らしかった。
「先生、やめちゃうの?」
「先生、もう会えないの?」
「誰のせい?」
「誰のせい?」
ごう、と誰かのパソコンがすごい音で誤作動して、たぶん、ブルースクリーンになった。エアコンも気が狂ったように運転している。昨日聞いた理屈の通りなら、何かが職員に迫っているって事だ。そうなるんだよね、織無。お前、止めろよ。家にいろ。
ああ、地鳴りまで、おのれの胃からはっきり聞こえてきてる。胃粘膜が焼けてるんだ。
職員室は朝っぱらから地雷原に変わって、休日返上のソルジャーたちが机に背中を預けている。
「あ、会えないってことはないさあ、いつだって会えるよお」
いや、ダメだ俺、それは本当に真人間からは絶対に出てこない、ひどい答えだ。
「本当に?」
「本当に?」
今の二人の様子をお伝えするのであれば、完全に妖怪だ。
二体の妖怪が、貴様らなんぞいつでも殺せるのだ、と首をかしげている。
三体なんだっけか? いや、お前はカウントしてやらないぞ。マジで、納得いってないんだから。
「本当だって。ああ、俺の名前、知木等って言うんだ、いつも先生だったろ? もう先生じゃないんだから、今度からどっちかで呼んでよ。ラヌキさん? カワラズくん? ダァ~リン? ハニ~~ィ?」
俺はとにかくこの場をいったん切り抜けるため、職員のご機嫌を完ッ璧に切り捨てて、姉妹のご機嫌取りに全集中・呼吸斬りをする。俺はいつも軽蔑に囲まれる運命にある事に、今の今になって気づいた。
ばちんと電気が鳴る。ああ、さっきの答えは違うらしいね。
まだ鳴っただけって事は、やや違うって事か!?
「なあ、どこか行こう、遊園地に行こう! お化け屋敷は行ったことないよな? 怖いぞお、今ってあんまり人が驚かさないからさ、CGばっかりの映画や、オリエント急行に甘えっぱなしのミステリーと同じで、これ話したよな? 少し視点を変えるだけで、すっげえ薄ら寒くて面白くなるんだ。だけど俺はこうして余裕ぶってても、あくまで構えてるだけで、作り物が突っ込んできても簡単に気絶できるし、そこがグロ画像で喜んでるような冷笑オタク共と決定的に違うポイントだ。抜けたところがあって、すごく可愛げがあるし、その可愛げに酔いもしない」
ほんのり、みきみきと聞こえて、それからオノマトペにとても収まりきらないほどの、とんでもない轟音とともにエアコンが落ちてきて、辺りがホコリまみれになる。けして吐血じゃないんだけど、周りの咳込みがかなり吐血っぽく聞こえるようになってきて、いよいよもって、いよいよだと思った。
「待った、待った! どうしたらいい? どうしたらご機嫌になる? ミスター三島、わかってるよ、美しくないってわかってるけど、もういっそここで好きにやってくれよ! 苦手なんだ、他の人が怒ったり泣いてる時ってだいたい、一番怒ってるのも俺だし、泣きたいのも俺だから!」
スプリンクラーが作動して、辺りの電子機器が今か今かとうなりをあげている。
ごめん、死んだ? 校長無事? 教頭無事? まだ無事ね。
惜しい!
「つまりだ——」
絶体絶命。
追い込まれに追い込まれて、気絶しそうになって……
「先生は」
「先生なのに」
ぽろ。
涙の音まで聞こえた気がした。
ええっ! と間抜けな声を出して尻もちをついてしまった。アホ丸出しだ。
俺はアホだけど、姉妹は確かに泣いていた。
ちょうど同じだけの数の涙が、全く同じ道を辿って、同じタイミングでぱたぱた胸元に染みを作る。
この経験も初めてだった。俺が大人になったってのか? あり得ない。
ああ、これまた陳腐だけど、すごく、胸が締め付けられる思いだったんだ。
今まで俺が泣かれた時といったら、たいてい、俺がキモすぎた時だったから。
いや、もしかして、それが今なのか。
俺はひとまず、今にも崩れだしそうな職員室から姉妹の手をとって連れ出して、学生時代の心のオアシス、保健室に入りたかったのをグッとこらえて、横の空き部屋に連れ込んだ。
それから申し訳ないけど、洗濯物を増やすだけのハンカチなんか普段から持ち歩いてるはずもなく、カッコよく涙を拭ってやる事はできなかった。メガネかけた日本人男性のハンカチがメガネ以外の何を拭うっていうんだよ。
そう、ハンカチ、持ち歩くといいらしいよ。ジョーカーに撃たれる奴が別の映画で言ってた。俺はこれかられっきとしたジョーカー候補だから、ハンカチはいいや。それに俺は君たちのカバンやポケットから取り出されたハンカチを触りたいと思わない。
いや、ごめん、今のはホント、文脈もクソもない八つ当たりだった。
まあまあ、変態諸君は、ダブルおかっぱが泣き止むまで、三角座りで、すんすんと鼻をすする音でも聞いて待っていてくれ。
スーパーバイノーラルだ。二人からはいつも線香みたいな匂いがするし、匂い付きASMRが羨ましいと思うなら、やっぱり君たちは変態だ。
ちょっと喉から溢れる声に、なかなか出ない言葉。
自分の腕に頭をうずめて、ひしゃげた髪ののれんから、のぞく耳の産毛の透明さ。
詩的な表現がキモすぎるって、なろうの評論家に書かれたコメントが俺の唯一の心の支えだったけど、二人とも、ちょっとしたヒステリーで職員室の設備を軽く終わらせてしまったけど。
こいつら、もしかして、似てるだけの普通の姉妹なんじゃないか。
そんな事を思っていたら、俺もいつの間にか、ふたたび泣いていた。
ああ、やっぱり俺はアホだった。
完全にラフメイカー状態だ。
三人、もしくは四人で泣き明かして、休日出勤の日、いつも通りにチャイムが鳴り響いて事態を収めてくれると勝手に決めつけていた俺は、よくないと思いつつも時間に甘えて、少しの焦りとともに、ポケットからスマホを取り出した。
空き部屋は薄暗いから、今、俺の顔が照らされてすごく怖いと思う。
「……ん?」
ん? じゃない。
捕まるとしても、寂しさのあまり、すべき事をやるんだ。
懲戒免職を喰らった俺が何をしようかとしていたかというと、今から生徒に何らかの連絡先でも渡そうと、犯罪者予備軍の一員としてただ目論んでいただけだ。
だけど、スマホの通知欄には、文字通り明らかに、別の厄介事があんぐりと、口を開くように待ち受けていた。
頭の中で文章を読み上げ、終える。
不自然な時間。
今日も元気にばくばくしている心臓。
「……三織、五織、先生は必ず今日、先生に戻るからな」
ぽつりと呟いて、二人に安全装置をかける。
まだ意味をよく理解できてないようだったけど、今はそれでよかった。
俺は二人の対になった右肩と左肩をがしっと握って、堂々と言った。
「だから、いいか、これから先生を、絶対に追っちゃダメだぞお!」
ビビリの悪い大人は、この時、いや今だから言えるけど、実は、願わくばこの言葉が、一つの、その、延命措置になる事を期待して言っていたんだ。
二人のあっ、という重なる声を背に部屋を出て、靴を履き替え駆け出した。
場所は少し遠いが、幸い、車で行かなきゃいけないほどの距離じゃない。
面倒な奴だな、あいつも!
走る腕や足には、にぶい風がずるずる巻きついていた。
「お気遣いありがとうございます! これから会えませんか? 場所は動画で送ります」
これがさっき見た重柄からのメッセージの全文だ。
なんか気持ち悪いの、わかる?
らしくないし、だけど、らしくもあるし、らしくない。
ああ、これは良くない表現技法だと思うね。
よく知るファミレスから始まる、長い、長い動画だった。
そこから始まって、道路を歩いて、茂みに入っていく。
これがまずおかしい。
会って話すなら、そのファミレスでいい。なぜ、わざわざこんな所に。
それに、送られてきた時間だって免職を喰らった直後だ。
昨日の事から筋道をたてているにしたって、あれを見てたってのか?
俺はあふれ返る疑問の中、虫を気にしながら、むしろ熊でもいやしないかと怯えながらも、着実に動画と同じ道を辿っていた。
もしかして、あいつがサイコのゲイで、おまけに悪趣味だとしたら、ひどい鬱とともに、心中とか、とか色々考えて、あの爽やかなツラを思い出して、いや、やっぱり全然ありえなくないと自己完結する。
だとしても親のことは本当に気の毒だったし、何より、責任は俺にもある。どっちにしても俺から会いに行っていたと思う。こんな茂みの奥になってしまったのは残念だが、死体さえ転がってなければ、俺は頑張るつもりだった。
姉妹に複雑な事情がある事も伝えて、できる事ならあの家について一緒に考えてほしい。
茂みの中の、木々が密集する中、不自然に丸くあいた穴をくぐる。
穴は徐々に狭まっていき、息苦しくなってくる。けど、重柄の体格で通れるなら大丈夫なはずだ。
トンネルを抜けると——
そこは廃村だった。
オマージュだ。中途半端な。
あのアニメが風俗の暗喩だって? 冗談じゃない、俺も絶対そう思うよ。
吹き抜ける風に草原、建物の列。
建築は古いし、完ペキ廃墟だけど、すごく大きな町だ。
夜に来ると怖いだろうな、なんて思いつつ、俺はその死んだ町並み、村並み? になんだか感動して、探検するかのようにぽつぽつ歩いていた。
和風で古い造りだけど、辺りにはまだ何か、嫌いな言葉だけど、クラウドファンディングとかでなんとかなりそうな、全然住める感じの建物がちらほら立っている。
動いて見えるのはもしかして水車なのか。
生で初めて見たし、その水車が動かし流す水はすごく透明で、光の粒が見えるくらい綺麗だ。
「うおっ」
景色を見て腰を抜かしそうになる。
思ったより高いところにあるんだ。
なんか今の、処女っぽい感想だったね。
クライマックスで落ちるなら、ここだ。決めた。
いや、なんか、ちょっといい。
老後、こういうの、いいかもしれない。
「知木先生」
すっかり老後について考えていた現・無職の俺は、ぽん、と後ろから肩を叩かれた。
心のおしっこがちょっと出て、振り返ると、あの笑顔がそこにあった。
「よかった。場所、わかったんですね」
「あ、ああ、うん。お前、大丈夫なのか?」
うつ病の人に大丈夫かと聞くのはダメだそうだが、そうでなければ俺は相変わらずイラつく顔だな、とか言ってしまいそうだったので、とりあえずの初手タブーを犯しておいた。
「一緒に来てください、案内しますよ」
「どこだよ、レイプ小屋か?」
今わかったんだけど、俺のギャグって仲が良いなら苦笑いで済むけど、悪ければひたすら不快だよね。
「当たらずとも遠からず、ですかね」
あはははと笑っている。え?
なんだよ、メチャクチャ怖いぞ、こいつ。
レイプ小屋から当たらずとも遠からずの場所ってどこなんだ。
水車のための水路が綺麗な川に繋がっているのがわかって、辺りには苔もちらほら見えてくる。
まあ、クリーンな気持ちで来れば、リラックス効果はあるのかもしれないけども。
「あ、知木先生、ちょっとここ、気をつけてください」
重柄は小屋の横を通り過ぎる。いや、小屋と言うにはちょっと大きい気もする。
なんなんだ、この時間。ゲイの気持ちは全然わからない。マジで死ぬ前の観光デートなのか。
俺はそこに一緒に入って、辺りを見渡した。
そこは明らかに他と違っていて、かなりしっかりした造りの、頑丈な石造りの建物だった。広く、直径だけならちょっとした一戸建ての家くらいはある。あるいは雰囲気でそう見える気がする。
ずらっと並んだ、壁からしっかり離して置かれた長い長い飾り棚が綺麗に整理されていて、あちこちにまだ新しいカーテン? 幕? みたいなものがひらひら揺れていて、ずらっと並んだ瓶の中には、すりガラスで作られているのか、白いノイズでよく見えないが、ピンクっぽいものが入っているようだった。
「あんまり気にしすぎないようにもしてくださあい」
いや、よぉくわかってんだって。
それでもさらに目をこらしてみたら、小屋の四方に黒ずんだ盛り塩がしてあって、俺はそれをきっかけに見るのをやめて、小屋から出た。
社会人最大奥義、見ないふりだ。全容が見えてくるまでは。
何か、こいつが元気になるための何かなのかもしれないし。
急ぎ足で外に出てから外装をよく見ると、神社とかによくある、ほら、おみくじを結ぶための細い縄、細縄って呼んでいいのかわからないけど、草の上にすっかりだらんと落ちてしまっているのもあって、ところどころでちぎれているのに、それでもぐるんぐるんに巻き付けんとする何者の意思だけがものすごく残っている。一言で言えば軽くなるけど、”昔、封印しました”感が出てる。
どうも俺は、無意識のうちにそれをまたいで入ってきていたらしい。
恋占いのおみくじがかわいく揺れているはずの箇所では、すごくいや~な感じに赤い線の入った古紙が結びつけられている。
あれ、絶対に何かしら”おさえとく”ためのお札だよ。
ここは撮れ高すごいぞ。
俺はいよいよ怖くなってきて、重柄とともに、やけにぬめる、つくりの粗い階段に足を交互に乗せ続けながら、いくら親が死んだ憂さ晴らしでも、心霊スポットを楽しむっていうのは悪趣味すぎると思って、頑張って重い口を開いた。
「なあ、ここって……」
「ここだけ大工さんじゃなくて、素人が無理やり作った階段らしいんですよ。けど、もうすぐです」
聞けよ!
綺麗な景色が、クソほど重苦しい雰囲気をまとって、重柄がどんどんゲイに見えてくる。
いや、マジで登りにくい。
……て事は、戻りにくいんだよ。
罠みたいじゃん。
ホラー映画を観ていて、行くな、早く逃げろ、といつも思っていた。
けど考えを改めるよ。俺もこれでめでたく恐ろしげな未知の世界を奥へ奥へと突き進んでいく経験を自分で選んでまでしてしまったわけだから、誰にも文句のつけようがない。
下を向いて石段を登っていた俺は、そのゲイ候補の胸にどん、とぶつかった。
「急に止ま——」
「おられました」
おられました? 何だその言葉遣い。クソ、正してやりたいのに。
おそるおそる、どれどれと、重柄の迫力のある背丈から顔を出そうとして、俺は自分が、ほら、怪我する前のスローモーション、あれに似たものを感じている事に気づいた。
ゆっくりになった自分の頭が動くにつれて、世界の色が変わる。
銀から白へのグラデーション。
そして重柄の体の目隠しから完全に解放された瞬間、さあっと甘い風が吹いた。
女性だった。小柄な。
いかにもな祠、微笑む美女。これって死語っぽいけどイケメンに、バックは美しい緑。
今は耳に入る水の音と鳥のさえずり、それと虫の声が冴えないメガネの俺の全てだ。
「説明しますよ、知木先生」
「ここに来る前じゃダメだったか?」
そのまた奥にぽつりとたたずむ、ぼろの廃墟。
「だって、受けた後じゃ来ないでしょ? いかにも勧誘っぽいし」
「ああ、来なかったね」
俺たちのやり取りに、女性がくすっと笑って、横槍を入れてくる。
「知木先生と重柄先生は仲良しって聞いていたわ」
その声は最初に抱いたイメージよりもずっと明るい声だった。
「仲良しですよ」
「仲良しではないッスね」
女性はあらあら、そうなの、と意地悪げに笑っている。
あらあらって言う美人、生で初めて見た。
重柄は女性の隣まで歩くと、手をすっと女性のほうにやってから、デキるセバスティア~ンさながら自分の胸にその手をやった。
言っとくけど、お前、それ、生身でやるとめちゃくちゃキモいぞ。二次元でもちょっとキモいのに。
「足々女様です」
「はじめまして、知木先生」
ぺこりと、いや、しゃなりと頭を垂れた女性の、大きな二つの三つ編みが揺れる。
いや、これは比喩でも下ネタでもないって。
確かに小柄なのに胸はすごいよ。けど君たち、おっぱいを三つ編みに例えるの?
まあ、確かにそこは、厚手の紅白の着物なのに、不自然なほどにふっくらと膨らんでいて、動作のひとつひとつは明るくありながら、女性諸君がブチ切れそうなほど色っぽい。けど肩を持つわけじゃないけど、誓って言うけど、田中みな実ほどふざけてない。おだやかな色気だ。髪は昨日の織無と同じ色だ。でもまあ違うよ。根本的な部分が全然違う。まず俺の体がまだ痛くないもん。
もちろん決していいところばかりじゃない。体中に細い……あれは何だ? 細い紐を軽くも、びっしりと巻いているようで、何より目を引くのは頭から真横にまっすぐ伸びた、ブラウンの角だった。
角には先端にまでその赤い何かがぐるぐるに巻き付けられて、終点に揺れる鈴は、彼女が少し動くたびにちりん、ちりん、と鳴っている。
それでも視線は結局胸に行っているんだけど。
アタリメ様、もう百回は目が合ったけど、くすっと笑って男の子を許してくれてるし。
やがて重柄が巨乳の見すぎを咎めるように口を開く。
「セックスに興味あります?」
「無いですね!」
俺は即答した。言った重柄本人も、嬉しい事に、俺が抱いている誤解の内容にようやく気づいてくれたのか、いやいや、といつものモーションで両手を振る。良かった、本当に。
ストレートにひどい勧誘だろ、今のは。録音しとけばよかった。
「そうじゃないですよ。好みじゃありません。じゃあ、セックスに伴うものって何だと思います?」
なんで嫌いな奴ほど先にフるんだろうね。
「俺は国語の教師だ。保健の授業は大好きだけど、哲学は大嫌いだ。俺が何を言おうが相手がNOって言えるからだよ」
「それって答えになってないですよ。つまり、繁殖のリスクです」
重柄は淡々と続ける。
「じゃあ、統計学で言いましょうか。今って、何らかの障がいを抱えて産まれてくる子供が増えているんですって」
「イーロン・マスクの事言ってる? 俺も、もっと顔のパーツが中心に寄ってればなって思うよ。毎朝ウンコして、それにエックスって名付けるんだ。ジークアクスでもいい。いや羨ましいんだって。マジ。嫉妬。用紙につけるバツがチェックの形で良かったって心から思うし」
「ADHDの診断は先天性、後天性ともに社会的モラルとは別の話ですよ」
「もういいよ、今度はゲイから専門くずれyoutuberくさくなってきた。年寄りだってスクロールバーの存在くらい覚えたろ。忘れるだろうけどさ。なあ、お前の話って、オモロさわかりますよね芸人の平場みたいに退屈だから、さっさと本題に入るかシュールなコントやってくれよ」
女性はくすくす笑っている。どういう笑いなんだ。ていうか、もうわかるし。なんとなく、あんたが原因なんだろ。で、手下なんだろ、その韓国風イケメンが。俺はその住処のてっぺんにいるんだろ?
あ~あ、じゃあヤバいじゃん。笑っちゃうね!
「『産子贄』って……もちろん、知らないですよね?」
「それらしいオリジナルのワードが急に出てくると萎えるよ、そういうの嫌いだ」
「その萎えるワードとは、こちらの足々女様と交わる儀式の事を指します」
「わあ、素晴らしい、すっげえエロエロ。アタリメ様、ミッドサマー観たの?」
俺はこの会話の終着点がずうっと見えているせいでイラついていて、同時に死ぬほどビビっていた。だから、はぐらかし続けていた。
密教とかだったらって思ったんだ。ベタだけど。
けど、ベタでもなんでも、シンプルに刃物を突きつけられたら普通、怖いって思わない?
「ミッドサマーってなあに?」
「映画ですよ、怖いやつ」
「あら、まあ」
俺はこのやり取りが続くのが説明くさくて嫌だから、逃げ道を一通り考え終えてから、逃げ道がない事に気づいて、いっそ一気に切り込んでやろうと決意を固めた。
そう、俺は死がちらついたとき、いっそ、ってやるタイプだ。
つまりゾンビに囲まれるのに向いてない。ワーってなって、すぐ死ぬだろうね。
「それをやるとどうなるのか、ここは何なのか、この二つを簡潔に答えよ」
「急に教師感出してきましたね」
すると、足々女は、ねえ、と言ってから耳打ちをして、かがんだ重柄もうんうんと頷いた。
「我々の目的は、人間一人一人の幸福な死です」
ビンゴ! って、今どき言わないのかな?
俺はおしまいみたいだ。
「”ひと”……つまり男性が足々女様と交わると、その繁殖の可能性、子孫を残す未来を永久に失います。ただし、足々女様は全ての人の母であるお方。その見えない犠牲と引き換えにひとは足枷を外される。僕らは教団じゃない。自給自足の地の住人です。儀式だけを対価に、ひとが暮らしてゆくためのシステムを提供しているんですよ。人間社会からの解放と、生物的責任からの脱却。不治の病が治った例もあります。労働は強制ではなく、何もできない事を役割として認めます。まあ、だけど、そうすると嫌でも自信がついて、おのずと何かができるようになるんですよ。殻に引きこもる必要がない事を暮らしのどこかで知るからです」
「お前らみたいなのが出てくるドラマじゃ、お前らみたいなのはインチキだし、それを指摘した俺は、これから阿部寛とパフォーマンスに巻き込まれる」
「なんで知木先生が仲間由紀恵なんですか?」
らちが明かないから、俺はちょっと大人になろうと背伸びする。
「体育教師には辛い現実だろうけど、自給自足にだって初期費用は必ずかかるんだ。こんな大自然にまみれてるだけの原っぱから始める? 馬鹿も休み休み言え」
「まあ、よりバカげたバカ二人の遺産が腐るほどあるんで、どうにかなりますよ。それに、まさか開拓から始めるワケないじゃないですか。シンボルをここに置くってだけです。ここは足々女様の大切な土地なんですよ」
さらっとした言葉が通り過ぎた。
そのさらっとした言葉がちくっと、そして死ぬほど俺に引っかかった。
こいつ。今のセリフ。
なんて言った? 正気か?
「……アタリメさん、こいつ、最初からこんなだった?」
「ええ、出会った頃からずうっと」
ああ、じゃあ俺が悪いよね。
けどまあ、向こうの木偶の坊はどうも、見誤ってただけで、けっこうダメな奴だったんだろうけど、こっちとは戦う値打ちがあるかもとも思って、俺はいっそ会話のターゲットを変えてみる事にした。
「それで何を目指してる? 世界征服?」
「いいえ、神さまはただ、神さまの大切なひとたちと一緒にいたいの。そして、この小さな大陸のなかに、大切なひとたちだけを残して、ほかはみいんな、死んでほしいのよ」
にっこり。
ざわ、と木々が揺れる。
木々の気持ち、わかるよ。
「ああ、アタリメ様は神さまなんだ」
「そうよ。やさしい神さま」
「最高。売れなくなった曲のタイトルみたいだね」
もう笑わないでほしいけど、すっげえ笑ってる。
「”にえ”を捧げればいいの。あなたも幸せになれるわ。ちょうど、つらい事があって、お仕事がないって耳に挟んだものだから、すぐに彼を向かわせたの、彼、すっごくいい子」
「悪いけど、でかい乳を揉める以上のメリットを感じないよ。いや、素晴らしいメリットだとは思う。羨ましいよ。そこのアホも揉んだ? お前は破滅的マゾだったわけ? 想像つかないな、破壊的サドっぽいから」
重柄は言葉を無視して、アタリメ様が言葉を続ける。
「幸せな時代を生きてきたひとには、なかなか理解されないのよね。けれど、ひとが増えるのって悲しいことなのよ。あなたは面白い皮肉屋さんだから、特別簡単に教えてあげる」
ぐちゅ、という音がしたと感じた瞬間、俺は上半身を何かに絡め取られて優しくぶん投げられて、木に縛り付けられていた。
見ると、足々女の背中から二本の吸盤付きのイカの触腕が生えて、それが俺に伸びていた。
ああ、イカの触腕って言ったけど、すっげえ嫌な緑混じりの銀色してるし、そんなかわいいもんじゃない。なんて例えたらいいのかわからない、締め付けがキツすぎて痛いから尚更。
でっかいおっぱいと袴のスリットからのぞくむっちりしてそうな太ももばっかり見てたから気づかなかったけど、アタリメ様、人より目玉の数が多いんだね。関節とか、わかりづらい位置に、隠してるのか見せてるのか、コンプレックスなのかプライドなのか、けっこうしっかり化け物してるんだ。こんな仕打ちできるんだから、そりゃそうか。
「人類が最初に過ちを犯した理由って何だと思います? 知木先生。 アスペとアスペがくっついて、アスペがつくる社会って長持ちしますかね? 僕、そのうち人は奇形の醜い姿になって、他の生き物を全部殺して、わけのわからない言葉を叫びながら、わけもわからず戦争を続けるだけになるって、親とか世界情勢見ててそう思ったんですよ」
くそ、お前が喋るのかよ。まあ、そうだな、世界情勢の事だけはマジで不安だ。
だけどマジで、マジでブーメランがお前には百本刺さってるからな。
触腕が締めってより、もはや絞めをきつくしながら、どんどん首へと這ってくる。使い道はそっちじゃない、そっちじゃないだろ! 下に行け!
「例えば幸せな家族って、どこまでが幸せですか? 認知症や末期がんになって、幸せな家族を苦しめるところまで? 少なくともそれって、集団として僕は違うと思うし、同じように違うと思う人たちが一箇所に集まれば、それこそが真に幸せな集団だと思います、スイスとは違う、僕らは死に方なんて考えない。自分が生きている間に支え合って、自殺だって防いで、争いだって止めます」
「があっ……! ああ……お前がなんで、体育教師にしかなれなかったのか……わかった……!」
「がっかりだな、わかってくれると思ったのに」
重柄の顔からは笑顔がすっかり消えていた。
だぼっとした袖口から、にゅるり、緑がかったものが這い出してくる。
なんだか俺を拘束しているものとは質が違ってみえる。
ところどころ薄くて鈍くて、鋭い。
にゅるにゅるしてて、浅い事言うけど、剣っぽい。
「先生に言わせれば、”安っぽい口説き文句”なんでしょうけど、賛同者も沢山いるんですよ」
俺は、ぎりぎりブラックアウトするかしないかくらいに圧迫された、乱れた生活習慣で弱った血管と、こっちが本当の目的であろう、背中にぶちぶち食い込んでくる、木のごく自然な突起から送られる鋭い痛みの中にアタリメ様のえげつないサディズムを感じ取りつつ、どうにか奥の方へと目をやると、ぞろり、ぞろりと、白い衣をまとった人々が、同じような色の触腕をずるずる生やしてこちらへと歩いてきていた。
だぼっとした、白い衣の男女。
俺の心臓は、急にさあっと冷たくなった。
死んだからじゃない。
その中に、知っている顔が三つある。
ぱっつんの、目つきのきつい女の子。
存在ごとつまらないメガネ。
彼女いそうな奴。
——こいつは。
重柄は。
「今の子って、賢いですよね」
その一言だ。
俺はその一言で、冷えた心臓をニトロで一気に爆発させて、触腕の締め付けをその血液の濁流でのみ込んで、頭に血を一気に巡らせて、自分の頭をぶっ飛ばすくらいに叫んだ。
「てめえ、生徒使って何やってんだ!」
びりつく空気。つんざく風。
しゃり、と、血の滲んだ背中のほうから、金色の閃光が二本、線を作るように奔った。
きん、と、俺様は刀を鞘に収めた。
ぼとり。
その後、どさり。
「先生!」
後から、五織がすがりつくように走り寄る。
なあ……お前、情けねえ。なんだって、そうなっちまったんだよ?
織無もでしょ、と頭の中。
「ああッ! いッ……たい! もう! 絶対、血が出てる! ああもう、お前ら最高! 後追うなって言ったのにい、こいつう! このこのう!」
オカマみたいになった意気地なしの先公と触腕が一緒になってびちびちと跳ねている。哀れだ。
そして俺様の前に立つこいつらも等しく、な。
「やあ、不見神織無ちゃん」
銀髪の男が俺様の名を呼ぶ。よく調べたな。いや、あのババアに吹き込まれたか。
「そいつは俺様の名じゃねえが、てめえに言えるほど安い言葉でもねえ。が、気づくべきだった」
「全くもってその通りだ。バカにイライラさせられるのはわかるよ。だけどバカの安い挑発に。本当に十四のガキなんだな、君」
「訂正はもう一つあるぜ、俺様は男だ」
「ああ、そういうの。この子も何だっけ、オタクっぽいのに影響されてそう言ってたけど、最近は自分からおなごだって言えるようになったんだ」
ゲス野郎はそのまま、後ろの黒髪の女に歩み寄る。
「さあ、君は?」
「……女……」
ゲス野郎が女の髪を掴んで土の上に叩きつけると、女は面白いように膝を曲げて地面を転がる。
その後、男は女の腹ににぶい蹴りを入れて、汚い物でも扱うかのように、足首のスナップを聞かせて半回転させた。
「”おなご”だよ。教えたはずだけど。脆さ、弱さは、ひとに非ずだろ」
冷たい声色に、くぐもったうめき声。
ババアが最後列でくすりと笑う。
女は何も言わず、ただ手を引かれて立ち上がる。
俺様は先公と五織を自らの特性の対象から外し、ゲス野郎を通り過ぎて、ババアに気を向ける。
不幸の特性はババアの”喰ってきた”もののせいで、奴に対してだけ、ごくスローに進んでいる。
他は順調に死に向かっているが、あの力のしつこさときたら、吸っても吸っても。
未来を喰う怪物のエネルギー。
俺様の中にも果てしなく、虫酸が走っているぜ。
いったい殺すのに何千年かかるんだか。
「手はず通りにやればいいんだよ。あれが不見神と、国語の、わかるよね」
来いよ。
と、心の中で思った通りに、ド素人どもがびちびちと腕を鳴らして走り寄ってくる。
俺様は手を添えもせず、刀を——
「織無! それはダメだって! アスペ社会のモンペの子供ってのはマジなんだ!」
いや……足を引っ張られていた。
何やってんだ? 殺すぞ、クソメガネ。
反応が一瞬遅れ、刃を走らせるよりも先に、触腕どもが二人に到達するのを確信した俺様はいったん退き、クソメガネと五織を掴んで横に跳んだ。
どす、どす、と鳴った後、木がめきめきと音をたてて倒れる。
「本気の警告だ。次、邪魔したら殺す」
胸ぐらを掴んで脅し、手を離す。
重い荷物を不必要に何度も上げ下げさせられれば、苛立つのが当たり前だろ。
織無、と頭の中で何度も。
ああ、うざってえ。
数はゲスを含めて五体と、大物が一匹。
匹よりひでえ数え方を知りてえな。一阿婆擦れ、二阿婆擦れとかどうだよ。
「わあああああっ!」
さっきのも二体の連携攻撃だった。
余りの二体がカスの絶叫とともに、揃って襲いかかってくる。
波状攻撃をやりてえのか?
狙いは徹底して俺様以外。小賢しいぜ。
誰に吹き込まれたんだかな、なあクソババア。
これで俺様を無力化できるって?
頼まれたくれぇで、この俺様が、ずうっと先公と、五織を庇うって?
考えが甘ぇんだよ。
「三織!」
響く返事を確かに聞いて、瞬時に体内へと戻る。
瞬間、突風が先公の後ろから吹きすさび、舞った土埃はそれぞれ一直線の気流に乗ってカスどもの顔面へと向かう。
三織と五織をオートで守る幸運のエネルギーだ。
ぎゃっ、と、蹴られた犬みてえな悲鳴をあげて、後ろにのけぞる二体。
俺様は攻撃が止むとすぐさま先公の隣、五織の器に顕現して、メガネがかち割れるくらい見下して睨みつけた。
さっきまで俺様だった三織が後ろに跳んで、先公の隣に戻る。
「次に何か口を開いたら殺すぞ、先公!」
“外に出ている間は福を吸い上げ、中に入っている間は福をまく”特性。
三織と五織がこの場にいれば、こういう使い方もできるって事だ。
我ながら無敵の力だぜ。
後はこいつを逃がし……
「ああ、その……」
おい、本気かよこいつ? 耳か? 頭か? 殺していいんだな?
「で、できれば、あのダメな大人の能力も解いてくれな……」
「ああ!?」
「できれば! できればでいいから!」
手加減できる相手じゃねえのを手加減して、一分一秒でも惜しいってのに。
なのに、こいつ、底なしか。欲しがりメガネ野郎が。
「三秒だ。なぜ俺様に特性を使わせない」
「切り抜けるいい考えがある俺をあの階段のほうに転げ落ちないように投げて!」
「うるせえ、早口メガネ!」
ぎゃあい、と、カスどもより全然情けない声をあげてぶん投げられ、三織がそれを追う。
受け身は超人級、かなり見事だが、あいつ、キモすぎてヤバいぞ。まだぞっとしている。
「織無! 三織! ああ……三織? 石段は狭い一本道なんだ! イカ腕もそんなに多くは入れない! 織無がそれまで腕を防いでいてくれれば広い場所に出られる! 織無はそれをなんとかして、どうにかなんとかとにかく足止めして、絶対俺を追わせないでくれ! あと殺すな!」
リーダーなのか、てめえが。
正気じゃねえ。すげえ勝手に、無茶な話を進めていやがる。
「行け!」
俺様は納得いかないながらも、敵陣の中心へと、だん、と、たった一足で踏み込む。
奴らが無事に下へ向かって段差を踏んだのを感じながら。
まあ、って事は、奴らが石段を下り切るまでは、俺様は弁慶係って事か。
縛りプレイの上から、縛りプレイの嵐を受けつつな。
上等だ。
こんな連中にゃ幸も不幸も勿体ねぇと思ってたトコだ。
「ひっ!」
突然の接近に対し反射的に行われただけの雑な攻撃が二発、同時に来る。
感じている時間がまるで違うな。
避けるまでもなく、刀すら抜く必要もなく、ぶんと袖を流して敵の懐へと滑り込み、腕を極めて触手の剣を引っ掛け、カルトな衣装の帯を切ってやり、ずるりと奪う。
ぴったり背中合わせになり、盗った帯をしならせ背中から首周りに回りこませ、歯でその端を短くキャッチして強く食いしばると、敵の首を支点に一本背負いの要領で喉仏を気道にねじ込んでやりながら縦にぐるりとぶん投げれば、もう半回転を余った力に強いられて仰向けに背中を打ってげえげえ悶え苦しむ男の出来上がりだ。
俺様は刀を構えるため、踏み込む勢いのまま転がるみぞおちを踏み抜いて、ゲロが口から噴き出すより早く、二体目の脇腹めがけて鞘を斜め横から叩き込み、当然、木が折れるほどにぶっ飛ばす。
足元にゲロのしぶきが飛ぶ頃には即座に体重をカスの腹から移動し、ざざんと枯れ葉の絨毯を波立たせて廻り、刀を懐の深いところに戻す。
その途中、あ、と鳴いたさっきの女に紳士的な足払いを入れてもやった。
こいつは俺様の足払いよりも、さっきのDVのほうが効いてんだろうが。
案の定、女は尻もちをついて、それ以上動かなかった。
葉は地に落ちる。
呆れ返るヒマもねえほどに大した事がねえ。まずはカスを壊滅させる事にするぜ。
残るは二体と一匹だ。それも、そのうち一体の顔も知らねえ奴は逃げる準備を始めてる。
「ひどい有様だな、とても見ていられませんよ」
一面、うめき声まみれ。
ゲス野郎は逃げ出す一人の男を止めなかった。
その隣に同じく、全く動かず、表情も変えない女が立っている。
「誰も死んでいないわ。小童、まるで英雄ね。貧乏神はもう引退したの?」
ちりん、と鈴を鳴らして、ババアが嫌味っぽく言う。
「臨時休業中だ。だが、どっかの誰かさんと比べりゃ、俺様はまだ潔いぜ」
「あら、変わらないほうがいいものだってあるのよ」
「てめえの時計は止まってるからな。虚しいババアだ」
ババアの雰囲気がわずかに変わって、隣の男を見て、言う。
「何か考えがあるみたい。”蓄え”の場所が近いわ。知木先生のところへは、あなたが向かって」
「はい」
ああ、生きて帰そうもんなら聖地が明るみに出ちゃうわ、ってか。
ゲス野郎がざっざっと一定のペースを刻んで、こっちへ歩み寄ってくる。
「てめえは多少自信があるってワケかよ?」
「いやいや、いち体育教師だよ。君みたいな動きはとてもとても」
手をひらひら、歩みは止めずだ。
正直じゃねえか。なら、一秒もかからねえ。
「僕はただ、他よりも信心深いだけだ」
生ぬるい、甘ったるい匂いがゲスの背後からどっと噴き出す。
即座に一歩横に跳んで目視すると、さっき先公を助けるためにぶった斬ってやったのがもう再生して、触腕はしっかり二本、その他の足……だかなんだか知らねえが触手が八本、ずるずるとババアのいた位置から大樹が育つように伸びて、うごめいていた。
「さ、足々女様の加護の一つを見せてあげよう」
その途端、どう、と、全ての触手が切り裂いた空気をその粘り気に巻き込みながら、ゲス野郎をどういうわけか通り抜けて、俺様の目の前でぶわっと広がり、得意げに取り囲んで、包み込みたいとでも言いたげな扇の形となって、全く間をおかず四方八方から滝のような勢いで押し寄せてきた。
「ちっ……!」
俺様は十本の触手を全て叩き斬るつもりで刀を振ったが、あまりの”ぬめり”と数と勢いに、三本ほど叩き落とし損ね、小汚くちぎれた触手を後ろへと逸らしてしまう。
石段を転がり落ちそうな触手はびたびたという動きをぴたりと止め、ぼこぼこと沸騰して、一つの形を成していく。
俺様の視界からゲス野郎はすっかり消えて、クソババアだけが立っている。
ただし、ババアは触手まみれで、化け物くさくなって。
「頑張ってね」
俺様の背後へ向けてにこり。
ああ、嫌でも何が起こったか理解したぜ。
「はい。お任せを」
石段の前に落ちていた、さっきまで斬られた触手だったはずのゲス野郎は形成が終わるやいなや、わざわざ一礼してから俺様にあっさり背中を向けて、緑銀の汁をしたたり落としたままで段差を跳び、そして自らの触腕に一体化するように両足をずぷりと乗せて、その粘り気を石から石へ、高い方から低い方へと次々まとわせて、先公と三織が行った方向へと器用に重心のコントロールをしながら素早く滑っていった。
「行かせるかよ、ボケが!」
「賢いから行かせるんでしょう、お馬鹿さん」
再生しっ放しの触手が怒涛の勢いで襲いかかってくる。
くそったれ。
若作りしやがって、さっきまでのカスの比じゃねえ。
認めたくねえが今は避けて斬るのが精一杯だ。
俺様の刀は”俺様そのもの”だから、人間の扱うそれよりも自由がきくし、俺様自身の身体能力も同族において最強だ。いいか、特性があればもっとだ。殺すことにかけては俺様はズバ抜けてんだよ。
そこを、あのババアは”可能性”なんて不確かな、無限にも近しいものを馬鹿みてえにあんあん腰を振っていくつも喰っていやがるから、再生能力が底なしで、俺様に勝つ事こそできやしないが、負けないだけのエネルギーを常に全身に蓄えている。
因縁も因縁。
これは昔から何度もあった、平凡ないたちごっこだ。
……もちろん、あの時も、あの時も、あんな足手まといはいなかったがな!
「おらあ!」
「まあ、元気ねえ」
ぼと、ぼとぼと、ぼと、ぼとん。びちびちと跳ねて、消えて、生える。
刺し身をいくつ造ってやっても、変わらねえ調子でいるのがたまんねえな。悪い意味で。
疲れもしねえから、何万年これを続けても構いやしねえが、それだと俺様の負けだ。
実際は三十三年のうちの十九年しか存在がもたねえからだ。
まあいい、強い力にはデメリットがあって然るべきだぜ。
余裕と言えば余裕だが、どうしても気になる事を言えってんなら、この場から動けねえって事がちょっとだけマズい。
移動トリックを使えば先公を助けには行ける。
俺様が中に入ったまま、三織の幸運でゲスを倒すのが最善だろうが、いくら幸運でも、この場に取り残された五織が百万回この宇宙怪獣クソババアに殺される危険を避けきれるとは考えられねえ。
だからって、スピード優先で顕現して、どれだけ早くゲスを叩き斬ってやったところで、俺様が出ている間は”不運の時間”だ。五織に幸運が訪れる事はなくて、やっぱり死ぬ。
見えない人質ってやつか、うまいこと考えやがる。褒めてやるぜ。
なあ、五織。
ドン詰まりだよな。バカメガネとお前らのせいで。
「神さま、こんな何でもない日にけりをつけられるなんて、思いもしなかったわ」
「同感だぜ!」
勝ち筋がねえわけじゃねえ。
土から土へ、木から木へ。
駆ける俺様を追って編まれた触手。
ここだ。
自在な刀を文字通りに伸ばし、力の限りの最高速で体をひねり、両腕をブン回して、八本、一気にばつりと切り落として、そのまま木を蹴って本体との距離を一気に詰める。
「あら」
よう。
スミ、ぶっかけられに来てやったぜ。
ババアは残った二本の長い腕を温存していたから、すぐに自分の体を包んで防御姿勢に入った。
思い通りの行動だ。
見くびりすぎなんだよ。
詰んだのはてめえだ。
俺様は刀を伸ばせるだけ伸ばして、地面ごと斬ってやるつもりで中心めがけ縦に振りかぶり——
「『ダブル・ダウン』って、共倒れって意味かしら」
そんな侮蔑の余韻が残るほど深く長くめり込んで、自分の中の何かがばきばき言う音をしばらく感じた後、体が波打ちながらひしゃげて、景色は斜めになって、そして急速にスライドしていった。
背後にババアがいる。
さっきカスどもの一体にかましたように脇腹を、ただし刀じゃなく奴自身の、赤い袴の豚の足でブチ蹴られて、俺様は坂道を転がり落ちていた。
体を包んだのは防御じゃなく、姿を隠すためか。そして斬られた触手の中から、さっきのゲスと同じように。
やるじゃねえか。
がぜん、やる気になってきたぜ。
遠くで何か自分にとって都合のよくないものがぶっ飛んだ気がしながら、そして、ぶっ飛び方が羨ましい変態も中にはいるんだろうと思いながら、三織、どっちだっけ!? まあ、どっちも三織で問題ないんだろうけど、その子と一緒に俺は石段をなんとか下りきって、あの怪しい石造りの建物へと向かっていた。
追われるなら、サキュバスか、エロい八尺様って決めてたのに。
残念ながら俺に差し向けられた追っ手はゲーム内で一番シコれるモブっぽい雑魚サキュバスではなくて、性差別主義者の爽やかイケメンだった。死ねよ。
「知木先生、痛くしませんから」
はっきりとした発声。
物騒な腕を振り、笑顔で、綺麗なフォームで追ってきている。
なあ、俺が言うのもなんだけど、気持ち悪いんだよ!
運動しとくんだった。いや絶対しない。だけどこのペースじゃ追いつかれるのは明白だ。
「よくそんなベタな台詞っ! 吐けるな!」
「変わったこと言おうと一生懸命になってるほうがイタいんじゃないですかあ」
「お前、なんで高校時代の俺の事知ってんだ!」
ヤバい。マジでヤバい。
目的地は近いし、開けた場所にとは言ったが、失敗かもしれない。開けすぎだ。
ここ草原エリア、ゼルダみたいな、には物が何もない。
一発逆転のロマンがない。
アイデアもクソもない。
風が吹くばかりで、工夫の余地がまったくないんだ!
「先生っ」
さっきまで一生懸命走っていた三織が、救いの手を差し伸べるかのように俺に声をかけた。
上下する胸元に、ちらり、何か棒状の黒いものが光っている。
いや、だから下ネタじゃないんだって! 文脈読めよ!
「いつも、あんまり使わない、三織の基準は織無だから」
小太刀をバトンのように懸命に振りながら、また電波っぽい事を言う。
俺がそれを武器と認識して、三織が言い終わるのとほぼ同時。
重柄はたぶん、あと何歩助走をつけるかまでしっかり計算して、たん、たん、とステップを変えて、腕をぐん、と振りかぶった。
嫌な予感がよぎる。
なあ、もしかして、追いつく必要もないんじゃないか?
俺は仮定を確信へと高速シフトチェンジして、小太刀の鞘だけを引っこ抜いて手に持ち、背中はすでにズタボロなのに手が斬れていないか心配しながら、さっきのニトロはどこへやら、いや、マジで打つ手がなくて、最低最悪の一言をやむなく言ってしまった。
「じゃあ、今使ってえ!」
風を切り裂き、とんでもないスピードで鋭くまっすぐ伸びてきた重柄の触腕に三織は反応して、くるんと俺の背後に回り込んで、バックハンドで弾き返そうとした。
だけど完全に力負けしてしまったおじゃる丸は、そのまま痛い痛い俺の背中をクッションにして、二人して石造りの壁まで吹き飛ばされて激突する。なんてこった、電ボはもう助からない。
「ああ、俺生きてる!? 死にたくないんだ! 大丈夫か三織!?」
「うん」
「感謝するよ、マジで死ぬときには会いに来て、たとえここが崩れても一緒にいて!」
「うん」
そんなとこまで古い表現なのか、頭の上に星がぴよぴよしている不見神三織という守るべき生徒の前で、俺はといえば申し訳のなさをごまかすように、片目でばっちばちウインクを決めている。
「いやいや、すごい人だなあ、いろんな意味で」
ざかざか余裕の足音をたて、伸び切った触腕も爽やかな腕にどりゅんと戻っていく。
ものすごくいい風が吹き抜けているのに、これはあいつにとっての追い風で、俺にとっては、勿論。
「じゃあ、次行きますよお」
すぐに、また振りかぶる。もう、なんかあいつ、ジーク・イェーガーみたいだよね。
つまり今、状況的には奇行種に囲まれてるんだ。リヴァイでもないし、俺は奇行種に似てる。
さっきの三織の真似をして腕の前に鞘を持ってはきたものの、いや鞘だし、ここからスーパーパワーの覚醒とか、そんなのがよりにもよって俺から飛び出すワケもない。
ほら、まだ若干ピヨり中の隣の女の子のほうがサマになってる。そして死はすぐそこだ。
「待て!」
言ったのはスパイダーマンじゃなくて俺だ。
いや、待てじゃねえよって君たち思ってると俺も思うんだけど、一応、粘れるだけ粘ってみさせて。
「そうですよ、知木先生。別に死ぬ必要なんてないんですから」
重柄は意外にも、すっと手を止めてくれる。
ほら! チャレンジ精神の勝利だ! それとも君たち、俺が死ぬとこ見たかった?
相当数いそうだ。アンケートは取らないで。
「ああ、まだ、痛くて決心がつかない、わからない事がわかれば、あるいは」
俺はとにかく、織無と合流するまでこの辺りで時間を潰さなくちゃいけなかった。
なるべく違和感のないように、すっと立ち上がる。
「僕に答えられることは限られていますけど、大丈夫そうですか?」
ダメならどうするんだ、バカ野郎。
「ああ、いい、それでいいよ」
「で、どういう疑問を?」
俺は三織に”待て”のジェスチャーをする。
「ああ、アタリメ様と交わって? 男の子供? ……を失う? なら、女はいらないはず」
「そうですね、過去には受け入れていなかったそうです。それ、僕のアイデアなんですよ。好みは人それぞれという事で、窓口は広いほうがいい」
「魅力的な萌えキャラを揃えて信仰しよう! って事?」
「萌えですか。まあ、そういうことですかね、ゆくゆくは」
なんだよ。いい例えだろうが。ワードセンスが古いってのか。
「待てよ、アタリメ様以外もヤバいの? 例えば、あの地味な子とヤると俺はどうなる?」
例えだから! 先生はエロく誘われたって断ろう! ダメ、ゼッタイ!
「ああ、それがNGの質問ですね、すみません」
すみませんじゃなくて、もう、マニュアル俺に作らせてくれないかなあ。
自分で答え言ってるの、わかってないのか。
ちなみに今、三織から離れ、さりげな~く入口へと向かっているところね。
「そこ、今は入らないでください」
ぴしゃりとした明確な警告。
違和感、見つけたりだ。
ぶつけるべき疑問がぽこり、生まれた。
「なんで? さっきは入らせてくれたのに、なんで今はダメなの?」
鼻の先を何かがかすめたと思ったら、視界のほとんどを鈍い緑が占めていた。
ぼろ、と石壁の欠片がこぼれる。
「何でもいいじゃないですか、質問はもういいんですか?」
「なあ、お前さ、もしかして最初に出会ってからずっと、けっこう俺にキレてた?」
——ぶちん。
重柄の頭の血管だったらたいそう面白かったんだろうけど、触腕の音だ。
不思議な弾力に横の衝撃が加わって、たぶん力学的にちぎれた。たぶん力学的にね。
俺の専門、国語だから。
「あれっ?」
俺への脅しに使っていた触腕がちぎれ落ちて跳ねている。
やったのはもちろん俺でも、三織でもない。
綺麗な草原が土ごとめくれ上がって、その終点に織無がいる。
お前、今、めちゃくちゃヤムチャじゃん!
「織無!」
「織無!」
驚きと、偶然のハーモニー。姉妹の合唱に男声パートが増えたみたいだ。俺の声と三織の声の相性って、まあ、悪い気がするね。
まだ触腕が跳ねているうち、二人揃ってすかさず駆け寄って、スマホを出してスワイプする。
「きゅ、救急車呼ぶから!」
「ああ、圏外なんですよ。だから僕、あそこにいたんです」
なるほど。納得。
織無は意識はあって、強がりだけで立ち上がってるけど、俺なら死んでるくらいにボロボロの状態だ。
そもそも、どこから飛ばされたんだ、こんな勢いで。
ちょうどその視線の先、重柄の隣に、もんむす寄りのアタリメ様がいた。
「げえっ!」
俺は驚きのあまり、間抜けにもスマホを開いたままだ。
「知木先生、今どきそんな驚き方、げえって」
「彼はどう?」
「ご覧の通りです」
「まあ、そうなの、残念だわ」
この淡々としたやり取りが、どうにも我慢ならない。
俺の知ってるカップルって、もっとアツアツで、ぶっ殺したくなる。
そうであるべき、浮かれているべき、酔いしれているべきなんだ。
「……よう、先公」
ぎろり。すぐ横の殺気。
ああ、万全のお前なら大丈夫だった。勝ってたよ。
「開けた場所とやらはここかよ。来てやったぜ」
俺はもうどっちにしろダメそうかなあ。
こんな、誰も彼もすっげえキレてるんじゃさ。
あまりに頼りない、人類のスーパーツール、スマホ。
もう、織無の草履のあたりにずっと置きっぱなしになって、真っ暗な画面で虚しく落ち込んでいる。
甘い香りがしん、と辺りを包みこんで、おぞましい何かが満ちていく。
だんだん、現実が、暗いスマホの画面に寄っていく。
真っ昼間なのに、ここは夜みたいだ。
重柄の腕がずるんと再生する。
「それじゃあ、お互いに決着といきましょうか」
「ええ、お別れね、小童」
いよいよ……ええと、何本だ? だからほら俺、国語の教師だから。
とにかく普通より多い何本かの別々の腕が全部、天へとかざされた。
織無は上等だぜと刀を構えるが、明らかにキツそうだ。
次に一発喰らったら死ぬ。いや、適当だ。もうちょい大丈夫かも、とにかくごめん。
俺は何の意味もなく叫ぶ。
「織無!」
まあ何の意味もないんだけど。
ああ、やっと全部終わった。
「次に口を開いたら殺す!」
そう、全部終わった。
「違う! 俺もいい加減、覚悟を決めたんだよ!」
あとは俺という、しょうもないしょ~~もない葦を、ニトロに混ぜてぶちまけてやるだけだ。
「……先生?」
恐れにも似た三織の呟き。お前らのがよっぽど怖いよ。
「やってやるぞ! お前も、お前も、お前もだ!」
そしてジム・キャリーっぽい芝居をしつつ、俺は小太刀の鞘を握りしめてずんずん前へと踏み出し、アタリメ様へとそれを投げて、軽くあしらわれたのを確認して、くそっ、とか、まあ何でもいいんだけど、大きく言う。
「それ、何か仕掛けは?」
「小童の一部だけど、何もないみたい」
あーあ、隣にいる現代の韓流スターのせいで、今回の失敗の要因はジェネレーションギャップだけじゃないって事も筒抜けだね。
——さっきから何の話かって?
とぼけちゃって君たち、全部見ていたのに。
あいつら、自給自足のセックス信仰カップルだから知らないんだよ。
スマホのリマインダーは貧乏神の草履を揺らすための機能だって。
ああ、織無はよく耐えた。なるべく表情に出さない、男の子の鑑だ。
マジで今、貧乏神なんかじゃなくて、最高の守り神だよ。
「殺さないでくださあい!」
とどめに土下座までしてみせる。
あらあら~、だってさ。
その文化はマーケティングに使われちゃったから、もう隙間産業行き確定だよ。
爆弾のタイマーはすでに、カチカチと動き出していた。
爆弾っていうのは比喩ね。
「だけど——」
だけど、から始まる。
俺の導火線の着火点はここだ。
いーっつもこれでバカを見る。
バカみたいにビビった後、冷たくなった体の中で、オーバーヒートした脳が真っ白になる。
「俺、神さまって自分で言う人、ネットでしか見たことないわ」
ぴたり。
神経に障る、確かな手応えがあった。
「だってそうだろ? 重柄、お前はどう思う? なんで自称神って、揃って自分の事をアゲアゲのアゲにする事ばかり考えてると思う?」
「さあ、お金稼ぎのコツとかじゃないんですか」
「バツだ。答えは自信がないからだ」
重柄を指名してから、アタリメ様に向かって、指をささずにはっきり言った。
ひり、と、また感覚。
「織無、話してくれたよな。本当の名前はなんだっけ?」
「……俺様の名は『ダブル・ダウン』だ」
「それだ! スタンドみたいでいいね! さあ、あんたにもそういうイタい名前があるはずだ」
ジェスチャー混じりに動いて、斜め前方、あの石造りの中へと一瞬でも早く着くように位置取る。
空気は歩数に連動してずんずんと鈍くなる。
だから、俺はさらに罪を重ねていく。
「なんで? ないの? 神さまなのに?」
「ふふっ……神さまは神さまだも——
「ああ、そう。 別にいいよ、だって聞いただけだもん。俺、あんたの事、罵倒してないのに。ねえ、そんな顔しないで!」
明確に、見えない血管が動いた。
「知木先生、敬意を払うべきです」
面白い事言うね。韓流五流スター。
「敬意? 大嫌いだね、払うって書くから。敬意は縦社会専用の通貨。ショバ代。税金だ。立場を守るために払う、成功者様の正義の賄賂。お前はいい例だね。ちなみに今の小学生一年生の範囲だったんだ。でも難しかったみたいだから問題を変えよう。あの建物の中にあるのは何だったでしょうか? ヒントは儀式の何かだ。ところで、ちょうど推理小説みたいに全員集合してるとこ悪いんだけど、答えは暗殺一家の隠れ家と同じくらいしょうもないよ。腕を武器に変えた重柄が、獲物を自分の巣の中に入れたくなかった理由。一つしかないよね。自分の未来とかいうのがア・タ・リ・メかっこ仮のために保管されているから。瓶の表面についた白いノイズは水蒸気。呼吸してるからガラスはくもる。つまり正解は人間版バロットだ。ああ、バロットは死んでるか。まあ解答が遅れたから、これもバツね」
あんたにだよ。バツ! と今度は唇を弾けさせ、エロスキュラに強ぉく指をさしてやる。
「まだ問題としちゃ浅すぎるけど、そうだな、この二つの事柄から何がわかるでしょう?」
指をすっと、優等生の貧乏神へとスマートに移動させる。
出来杉君は少し間を置いて答えた。
「このババアは余裕ぶっちゃいるが側近のリスペクトはハリボテで、わかっているだけにどうにも自信がつかねえ。だから常に自分が神だと自分に言い聞かせてる。だから、そんなもんに騙されるどうしようもねえ連中だけがふるいにかけられ集まっていく」
「大正解だ、織無。”だから”マスターだな。でも解答上問題ない、三角つけられたら俺に言え」
「……まあ、当たり前の事を言っただけだぜ」
「それと、これはノートにとらなくてもいいんだけど、ほとんどの言葉の裏には隠された意味がある。この場合は”臆病者”だった。けど皆、臆病さが表を向けば慎重さや周到さだ。大事だよね。災害時の備えとか、避難訓練とか、そういうのはどうやら本当に大事みたいだから、神さまであってもね」
みきり。
空気がずたずたに裂けるこの雰囲気。
「じゃあ第三問だ、俺はこれからどうすると思う?」
カルト共の顔が、特に重柄の顔がざばりと洗い流したように無表情に変わって、静止する。
「死ぬ前にヤケを起こすんだよ! お前らみんな死ね!」
いいぞ、スターターピストルが鳴った!
俺は聞いたぞ! 今日一番の全力疾走だ!
重柄は当然、石造りを誰より庇いたがるアタリメ様の奥にいる。
お前との距離はたっぷりとある。この追いかけっこは勝ち確だ。
「馬鹿ね、行かせるわけがないじゃない」
無謀だよ、アタリメ様。
俺には死にかけの大剣豪がいる。
「行かせんだよ、ボケ老人!」
べべん。
「織無ぃ! その刀すごいな! 鬼滅の刃みたい! 見ててくれ煉獄さん、俺の集中呼吸走り! 波紋のビート!」
太さを増して、わさりと伸びた触手は織無の刀に阻まれて届かない。
だからといって、こいつは織無を犠牲にする作戦じゃない。
それはすでに伝えてあるし、伝わっているはずだ。
いや、どうだろう、ちょっと、伝え方をひねりすぎたかもしれないけど。
あと、その、織無のド根性がどれほどのものかわからないから、運の要素もある。
遠くでびたびたと鳴って、ぶん、と振りかぶる音がひとつ、際立って近くから。
「重柄ぁ! ミギーを伸ばすのか!? “ゴムゴムの”~~~ォ……」
振りかぶった重柄が眉間をぴくっとさせて、やはり、そのまま腕を振り下ろす。
俺はさっきと全く同じタイミングで放たれた触腕のゲイ・ボルグを、あらかじめ両手を上にあげて、まだよちよち歩きの子供みたいな見事なでんぐり返しでかわす。
「ほぉら”銃”だ! 最終決戦の決め技は絶対ピストルだって思わない!?」
触腕が戻る前に石造りの中に侵入した俺は、入口付近を始点に伸びていた細長い縄を選んで掴んだ。
そして奥へ向かってずらりと並んだ長い棚の隙間、つまり、入口に近い瓶と棚の木枠の間に縄をひょいとくぐらせて、それを握ったまま、わざとあいつに見えるようにして、棚の背中側をぐるりと周るように遠回りして、奥へ奥へと走って、ついに目標のポイントに到着する。
さてさてと言わんばかりに、ふたたび最奥の木枠にくぐらせて、ピューピュー口笛混じりにひと仕事始めようとする漁師のごとく縄の長さを調整している俺がふと顔を上げると、ちょうど直線上、入口に立っている重柄に、すっかり後光がさしていた。
仏のごとく笑っているけど、ぜって~~ウソだね。
「僕が攻撃できないと思ったら大間違いですよ。それらはもう済んだ事だ。足々女様からの許可も、最悪の場合を想定してとっくに得ている」
「そう? じゃ俺がする」
俺はニヒリストの前でとびきりニヒルに笑って、一切の躊躇なく、ぐっと縄を掴んだ腕を引く。
びん、とまっすぐになる絞首台。引っ張られて押し出された瓶はまとめて一列分、グリッサンドのけたたましい音をたてて割れていく。
動く陶器の口元。
「わからないな。どうしてそんな事するんですか?」
「どうしてだろうね? 考えてみよう! まあでも、こっち側はハズレか、残念だね」
俺は余裕綽々だった。逆に。君たちにもこういう経験あるよね。漏らした時とか。
重柄の振りかぶる速度も、今みたいに走り寄ってくる速度も、俺のもう片方の腕を引くだけの動きには敵わないとわかっていた。
ぐわん、と、さも意味ありげに引いてやる。
「よせ!」
重柄は俺に到達するまでに、はっと足を止めて、靴を滑らせながら引き返し、片膝を折って一つの瓶が落ちてくる場所に両手をやった。
何も起きてない。お前もご存知の通り、もう片方の縄なんて俺は持ってないからさ。
必死だったにしてもアホすぎるから、アホって言ってやりたいけど、軽くひねっておこう。
「へえ、それがお前の子供。さすが大人気教師、そんな事まで教えてくれるとは、親切ぅ」
粒子のひとつひとつがどろどろした、初めて嗅ぐ匂いが割れた瓶から漂っている。
俺はそのクソったれの粒子までぷちぷち潰してやるつもりで、両手を床と平行に並べ、黒幕風の拍手をしてやる。
手拍子に合わせて、互いの感情が昂っていくのがわかる。
あれ? じゃあやっぱりこれ、ジョーカーじゃん。
ふうっ、と強く息を吐いて、触腕は短いまま、俺の方へと駆け寄ってくる。
俺は壁をつたって、瓶の並んだ棚を挟んで立った。
この瓶が俺の盾だ。いや、もうじきどうせ盾も必要なくなるんだけど、俺はなんだか、自分の限界のギリギリまで挑発してみたい気分になっていた。今まで色々はっきり言えなかったけど、こいつに素直に心を開いて、おちょくろうとすればするほど、かえって笑っていけるというか、脳細胞が活性化していく気がする。ううん、最後のは年寄り向けの宣伝文句みたいだからナシで。
ずばん、と、知ってる映像みたいに、俺の手前の瓶を避けて剣撃が来る。
棚が大きく傾いて、ほこりが立つ。瓶は割れたり割れなかったりだ。
「あ~あ! アタリメ神さまの大事な備蓄がぁ! 僕のせいでぇ!」
俺はホーム・アローンのマコーレー・カルキンの顔で、また残った棚を挟んで立つ。
彼ってキメるクスリの種類が変わる度に名前の数が増えるシステムになってるんだ。
今はたぶん、五マコーレー・七カルキンくらい。
「ふざけるなよ、知木等!」
初めて聞く声だった。
もはや完全に重柄じゃなくなった奴がヒステリックに俺を威嚇している。
ずばんと断たれ、ばりんと割れる。
身を隠すところはもうなくなった。
言うまでもなく俺は、痛みが遅れて来るほどのものすごい勢いで押され、腕に体を貫かれて、壁に叩きつけられる。
「僕をどうしたいんだ! お前はどうせ死ぬ!」
「それと、そんな俺より先に死んだのがお前の赤ちゃん。お前の剣で割れたんだ。想定してアタリメ様にあらかじめ許可をとってどけておくべきだったよ。ほら、トドメを刺してくれてありがとうって言ってくれてる。見えない? ありがとうパパ。ボク男の子? 女の子? グロい見た目してるけど」
多分、ものすごく痛くて血が出ているんだろうけど、そんな事は全然お構いなしだ。
心臓を貫かれていても、口がなくなっていても、脳みそにねじ込まれていても喋っていたと思う。
「僕は未来を捧げた! それは世界のためだ!」
「何? 僕の本当のママのおっぱいはフカフカで気持ちよかったって?」
「違う!」
ものすごく、わあ、これはもう多分とかじゃねえや。
剣が深々と入ってきてるし、すっげえ殴られて蹴られてる。
「お前はまるで無知だ! わかっちゃいない! 何も! 恵まれた環境で!」
「異様なコネ持ってる奴ほどカメラの前でメガホン持ってでかい声で苦労苦労努力努力アピールするの、な~んでだ? 答えは同族の群れと自己防衛とインナーチャイルド。イカれたお父さんお母さんからつけられたタバコの焼印が怖すぎて、いや、むしろ本当にお父さんお母さんがイカれてたのか? 疑わしいね。実は全て逆だった!ってのは三文小説の定番だよな。とにかくお前やお前らって、ブンブンブンブンいつもいつもビビった小さなミツバチみたいに集まってる。羽の揺れがお前らの声だよ。俺は人間の社会人で、それなりに苦労もあるけど黙々とやってるよ。黙って頑張る奴のほうが好きだし。人間はやかましい羽を持たないから、みんなそういう奴が好きなんだと思ってる。お前、親を嫌ってるけど、生まれついてのアホアホ障害はしょうがないとして、全部お前の言葉通りに受け取ったとしても、それでも見事に親に育てられた通りに育ったよね。今のポジションもそう。学校での立ち位置もそう。何か自分だけ特別な事してさ、いや、違う、それどころか、お前はしないんだった! 叱らない怒らない波風立てない、しないしないしない。見逃してくれる教師が今も昔も子供にとっちゃ良い教師だから、なるべく労せずしてバカな生徒のお神輿に担がれて、まあまあ上に立ってられる。それで何、行き着いたのが神の側近? ウケる、欲求不満なんじゃないの、結局神の下なんて。なあ一つくらい正直に言えよ、ここまで来てしてないわけないって! してるんだろ? 整形だよ!」
「この冒涜者め! いいかげんくたばって黙ったらどうなんだ!」
「イヤだね、人類みな平等。俺、言論の自由って言葉大嫌いだけど、今だけ大好き」
ボコられながら両手で作るハートのラブ&ピース。
剣の刺さったところからヒビが入っていく壁。
粉雪みたいに落ちる細かい石。
全然気づかないでやんの。
ほおら、お目覚めのミサイルだよ。
重柄が周りの違和感にびくっと体を反応させて、止まる。
だから俺は、小指があらぬ方向を向いている片方の手をそっと回して、どれくらいの力が残っているのかわからない腕をもう一本背中に回して、なるべくロマンチックに、頼れる人生の大先輩の体のほうへ、ふんわりと抱き寄せてやった。
ボーイズラブの出来上がりだ。ごめん女性諸君、俺の事殺していいからね。
ああ、スローモーなアタリメ様が感づいて、肉体的にはとっくに死んでそうな織無を大きく避けて、こっちに向けて化け物じみた速度で外周りに触手を伸ばしてる。
けど、変な表現だけど、いくら触手の足が早くたって、遅すぎた。
キレて触手をぶっとくしすぎた。いいや、どっちみち棚の空間は縫えなかったね。
あんたは冷静じゃなかった、それに最初の罠にも気づけなかったんだ。
——『どうにかなんとかとにかく足止めして、絶対俺を追わせないでくれ!』
誰も追うべきじゃなかった。
自分が織無を殺して、重柄は俺を殺す。
暗黙の役割分担。
黙りすぎの暗すぎだ。
うっかり、ひとり忘れてる。
あんたにぶっ壊されたスマホの中身、俺は知ってるよ。
——『俺の乗った飛行機は墜落する。なぜか?』
そう書いてあるんだ。
「先生」
床のほうから声がして、俺を殺そうとしていた奴らが両方、完ペキに察知する。
今度は外の全員から”しまった”って叫びのハーモニー。
ざまあみろ、確かに聞こえたよ。
日々のかくれんぼの賜物だ。
作戦の軸はアスペルガー症候群風味のおかっぱ頭との約束に限るね。
——『感謝するよ、マジで死ぬときには会いに来て、たとえここが崩れても一緒にいて!』
「先生。一緒にいる。来たよ」
いいや! 悪いけど俺はもう二度とゴメンだ。
さあ、重柄、しばらく織無の答えは聞けそうにないから、代わりにいいとこ見せてくれ。
「だってさ! お前が居眠りしてる間に織無に出した問題だ! そぉらどうした答えてみろ!」
「知木……カワラズ……!」
「ハズレ! 答えは割れたメガネ置いとけば誰が死んだかわかりやすいから!」
さあ、神どもなんてクソ喰らえ、ちょうど真ん中らへんの答えへと、喜んで落としブチ込んでやろう。
瓦礫の落下と完全に同時のタイミング。
俺のもとへ必死の触手が突っ込んできて、辺りが真っ暗になった。
ぼろのあばら家の中に、ふわりと風が入ってくる。
「めめの目の、名前、で、ございますか……?」
意味なしのりぼんとやらがぴらぴらと揺れる。
「そうじゃ。いい加減にせぬか。お主にしかわからぬ」
あ、それは、そのう……と、もじもじ。
こやつはこれを永遠にでも続ける特技を持っている。
その姿に妾の堪忍袋はいつも、すぐに限界を迎える。
「だから妾はいざという時に力が発揮できぬ!」
「あああ、めめはわかっておりまする、めめはわかっておりまするう」
頬を思い切りつねってやれば、涙が指の腹を濡らす。
こんなくだらぬやり取りを幾度繰り返した事か。
「何がわかる、わかるのなら、なぜ言わぬ」
「ですから、話した通りにございます」
その話を前に進めたいから聞いておるというに、と普段より強く詰めてやる。
「……そとのお国の言葉なのでございます」
「聞いた話じゃ。飯を炊いてほしくば、その話を一刻でも長く続けよ」
「ああ、申せませぬ! とてもとても、恥ずかしゅうございます!」
「ええい! もう! やかましい!」
ますます伸びる両頬。
ばちばちと鳴く火、震える、苛立つ声。
「はあ、はあ、言葉の意味はわかるのです、こ、言葉の意味は、わかるのです」
「それを、それを申せと言うに……」
「あのう」
また”もじもじ”をやる前に、手首をばしんとはたく。
あう、と情けない声。
「ですが、ですが、そのう」
無限にも思える“あのう”と”そのう”をしばらくやってから、観念したように、
「もし、もしも誰かに言う事があれば、素敵な言葉だと! めめはそう、思いまする……」
出されたのは、ひどく遠回しな言葉。
「ああっ、腹立たしい! もうよい! お主に嫁の貰い手などあるものか!」
「お許しをぉ!」
「たわけめ!」
妾は怒鳴って、台所に戻る。
取り出した大根を持って、そこで、自分こそ、まだ水を汲んでいない事に気づく。
まったく、と独り言を言って、戸を開ける。
夕日。
——ぱちり、ひとの目が開いた。
ごうんごうんと換気扇が回り続ける。
「……もう大丈夫ですよ、食事くらい作れる」
小洒落たマンションのなか、血のにじみ続ける包帯をまとって、一人のひとが言う。
いいのよ、とわたしは小さく返して、彼のコップに水を注ぐ。
わたしが負わせた負傷。
あの眼鏡のひとが招いた事態は、まったく制御のできないものだった。
コインの裏表を問われたとき、わたしには選択の余地がない。
あの小童は自由自在なのだろうけれど、わたしに動かせるのはこの腕だけ。
ただ早く届くよう、瓦礫からこの子を守ろうと放った腕は、この子を瓦礫と瓦礫の間に挟み潰して、だけど眼鏡の彼と小さなおなごだけをうまくすり抜けて、その弾力で守った。
小童はあの時、不幸にする力は使えても、幸運をもたらす力は使えなかったはず。
やった事はただ、眼鏡のひとの運気を、石造りの貯蔵庫を壊し、頭の上に瓦礫が落ちてくるほどに吸い尽くしただけだった。
あのひとはただ、自分ひとりの中にある運に見切りをつけたのだ。
そして小さなおなご、冷たいこのひとの中に、自分の幸運があると信じた。
自分がいなくなるという事は、小さなおなごにとっては、それはひどい不幸だろうと。
あるいは冷たいひとにとっての、歪んだ生きる希望になるであろうと。
おのれが生きる事こそ、周りの幸福であろうと。
お前たちにとっては、滅びこそが不自由であろうと。
ひとに突きつけられた。
そんな事が、どうして強く思えるのか、わからない。
小童はそれを隣で見ていて、本体のわたしを切り刻まず、一足飛びで瓦礫の山へと向かった。
わたしはただ、腕で自らの敵を庇ったまま、小童が瀕死の彼をついでに救うのを見ていただけ。
小童だって、なにか変わっていた。
以前までの織無であれば、わたしは今頃。
殺し合う神々に、たとえ一瞬でも手と手を取らせるなんて。
「足々女様、あの場所、本当に手放すおつもりですか」
「ええ、約束だもの」
「そうですか」
かちゃかちゃと食器の音、次に、言葉。
「拠点は拠点ですよ。足々女様のお力は、おなごを通す事で確かに強まった」
わたしが相槌をうつ前に彼は続ける。
「理屈だけで言えば、コロナよりずっと早く広がって、長い目で見れば、エイズよりずっと多くの人を殺すはずです。足々女様は僕にもっと早く会うべきでした。このレースには本来、あなたが負ける要素なんかまったく無いのに」
デジタル時計の点滅が、どうにも嫌い。
その言い回しも。
わたしの目的とする滅びは、そうだけど、そうじゃない。
ゆるやかな破滅と、おだやかな時間。
あの夢の中身がいつか変わると、ただ信じて、夢見るだけ。
「ところで、その約束って、僕を救うための約束ですか?」
「不幸に狙われたら守りきれないわ。あなたまで失うわけにいかないもの」
「そうですよね、遺産が入るのは僕ですから」
短い会話。
温かいものをのせただけの、冷たい食器。
「いくらでも温め直すから、言って頂戴ね」
「冷たいのが好きなんですよ。胃の中に入るんだから。食事なんてどうでもいい」
本来隠すべきであろう痛々しい片目を隠そうともせず、まだ残っている片腕さえ使わず、彼はわたしが作ったものをまったく噛まずに、触腕ですり潰してから飲み込んでいた。
——「だからつまり、臆病な自尊心っていうのが映像上のヒカキンで、尊大な羞恥心っていうのがリアルのヒカキンだ。李徴とヒカキンは似てるね」
あれから数ヶ月後、おしっこに血が混じる事がある俺は再び教鞭をとっている。
そう、授業をまた行っているんだ。
目の前には不気味なほど何も変わらない景色が広がっている。
キル・ビルの頃の栗山千明似の地味系、コンタクトでイメチェンした元メガネ、なにか周りに察してほしがっている彼女いそうな奴、聞いてるんだか聞いてないんだかの姉妹。
「明らかに李徴は中島敦の自己投影だよね。あらゆる作品において、才能はあるけれども孤独感を抱えていて、いらない主張してくるヤツが作者の投影先だと思っていい。ああ、君たちはこれを忘れてもいいよ。そうしないと、あらゆる作品がおっさんとおばさんのシャドーボクシングに見えてくる」
俺は冷え冷えの空気の中で、やっぱり混ぜなくていいギャグを混ぜている。
あれから俺は織無に担がれて、ひどい重症で病院に運ばれたんだけど、その後すぐに特別な治験の話が舞い込んできで、そのなんとか細胞は強烈な勢いで傷を治してくれた。
そして職員室の天井からは大富豪の埋蔵金が見つかって、その大富豪の名前がたまたま”知木”だったものだから、いや、埋蔵金はもらえなかったよ、欲しかったけど。それをすんなり学校に納めて、トドメにさっきの治験の関係者が詰め寄せてきて、偉大な被験者である俺はめでたく許されました、という流れだった。
言っておくけど、俺が小説家になろうに投稿していたのは、いわゆる”なろう系”じゃなかったからね。純文学だった。恋愛だ。伸びないよ、皆アホだから。皆! アホだから!
ばん、と送ってきた恥の多い生涯に耐えきれず黒板を叩いて、どよめきが起こる。
「頭、打ったから」
「打ったから、強く」
すっごい良い恋愛だったのに……。
まあ、意外なのは、あれから不見神の姉妹がクラスにちょっと馴染んでいる事だった。
ちょうどチャイムが鳴って、俺は奇行に対する弁明の機会を与えられないまま、生徒たちは散り散りになる。さあ、あとは怪我なんか一切考慮しない、容赦ない放課後を残すのみだ。
「また後でね、先生」
「先生、また後でね」
「はあい」
お母さんみたいなアフターの約束を姉妹としてから、ノートに取らなくてもいい事ばっかり話していたくせに、くたびれきった俺は教卓を後にして、デスクに戻ろうとする。
すると、
「先生、ちょっと……いいですか」
これまた意外だ。
姉妹が消えるタイミングを見計らったかのように、例の三人組に引き止められた。
そうそう、あの場にはもう一人いたのを覚えてる?
まあ、ちょっと後味悪くなるんだけど、最悪な事に、あいつの行方はわからない。
アタリメ様からどういう”加護”を受けているのか、そもそも誰なのかも知らないんだ。
俺は……ソフトな拷問受けてたから覚えてない事にしてるよ。
もっと言えば、あれから、この生き残った三人がどうしているのか、尋ねてもいなければ知らなかった。
俺が教師に復帰した後も、あの事について何も触れてこないままこいつらは授業受け続けてたし、ちょっと気まずかったのも確かだった。下ネタ言うには問題なかったけど。
だから、
「……職員室の特別な部屋って入った事ある? 椅子が置いてある部屋。いじめを隠蔽したい時とか、後でボコボコにされる子とする子に無理やり握手させて、やれるだけの事やりました感出したい時にそこを使うんだ」
俺は手招きをして連中を導いた。
おかしい、ちょっと気まずい沈黙だ。
ちなみに俺はあんな経験をしておきながら、全く強くならなかったよ。
本質のとこの学習能力が結局俺もアレなんだと思う。
マジで、なんで俺がお茶を差し出しているのかもわからない。殺されかけたのに。
だんだんイライラしてきた。
「どうするつもりだよ」
ちょっと冷たいニュアンスになってしまう。致し方なしだ。
「どうしたら……いいですか」
俺はとげとげしくない、素直な、返事としてはイマイチなその返事にびっくりしていた。
言ったのはコンタクトくんか。全然垢抜けてないね。
「まあ、童貞を捨てるのは学校内の相手に限るとは思うよ、おっぱいどうだった?」
俺はテーブルを挟んで、三人のちょうど前の席に座って、出涸らしみたいなフォローを入れた。
「ほら、いやあ、だけど俺だって、けっこう長い間童貞だったとも言えるし」
あやふやだけど、ベースは嘘だ。俺は童貞だった。
正直この大人しそうな元・メガネ仲間くんが小柄むっちりお姉さん邪神に軽くいじめられながら手慣れたリードを受けて脱童貞する瞬間は、俺が遠くから一ミリも関係のない所で観測していたならメチャクチャ興奮できるとは思うよ。童貞だから。
そんな事を考えていたら、ちょっとエロい気分になってきたので、悪い面にも目を向けていこう。
織無の言う通りなら、こいつらは自らの、あるいは、かりそめのパートナーの妊娠から出産を秒速で経験して、その未来の可能性をあっさり喰われたんだ。
重柄に、アタリメ様に、悪い大人に言いくるめられて、己のうちの一部を全て失った。
俺には想像もつかない何かと戦っているのを想像するのは簡単だった。
だけど俺に共感できるとも思えなかったし、勿論、していいとも思えなかった。
「けどまあ、よく帰ってきたよ、主に俺がね」
ちょっと間があって、彼女いそうな奴の乾いた笑い声。
あれ、その笑い方は彼女がいない奴しかやらないぞ。
……あ、そういう事ね? ざまあみろ。
腰振りの……いや、その思い出は思い出であるべきじゃないな。
地味系がこっちを睨んでいた。
「知木先生はホンット、最低の男ですね」
言い返すことはしなかった。何なら、てめえ、から始まる言葉でボロクソのボロクソに言い返したかったけど、紳士的な義務感に羽交い締めにされていたから。
「ほんとに」
続いて、声が震える。
なんだか見たことのある流れだった。
スカートをくしゃっと握りしめて、こちらに綺麗なつむじを向ける。
頭皮の脂へとつながる、つややかな渦潮。
「私、もう誰とも、何も、できないんですか」
ぼた、ぼた、ぼた。
重たい涙が雨みたいにこぼれ落ちていく。
つられて、横の二人も、目の奥の方から濁ったお湯が、ぶわっと。
「実感が、ないんです。何も感じなかった。すぐにあれが産まれた」
男は黙ったまんまだ。
ああ、いかにも下から上まで被害者の、女の子って感じの主張だ。
やっぱり、さっきのエロい気分になるくだりだけは取り下げるよ。
こいつら学生はどこにでも行けるし、何にだってなれる。
なれなくたって目指せる。誰にでも訪れる愚かな、最強の時期におかれた若者だ。
深夜にうろつける、下手くそなコピーバンドだって組める、金絡みのセックスだってやれる、酒だって飲めれば、ドラッグだってやれるし、人を殺すことだって余裕。
最高にバカな時期で、ほとんどの事を簡単にやり直せるから、簡単に踏み外してしまう。
もしも美女にファンタジーをそそのかされれば。
もしも信頼できる憧れの男に導かれれば。
いつだって、どこにだって。
口を開けて手招きしながら、こいつらバカに向けたクソのトラバサミは、たむろしている。
我慢ならない。
全ての大人や、人々が通ってきた道、歴史など、どうでもいい。
この俺だけに責任があるんだ。
「大人になると泣けなくなって、もっと大人になると泣きすぎるらしいよ」
極端な話だよね、と二度目の免職はごめんだから扉の前にパイプ椅子を置いて、三人が泣き止むまでそこに座っていた。
そして泣き止んだ時、でかい提案を持ちかけるとも決めていた。
最悪な気分で、外が快適な気温だと、気分の方は反比例してみるみる最悪になる。
晴れの日も雨の日も結局、地球さんがどれだけ頑張ってくれようが、若者の抑うつは無敵だ。
まだカラスも鳴かない時間帯。
俺は三人の生徒を引き連れて、インターホンの前に喧嘩を売りに来ていた。
「あら知木先生、クビが飛んだとばかり」
例の嫌味っぽい声。
「見ての通り繋がってます、あんたがぶった斬りたかった首はここね」
もう慣れたもので、喉をカメラに見せつけている。
三人はさっきの涙で水分も出てるし、不見神の家の圧で干からびて死にそうだ。
「何のご用で?」
「三つ子を出してくださる? 忘れ物したんですの」
「ああ、迎えの者をよこしますわ」
「それは必要ありませんわぁ、おチャンネル登録とおスパチャよろしく」
俺は背後からとりあえずの姉妹を取り出して、インターホンに向かって古いしぐさで”いーっ”とセットの白い歯をむき出しにさせて、俺というしっかり者は、その指をあらかじめ拭いてくれていた除菌シートくんを門前にポイ捨てしてから、頭を下げた。
「居残りで少し帰りが遅れます。しっかり送り届けます。けど、娘が帰ったか帰ってないかくらい把握しとけっての。あのさ、動物園の動物のなかには人間を鑑賞してると思ってる奴もいるかもね。内装はやっぱり八つ墓村みたいになってんの? 犬神家とごっちゃになるんだよ、いつも」
そう、威を借る狐を背にした虎には怖いものなしだ。
本だから許されるのだろうに、あのいかにもな伏線をばら撒いた説明くさいセリフ回しと探偵そっちのけで減っていく登場人物がこれだけ色んなもののルーツになるなんて、と言っている途中、またキレ気味のぶつんという音をばっちり聞いた。
まあ、許可はいただきだ。
後部座席に生徒をみちみちに詰め込んで、エンジンをぶんぶんふかそう。
茨城県民みたいに。
「で? 先公」
織無と初めて会った場所で、俺の顔はかわいそうになっていた。
なんでかって、さっきまで殴られっぱなしだったからだ。
これは血尿だけじゃない、血便も出るとみたね。
君たちは絶滅危惧種のスケバンにメガネ取れやと言われたら、素直にとらないで逃げるんだぞ。
「こいチュらは、おモえのこと、もうチってウ」
くちぱっちみたいな口になった俺が、織無の腕をぺちぺちしながら言う。
なんでそんなに暴力振るいたいの? マジで。
「織無、離してあげて」
三織か三織の鶴の一声でぱっと手を離されて、立派なおやじっちの出来上がり。
「俺様に気の毒だと思えってのか?」
「そうじゃない、あの事を話してやってほしいんだ、なあ、まだ俺の鼻まっすぐ?」
「ダメだ。こいつらは不見神とは何の関係もねえ」
「俺だって関係ないよ。こいつらは確かにエロに負けてカルト教団に入信した終わってるルカくんだけど、関わった以上、お前には説明の義務がある」
別にないって言えばいいのに、織無はチッと舌打ちをして、あの話を始めた。俺に聞かせた話だ。
『ダブル・ダウン』の辺りが、ようやくちょっと恥ずかしくなってきたようだった。「精神」が「成長」したんだな。
生徒は話を真剣に聞いていた。
ただ、織無の一区切りは以前より少し長かった。
「……あのクソババアも、昔はあんなんじゃなかった」
つい、そうなのか、と俺がしゃしゃり出てしまった。
一人のおかっぱを除き、何だこいつ、と言いたげな表情をしている。
「ああ、人間が関わる事はどうしても暴走する、それは当たり前だ。気に喰わねえ時は俺様と何度もぶつかったから、集落の賑わいにも浮き沈みはあった。だが、それは確かに集落と呼べるもんだったし、信じられねえだろうが連中からはどんな人間よりもまっすぐに慕われてた。俺様が不見神の忌々しい救いになったように、より多くの誰かの忌々しい救いになる存在だったんだ」
俺は辺りの空気がにぶくなるのと同時に、風にのって、あの甘い匂いを少しだけ感じた。
「悪ぃが物事の流れは違えど、俺様とババアは人間を喰って長生きしてる。だが俺様の知るババアはてめえから俗世に介入したりはしねえ。特に女を集落に入れて呪いをかけるなんて、絶対にな。ババアは変わった。先公、てめえ、心当たりがあるんじゃあねえのか」
地味系が下を向く。
ああ、真っ先に思い浮かんだのは、あの嫌味な爽やかさんだ。
あいつのデスクは、まだ残ってる。
俺は口を開いた。
「死のうとする前、本人にボロクソ伝えた事だけど、アスペを必死に、それこそ両親殺すほど否定するのは、やっぱりアスペだからだと思うんだよ」
「知木先生、メディア出んのは絶対やめたほうがいいわ……」
彼女いない奴がドン引きしている。任せろよ。議員まで行ける時代だ。
「で、もし、そのアスペに寄り添える良い教えなら、アスペは喜んで入ってくる。良い教えさんは嫌でも飯の種のアスペくんに寄り添うしかないから、アスペを介して、ちょっと質が変わった、”ちょっと良いアスペ寄りの教え”が伝わっていく」
俺はしきりに君たちのほうを見やりながら、両手でフランス製ろくろを回している。
「ちょっと良い教えが普通の教えに、普通の教えがちょっと悪い教えに、ゆっくりゆ~っくりどんどん繋がっていって、いずれ、ヤバい教えが生まれる。止められないんだ。あいつはアタリメ様の事を本当に尊敬してるんだと思うよ、アスペだから。だけど、やっぱりアスペはアスペだから、自分が教えをより良くしようと思えば思うほど、アタリメ様が本気で向き合って、アタリメ様が柔軟になればなるほど……」
「こじれていく」
ナイスフォローだ、垢抜け志願コンタクト。ちょっと垢抜けたかな。いや、勘違いだったわ。
「織無、三織、……ああ、三織、お前らの事もちょっと考えてたんだ」
「何だよ、気持ち悪ぃ」
俺はなるべく動物のウンコがついてなさそうな落ち葉を三枚手に取る。
「『ダブル・ダウン』って、ブラックジャックのルールなんだけどさ」
「ああ、不見神さんの……本当の名前でしたよね」
「俺様はてめえの友達じゃねえ、気安く呼ぶな」
そうだぞ、そんなだからコンタクト似合わないんだ。
落ち葉を二枚、風に飛ばされないように指と一緒に置く。
「まず最初に、こうやってカードが配られる。で、最初の数字が決まる」
「21に近いほどいい」
「そうだ、本当はすごい地味系ちゃん」
俺は余計な事を言ってしまった自分を都合よく隅へと追いやって、三枚目の葉っぱをすぐ隣に置く。
「で、二枚からあと一枚だけ。この最後の葉っぱを引いて、その合計で勝負に出る。これがダブル・ダウン。カードは三枚以上引けなくなるけど、賭け金を増やせるらしい」
「パチカスのくせに、”らしい”って」
「待てよ、お前が広めたのか?」
彼女いない奴に突っかかろうとするけど、織無にこれ以上ひどい事をされたくなかったから、大人しく死神のほうを向いて、先に話のケリをつける事にした。
「……わかんないか、織無?」
「何がだよ」
どうも本当にわからないようで、金色の瞳でじっと俺の顔を見つめている。
俺は葉っぱをまとめて、ばっと上に向け手放し、散らせ舞わせた。
葉っぱは飛んで、たぶん、たくさんの葉っぱの山札へと戻って、土へと還る。
「四枚は有り得ない」
織無は少し考えて、さっきの家の前での俺の態度と照らし合わせて、十数秒でようやく目の前の大悪党の企みに気付いたようだった。
「俺がその四枚目だ。ダブル・ダウンはとっくに破綻してる」
「てめえ、まさか——」
俺は三織、もしくは五織のすぐ後ろに立って、はい、見て、すしざんまい。
「こいつとそいつ、おかっぱ頭は出禁だ。俺が長生きさせる。不見神家の儀式を潰す。全社会人の名において、平等なルールのもとで戦ってもらう。織無、今度は三人目の人間としてしっかり産まれてみろよ。マジで死なせてくれって思うくらい不便だからな、お前なんかすぐ鬱病になって処方薬漬けだぞ」
さあっと風に運ばれた葉っぱが、町へ向かってころころ回りながら落ちていった。
「……面白ぇ。言っとくがよ、動機こそ違えど、その考えはお前が最初ってワケでもねえぜ」
織無は初めて、下瞼をくっと、食いしばった歯をにやりと動かした。
ああ、もうわかるよ。強がりだ。
「さあ、帰ろう。お前らがまだ頼もしい先生に憐れんでほしいのなら別だけど、残念ながら話の大筋に全然関わってこないような選択肢は俺の中にはないよ。ただ、やってほしい事なら聞いておく。モチベーションは大事だろ、今から名前が挙がる奴にはどうせまた会うんだろうし」
俺は織無が体の中に戻って、シン・ダブルおかっぱになったのを確認して、なるべく夕日に映えるように、背中の曲がった、しょぼくれた大人のシルエットが次元大介の後ろ姿に見えるように、車へと向かった。
そして鍵を開けて、かわいい生徒たちにふっと笑って振り向いたら、姉妹以外の誰もついて来てなかった。
クソどもめ。いいよいいよ、足で帰ればいい、若いんだから。早死にしろ。
帰り道にあるスーパーで、主にインスタント、それと、ちょっと気分が乗って、贅沢な買い物をした。
まあ、いっぱい肉喰うくらい、人喰うよりよっぽどいいよ。
いつも同じ所に通っているせいで定着してるんだかしてないんだかわからない、いつかのある日突然置かれたセルフレジを効率よく通して、自動ドアにだけ王様だから、メンチをきって奴隷労働をさせる。
バーコード読ませてる時から軽く、うわあ、とは思ってたけど、急に強くなった雨足が子供を叱るように俺の視界を打ちのめしていた。
普段から苦手なのに、雨の日の運転なんか、もっと。
あーあ。
午後六時半か。おっと、マウントを取らないで。今日は特別だから、特別早いんだ。
帰って面倒くさい事をして、寝付けないのに寝て、そして次の日の朝の事まで、その後もすべて今のうちに想像して憂鬱になるまでが俺のワンセットだから。
ああ、なんだ、それでも俺の負けか。どう? 気持ちいい?
ざあざあわめく雨の中を走って、すぐさま鍵をピっとやるべく、カバンを漁る。
手を握った形で取り出すと、おはじきがからから言って、二つ、腕時計にひっかかって、こぼれ落ちた。
「ああもう! おはじきって」
つい、声にも出てしまう。レトロ趣味も大概にしとけよ、というのは心の声だ。もはや、ややブーメランだからね。
それは一つはすぐ足元に、もう片方は綺麗に縦を向いて転がって、軒下を離れ、雨粒が一番集まっている気がする所まで転がっていく。
まあ、俺は大人だし、こんな事ではムキにはならない。ビー玉でなくてよかったとまで思う。本当だ。
はじく為のものだろうに、わざわざおはじきを拾いに行くのも癪だが、姉妹は未だにアレがアレだから、勝手になくすのは多分タブーだろうと考えた俺は、律儀にもおはじきを拾いに行く事にした。
いやに濡れる体。
なんか、おかしい。
おはじきの行き着く先にだぼっとした長い脚が浮かんでいる。
ヤバい。
恐怖のあまり、全然心の中にしまっておけず、声に出して大いに叫んだ。
「出たあ!」
「いやいや、雨、強いですね」
なんでお前、屋根の下入れよ。
いや、ていうか、キレてるよね。わかるもん。
よく似合うレインコートの頭のとこをつまんで、形のいい顎と一緒にくっと持ち上げる。
「ちょっと、雨宿りしましょうよ」
右目と左腕のない怨霊が、足をひきずりながら、手はそのまま、どこからか俺のポケットにスポーツドリンクの缶をねじ込んできた。
クソ怖い。
レイプされる前の女の子の気持ち。
差別発言じゃないよね?
いや、だってマジ、そうなんだって。
横にDV、未成年淫行疑い濃厚の男ががっつり立ってるし。
状況証拠で言えば精神的レイプじゃないの? 違う?
なんで大雨の中でも冷えたスポドリ出してくんの?
キモすぎる。
「まだ痛むんですよ」
「ごめんね」
オードリーみたいな掛け合いをしてしまう。俺が春日なのかよ。
見てるんなら助けに来てくれないかな?
空気が終わり果てているから、ただ俺の手を取ってくれればいいから。
俺と君たちとのこの距離感ってRAINBOW GIRLみたいだよね。
知らない? 教科書に載せたほうがいいよ。オタク嫌いのオタクが生まれたきっかけの一つだ。
「ずっと争いについて考えていました」
「ああそう。怪我してから、さらにもっと考えた?」
「はい」
「じゃあアホだよ、お前」
そうかもしれません、と笑う。
俺はようやくこの男の違和感に気づいた。
顔が整形っぽいとか、そういうのじゃない。
こいつとの会話、異様に続かないんだよ。
何か興味のあるものが絡んでないと、こっちに少しも話を振らない。
そしてこいつは、それが平気なんだ。
気まずさとかを全く感じてない。
「この缶が足々女様で、その缶が不見神織無とします」
「例え話は難しいんじゃねえの」
ほら急にこういうの始まる。
いや、俺は逆に例え話ばかりなんだけど。戒めろってのか?
「缶と缶は拮抗しています。いつも喧嘩ばかり」
「いいや、缶は無機物だから喧嘩しない」
「比喩ですよ。それに今やAIとAIは喧嘩します」
「それは結局人と人が……ああ、ああ」
わかったよ。今までで一番ちょっと一理あった。
敗者は手を”どうぞ”とやって勝者に続けていただく。
「たとえば、足々女様が死んだとしますね」
重柄が手から下手くそな例えを落として、足を軽くあげ、めしゃりと潰した。
殺すな。
「さて、僕が今持っているものはなんですか?」
「例え下ッ手くそだな! マジで!」
「おかしいな」
やり返したつもりなんですけど、と笑う。
こいつはいつも笑っていて、俺はいつも怒っている。
「つまり、この拮抗する二つ。この片方が崩れた時、ここには何が入ると思います?」
「織無、って答えとは違うの?」
「違います。おはじきは二つしかありません。それ以外で」
一体どこから、おはじき。
いや、例え話の腕前がマジでヤバいのはさておいて——
まあ、そうだな、どうやらカードを差し出されているみたいだ。
ババを引いてほしくてたまらないって感じに。
「ビー玉とか、花札とか」
「そうです、ここには別の何かが入る」
ああ、いいのね。それで。
「不見神織無の力を感じて思いついたんですよ」
「飛んでるよ、飛んでるって」
「そもそも、幸せと不幸せは誰が決めてるんです?」
もしかして、相槌、何でもいいの?
次はアホって言ってみようかな。
「知木先生はあの時、空に向けて問題提起をしたんだと思うんです」
「ア~ホ」
「もっと大きな事を決めている者がいるんですよ。織無の力で運が尽きれば人は死ぬ。 つまり知木先生が死ぬ、その事自体は決まっていた運命なのに、他の人に巻き込まれて運良く死ななかった。確定の中のランダムなんです。だって、みっつのコインがあったなら、ふたつのコインが表で、ひとつのコインは裏しか出ないはずだったんですよ。それを、さて表が出るか裏か出るかとねじ曲げた誰かがいる、玉座の上でほくそ笑んでいる。場に出たカードは織無じゃない。足々女様でもない。えこひいきじゃないですか。平等すぎる勝負が完全なる不和の連鎖を生む。これこそは矛盾だ」
重柄は穏やかだった語調をクレッシェンドじゃなくフェードインみたいに強めて、上を指さした。
甘い缶をちびちびやるついでに見上げてやると、電灯に虫が群がっている。
「僕らはここにいる僕ら。あの虫たち全ては足々女様や不見神織無。そして灯りは、その何者か」
「ここまで聞いといて悪いんだけど、何言ってんだか全然わかんない」
いや、嘘だ。
ちょっとだけわかる気もしていた。
国語教師である俺の出番なんだろうか。
しょうがない、噛み砕いてやるとしよう。
「だから、たぶん上には上がいる」
「そうッ!」
どかん、だか、どごん、だかわからないけど。
ああ、まずい。
俺が噛み砕いたの、でっかい爆弾だったらしいわ。
頭が割れる轟音だ。
悲鳴がそこらじゅうから響いて、車のクラクションやアラートがあちこちから鳴っている。
スーパーの壁が、緑銀の触腕にぶち抜かれていた。
なんなの?
「そうッ!」で自分のスイッチ入れた?
お前、宇宙人?
国語の先生が自分のまとまらない考えそのものズバリを言ってくれて、それに大いに同調までしてくれているのに、重柄は怒っていた。最後に見た時の顔だ。全く笑ってない。
なんか、ない頭で考えすぎて、あっちに行っちゃったのかな、こいつ。
いや、いけるほどのタマでもないよな。
「カワラズ! お前は触れてはいけないものに触れたんだ!」
見て。俺、怖すぎて棒立ち。
罵声を恐れたカラスと、ほとんどの人は脱出を終えたみたいだ。
もしくは……わあすごい、そんなとこに隠れてるのね。
「悪びれもせず、よくも、アホ呼ばわりまでしてくれたな! 二度もだ! 二度も言った!」
カラスだけどさ、あいつら、すっげえ賢いらしいよ。
俺はカラスよりヒトの俺の方が賢いと思ってたけど、こいつ見てたらそうかもって思えてきた。
いやあ、スイッチ入るタイプってこうなのね。
しばらく一緒に過ごした俺が生きている奇跡に感謝だ。
前からこうだって言ってたよね、アタリメ様。じゃあ頭おかしいよ。
勉強になった。勉強になったからさ。
「僕の目標はもはやお前でもなければ、足々女様でもない!」
ぶん、と性懲りもなく前みたいに振りかぶってるけど、なんか、それが尋常じゃない。
人って絶え間なく成長してるんだ。こんなのでも成長するんだから。
一本が、ほら、あの、世界遺産のさ、すげえ樹の幹みたいに膨れて、ずずーっと裂けて、だんだん二本になって、ああ、かなり頭が悪い感じになっちゃうけど、今まさにワサワサ三本になってるところ。
でんぐり返しじゃ避けらんないね。
いや、それはないでしょ?
あんだけやっといて、死ぬの?
どうだろう、死ぬと思う?
コインを投げてみよう、裏を向いてる気がする。
嫌だ、死にたくない!
「大いなるもののために死ね! カワラズ!」
まあ、死なない。
これだけ間をたっぷり取れたんだから、俺は死なない。
こんくらいの事、たぶん、ずっと、これからも起こる。
死が直面した時、実際死ぬほど焦ってる。
ただ、そういう時、どこか何かもわからない底の底で、心が研ぎ澄まされている。
いつも最悪な状況が腑に落ちるんだ。
きっと重柄にも強いものがあって、それってのが多分、俺とは真逆の感覚なんだと思う。
わかんないよ、俺にもわかんないけど。
ああ待って、予想がズバリ当たるとカッコいいから一応言わせて。これは仕掛けでもなんでもない。でもさっきから車の盗難防止アラートが鳴りっぱなしだよね。
当然、異形の腕は俺に向かって振り下ろされた。
——感じた事のない衝撃。
初めての衝撃。
異形と異形がぶつかり合った衝撃。
”生まれて初めてほっとした”織無を、頭の中に感じてた。
駆けつけようとした織無は、すぐに駆けつけなかった。
三本の触手と、三本の触手。
一つの腕に三本と。
三つの腕に一本ずつ。
食い止めた。
「上をいく、最ッ低の、クソ男!」
“地味系”の腕が触手になって食い止めた。
「うわあ、これ、もう! これ、ほんと、最悪なんだけど!」
“コンタクト”の腕が次に触手になって、
「早く、早く車乗れ! パチカス!」
“彼女いない奴”の腕も触手。
一緒に乗ってた、車の中。
皆で一緒に何か食べたいって、急にコンタクトが言い出したから。
ちょうど、急に先生の家に行きたいって思ってたから、そう言った。
車に乗せたまま入った、スーパーの中。
スーパーの中に入っていった。
六時半。
六時三十一分。
あの能面がいた。
あの首をもたげる怪物がいた。
車のドアが故障で空いた。
三人は少し悩んだけど、すぐ駆け出した。
「エンジンに手こずる確率って誰か統計取って計算してそうじゃない!? かかったわ」
よかった、だから先生は今、車に乗った。
「こけし一号! こけし二号! 聞こえないのか!? あいつを轢き殺す間、このスマホで調べといてほしいんだ! ここに入力する、いいか!? 自分、殺意、相手、車、突っ込む、正当防衛、無罪、事例!」
先生。
ねえ、先生。
今日の織無、元気で嬉しそうなんだよ。
いつか死ぬのに、嬉しそうなんだよ。
先生が死ぬのは、三織も五織もすごく嫌。
だけど先生が死ぬのはきっと、織無にとっては幸せな事。
先生がいないほうが、ずっと長く生きられる。
次の三織と五織の中で長く生きられる。
どうして?
——さあ、どうしてだろうな!
俺様は落ちる雷に乗せ、見える全てに力のセーフティロックをかけた。
膝を深く折り、濡れたボロのアスファルトを思いっきり蹴ってクレーターを作ると、ちょうど「ぎゃあん」とオカマみてえな鳴き声で逆方向にぶっ飛んでいくダッセぇ肌色の廃車を背に、プランもクソもなく、太刀をブチ込むためだけに一直線に突っ込んでいく。
なぜぶった斬るか。答えは、メガネのアホ面を見たくねえからだ。
そして弾丸の雨、うすらぼけた月に向けて、クレーターをもう一つ。
ふけていく夜をちぎるように俺様は跳んだ。
瞬間、ゲス野郎と目が合ったから、たっぷり見下して、ぎりりと笑ってやった。
人と人との戦いが一旦止まり、嘲笑われた使い走りは下からこっちを見てる。
安心しろよ。
てめえの相手はガキどもと、俺様の自慢の姉貴。もしかすると、バカなメガネだ。
構ってるヒマはねえんだ。
今のうちに徳を積まなくっちゃあならねえからよ、悪ぃな。
神の力を借りて、神の名のもとに戦う、神もどき。
その人間を超えた、うねる、けして神ではない姿。
疫病神に対抗すべく、貧乏神の力を借りて、神ならざる者と戦う。
狂信を得るもの、狂信を壊すもの、狂信を超えるもの。
最強の盾、最強の矛、無限大の矛盾。
まったく、どこまで行っても人間らしいぜ。
底辺の両端に俺様、もう片方にはババア。
ぎちぎち釣り合う一つの線。
あの雲の奥の奥みてえに、最も高い点に置かれた永遠。
永遠が一方的に繋いだ長い長い二本線に囲まれてんのが、人間。
いつもいつも、人間は大きな三角形の中をうろついてる。
そう思ってたんだ。
ちりん、と紐が揺れる。
そうだ、そろそろ頃合いなんだろ。
一本線のひとり相撲じゃ決着なんてつきやしねえんだよ。
だから俺様は降りる事に決めたんだ。
重力が後ろ髪を引いて、空がぽかんとうつろに映る。
おい、どうだ、てめえもいっそ一緒にやるか。
どうせ、どうしようもねえ出来レースだ。
そうだろ?
ああ、俺様は死ぬのも、特性を失う事すらも恐れてる。
人間が当たり前みてぇに繰り返している事を、こんな力の中にありながら。
てめえほど小賢しい奴もいねえんだ。
全部を全部、どこかでわかっちゃあいるんだろう。
色褪せた髪は煙のごとく上へと持ち上がりつつある。
切っ先が鞘の中をじゃらりと奏でて、どっちつかずな暗がりにまた線を残す。
てめえだって、俺様と同じものに怯えてんだろう。
てめえにも、きっと、同じ答えは見えてんだろう。
俺様とてめえは、もともと誰の、何から産まれた者だったか。
この張り詰めた一本線の、どちら側が内で、どちら側が外なのか。
なあ。
笑っちまうくらいに、お互いビビリの負けず嫌いだよな。
二人してそこに目をやった事すら無ぇならよお——
「未来より悪ぃ今も無ぇだろうが!」
ぐ、と刀に弾力が伝わる。
ぬたり、甘い匂いがぶわっと広がる。
「それなら、今よりも過去はずっといいものだわ」
どぱんと斬り慣れた手応えが合図、今は愉悦のままにひしゃげる銀と金の眼。
雨粒はわずか遅れて吹き飛んだ。
指を3つ折ればチョキ、5つ折ればグー、折らなければパーということで不見神(3すくみ)です。みすくみとは読まないよね? 足々女はあの…あの…フォルムがイカに似てるとか……そういうのでお願いします…




